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2017年11月30日木曜日

古事記 (16) 神功皇后の謎と応神天皇


古事記や日本書紀を歴史書と考えて、西暦と対応させることはかなりの困難を伴います。神代については、もしも史実として実在するなら、もうまったく何でもありで、旧石器時代から古墳時代のどこでもいいわけです。神武天皇即位が辛酉の年と記載され、事実か否かは別として、かろうじて紀元前660年と決まります。

そこから各天皇の在位年数などの記載を真に受けて考えると、ヤマトタケルが活躍するのは西暦100年頃のこと。仲哀天皇が急死して、神功皇后が三韓征伐に乗り出すのが西暦200年頃。238年に魏国に使いを出し、ここから大陸との往来が頻繁になり、神功皇后が亡くなるのが269年ということになります。

一方、魏志倭人伝の記述で邪馬台国の卑弥呼が死去するのは247年か248年と考えられていて、「ほぼ当たり」とするか「まったくはずれ」とするかは考え方しだい。

いずれにしても、7世紀に記紀編纂が始まった時点では、日本書紀の神功皇后についての記載に意図的に引用されている事実から、魏志倭人伝の存在とその内容は日本でも知られていたことは間違いない。にもかかわらず、一言一句「邪馬台国」も「卑弥呼」も記紀に登場しないのは何故か。

考えにくいのですが、ヤマト王権とはまったく別の対抗勢力である場合があります。この場合、邪馬台国の場所は九州しかなく、ヤマト王権からすれば敗者の話なので無視・・・なんだけど、完全黙殺できない何かの事情があったとしか思えません。

ヤマト王権と直接の関わりのある集団だった場合は、畿内説が浮上しますが、九州だとしてもかまわない。記紀に記載しなかった理由は、先進国としての中国側への対抗心が最も大きいだろうと言われています。

何故なら、「邪馬台国」は「ヤマト国」の意味ともとれますが、当てた漢字は邪(よこしま)。「卑弥呼」も「姫命(ひめのみこと)」の意味かもしれませんがも使われた漢字は卑(いやしい)です。つまり、魏からすれば、かなり高飛車なかなりの上から目線の表現なので、ヤマトからすれば到底承服しかねる。

自分たちのかつての支配者を、そんな風に呼ばれて、そのまま記載するわけにはいかなかったということだろうと。なにしろ、特に日本書紀は、ヤマト王権の「正史」として天皇の神格化と支配の正当性を徹底的に謳い上げることが最大の目的です。そのためには、いくらでも創作神話の挿入も厭わない編集方針ですからね。

ここまでの話は、記紀のいずれも事実だとしてもかなりの脚色があることは間違いありません。神功皇后の息子のホムダワケは即位して応神天皇となりますが、やっとこのあたりからは実在については確実視されるようになります。

そして、応神天皇は世継ぎ候補として三人の皇太子がいましたが、末っ子の寵愛する宇遅能和紀郎子(ウジノワキイラッコ)を筆頭に考えていました。

兄の大山守命(オオヤマモリノミコト)と大雀命(オオサザキノミコト)を呼び「兄弟ではどっちが可愛いか」と尋ねます。オオヤマモリは、当然先に生まれた兄だと答え、オオサザキは天皇の質問の意図をくんで「弟です」と答えました。その結果、オオヤマモリは地方長官、オオサザキは官房長官という役どころにつかされます。

応神天皇が亡くなると、オオヤマモリは挙兵して天下をとろうとしますが、ウジノワキイラッコとオオサザキは協力してこれを討ちます。その後ウジノワキイラッコは自分は天皇の器ではないと言い、二人の間で天皇位の譲り合いが続きましたが、ウジノワキイラッコが急死(病死? 他殺? 自殺?)したため、オオサザキが即位します。社会科の教科書で、最も有名な前方後円墳の主、仁徳天皇の誕生です。以上で、古事記中つ巻は終了。

総合的に考えると、ヤマト王権の成立過程の説明が主たる内容でした。神武により国内統一の道筋がしめされ、ヤマトタケルにより実際に東西を平定し支配域を固め、そして神功により外国も従属させるという、大河ドラマも追いつけない壮大なスケールの話。

神武天皇以来800年近い年月の話ということになりますが、実際は2世紀から4世紀頃までの数百年くらいの出来事が基になっているのだろうと考えられているようです。