夏季臨時休診
夏季臨時休診のお知らせ
8月14日(金)~8月19日(水)臨時休診します。
2020年1月31日金曜日
街中のワンコ
チワワです。
カットの仕方で、犬の外観はずいぶんと変わりますが、チワワはだいたいこんな感じが多い。
そもそも体は小さくて、目がくりくりと大きいから、似たような見た目になります。
平成14年から数年間、某消費者ローンのCMで、一躍人気者になりました。
CMが中止された理由は、実は消費者ローンの被害者が作る会からの「CMと実際の業務とのイメージが違う」という苦情がきっかけ。
チワワのせいじゃありませんけど、CMが消えるのと同時に、街中で見かける機会は減ったように思います。
チワワの名前は、メキシコのチワワが原産地とされるから。世界一小さい犬種とされていますが、大きさの割には大きな犬にもつっかかる無謀な性格もあって、元気一杯です。
2020年1月30日木曜日
日本のクラシックは「オタク」に殺されつつある
今月発売されたばかりの自著「クラシックへの挑戦状(中央公論新社)」の内容を雑誌「PRESIDENT」で紹介するオンライン記事です。以下、その主張を一部引用します。
クラシック音楽界は、残念ながら衰退の道を辿っているといわざるをえません。1990年代以降クラシック音楽界は徐々に勢いを失っていったように思います。
いつからか、音楽専門誌で書かれている評論は、極端にオタク的なものとなっていきました。アマチュアのそれこそオタクのような人か、音楽家志望だった中途半端な人たちや自称音楽ジャーナリストやライターが、評論サイドの個人的嗜好を知らされるだけで本当に有益な情報を得られる場所がなくなってしまったのです。
こうした積み重ねがどんな状況を生んだか。日本のクラシック音楽の聴衆の間に、極端なオタク的感性を持つ人が増えてしまいました。自分の好き嫌いがはっきりしていて、嫌いなものは認めない。排他的な感性を持つ人を増やしてしまったといえるでしょう。
もちろん私たち演奏の現場にいる人間の責任も大きい。しかし立ち止まることもできず、毎日ひたすら走り続けている演奏の現場を高い見識を持って社会と結びつけてくれるパイプの役割を果たすのが、評論やジャーナリズムのはずです。
評論家やジャーナリストに、自分もクラシック音楽界の一翼を担っているのだという大きな責任感や使命感を持ち、自分自身の実力と置かれている立場を理解している人が少なくなってしまったのではないかと思います。
以上、一部省略はしましたが、大意は変わっていないと思います。
まず、最初にはっきりしておきたいことは、この記事に対しては非常に違和感を覚え、ほぼ賛同できないということ。おそらく、そのくらいのことを明言できるくらい、自分はクラシック音楽を聴いていると思います。
それこそ、自分も大友氏の言う「クラシックおたく」であろうと認めますが、「クラシック音楽が衰退している」ことには強く同意します。ただし、その理由を評論家の責任に転嫁している点はいかがなものかと。
クラシック音楽に限らず、古典芸能は「古典」と言われ始めた時点で、伝統に縛られ変革を拒否する、あるいはできない芸術になってしまうと思います。歌舞伎しかり、落語しかり、場合によっては大相撲もそうだと思います。
特にクラシック音楽は、楽譜を忠実に演奏することが求められ、過去の大家の曲は有限資産です。ベートーヴェンがそのまま生き続けて、新曲を書き続けているわけではありません。
もともと、宗教色の強い現場から始まった音楽が、日常的な娯楽として定着し繰り返し演奏され、次第に形式が固まっていきました。作曲家が亡くなれば、その曲は基本的にロックされて、時代が変わると古典と呼ばれ身動きが取れないものになっていきました。
当然時代の変化に合わせられなくなり、衰退していくのは宿命的な部分があることは認めざるをえない。時代のニーズに合わせられないのであれば、いつまでも同じ場所を掘り下げていくしかないわけですから、当然演奏する側も聴いて楽しむ側も「オタク」化していくのは必然だと思います。
