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2017年11月14日火曜日

記紀神話から消された歴史


とにかく日本の歴史ミステリー、歴史ロマンと言われるような話では、このことを除いては語れないほど注目度が高いのが「邪馬台国」であり、女王である「卑弥呼」の存在です。

邪馬台国が存在したと考えられる3世紀のことは、古事記も日本書紀も時系列として含まれているにもかかわらず、古事記には一切の記述はありません。日本書紀でも、備考としてそれらしきことが顔を出す程度の扱い。

にもかかわらず、その存在を否定しない最大の理由は中国の正史に記載があるからに他なりません。その書は、有名な「魏志倭人伝」と呼ばれているものです。

ただし、正確には魏志倭人伝という書物は存在せず、3世紀後半に当時の晋(しん)によって正史としてまとめられた「三国志」の一部である「魏志」の中に周辺諸国をレポートした「東夷伝」があり、その中の「倭人」について書かれたわずか二千文字程度の文章です。

江戸時代の儒学者、新井白石によって最初の研究が始まりました。新井白石は、魏志倭人伝に書かれた倭国への道程を当時の地名と対照させて、邪馬台国は大和国(奈良県)にあったととしました。しかし、晩年には、書かれた地名を中国語の発音で再度検討した結果、邪馬台国は筑後国山門(やまと)郡であると意見を翻しています。

「古事記伝」で有名な本居宣長は、邪馬台国は大和にあり女王もいたが、九州にいた卑弥呼が女王のふりをして中国から来た三国志編集者を騙したという説を持ち出しました。

その後、主に邪馬台国の所在地は畿内説と九州説に分かれた熾烈な論争は今に至るも続いており、さらに全国各地にここが邪馬台国と言い出すところが群雄割拠する事態が継続しています。

主として魏志倭人伝の書かれた中身を検討する歴史学者は九州説をとるものが多く、考古学の立場からは各地の遺跡からの出土品という「物証」より畿内説を主張する傾向があるようです。

特にキーアイテムとされるのが「三角縁神獣鏡」と呼ばれる物。魏国が卑弥呼に鏡を百枚送ったということが記されているため、中国から伝わったこの鏡の遺跡からの出土状況が議論の是非の根拠として持ち出されます。

いずれにしても、弥生時代後期、大和朝廷が確立する直前の人々の生活はどんな風だったのでしょうか。ある程度、まとまった集落を防衛的な目的の壁などで囲って「都市」とも言える共同生活の場を形成していたようです。当然、これは日本で最も古い国の前身と考えることができます。

魏志倭人伝の記載から、おそらく3世紀にそれぞれの集落が戦国時代に入り、30国を従えた邪馬台国が卑弥呼を担ぎ上げてのし上がってきます。邪馬台国では租税制度があり、身分階級制度が導入されていました。

卑弥呼は記載された時点では、すでに高齢で独身、弟が政治を補佐していたらしい。また住む場所は、一般人の住む囲いのある都市とは別の場所で、多くの警備人員を配していました。これはこの後の古墳時代の首長の住居に似ているのだそうです。

239年に卑弥呼は魏国へ特使を派遣し、外交関係を築き、魏の皇帝から「親魏倭王」の称号を得ることに成功します。その後邪馬台国は狗奴国(一般的には南九州と考えられています)との激しい勢力争いになり、魏国が加勢しおそらく邪馬台国の勝利になったのだろうと思われますが、その戦乱の半ばの248年に卑弥呼は死去したと記されています。

結局、邪馬台国はどこにあったのか、女王・卑弥呼とは誰なのか、その後の歴史の中で大和朝廷との関係はどうなっているのか、記紀に記載が無いのは何故なのか、とにかく興味は尽きませんが、現在までに誰もが納得する答えは見つかっていません。