つまり、クラシック音楽のオタクは今に始まったわけでなく、オタクが増えたのではなく、インターネットの普及も手伝ってオタクが情報発信を容易にできる環境が増えたというのが正しいのではないでしょうか。
好き嫌いがはっきりしているのは、聴衆の側としては当然です。芸術全般に言えることだろうと思いますが、芸術は生きていく上で必須ではなく、あくまでも人生を豊かに装飾するものですから、そこに好き嫌いが入り込む余地はあるわけで、あえて好まない物を聴く必要はありません。
あえて嫌いなものも聴こうとしても、すべてを網羅することは仕事にしている評論家でも不可能だと思います。逆に、今の情報社会では、嫌いなものの情報も容易に得られるようになったので、選択しやすくなったということは言えるかもしれません。
実際に、時代に合わせてサイモン・ラトルは、ベルンフィルを改革することにある程度成功したと言えます。自主レーベルを立ち上げ、デジタル化を促進し、聴く側の環境に合わせて音楽メディアの形式を選択できるようにしました。
ソースを変えられないのであれば、外部の評論に頼っているだけでは消退していくことは避けられない。音楽を作る側から、時代に合わせた変化が求められているということじゃないかと思います。
もっとも、これはクラシック音楽だけに限らない、すべてのことに云えそうです。そのことが良いかどうかは、後年にならないと評価できないことだろうと思います。少なくとも、現時点では「オタク」のファンがクラシック音楽を支えているということも、音楽を作る側は忘れてはいけない事実だろうと思います。
2020年1月29日水曜日
2020年1月28日火曜日
2020年1月27日月曜日
Pierre Boulez / Mahler Complete Symphonies (1994-2010)
1967年にセルに変わってクリーブランド管弦楽団の音楽監督に就任してから世界的に注目されるようになり、1970年にフランス国立音響音楽研究所を創設、自らも作曲家として活動し、間違いなく理論家です。
ドビッシー、ラヴェルなどのフランス物が得意なのは当然の事、1976~1980年のバイロイト音楽祭でワーグナーの「指輪」全曲をモダンな新演出で演奏し、物議をかもしたことは記憶に新しい。
マーラーについては70年代にニューヨークフィルとの録音が数曲ありますが、本格的なチクルスを開始したのは1994年のDG録音からで、交響曲はだけでなく、オーケストラ伴奏歌曲、嘆きの歌、大地の歌、葬礼も含めて指揮者が関与するものは「花の章」以外は網羅しました。ただし、オーケストラはいろいろで、DGからすべてをまとめたボックスが発売されています。
交響曲第1番(1998) シカゴ響
交響曲第2番(2005) ウィーンフィル クリスチーネ・シェーファー、ミシェル・デヤング
交響曲第3番(2001) ウィーンフィル アンネ・ゾフィー・フォン・オッター
交響曲第4番(1998) クリーブランド管 ジュリアナ・バンセ
交響曲第5番(1996) ウィーンフィル
交響曲第6番(1994) ウィーンフィル
交響曲第7番(1994) クリーブランド管
交響曲第8番(2007) ベルリン国立歌劇場管
大地の歌(1999) ウィーンフィル ヴィオレッタ・ウルマーナ、ミハエル・シァーデ
交響曲第9番(1995) シカゴ響
交響曲第10番(アダージョのみ、2010) クリーブランド管
葬礼(1996) シカゴ響
嘆きの歌(2部構成、2011) ウィーンフィル アンナ・ラーション、ヨハン・ボータ、ドロシア・レシュマン (ザルツブルク祭、ビデオあり)
少年の魔法の角笛(2010) クリーブランド管 マグダレーナ・コジェナー、クリスチャンゲルハーヘル (10番カップリングでビデオあり)
さすらう若人の歌(2003) ウィーンフィル トーマス・クバストホフ
リュッケルト歌曲集(2003) ウィーンフィル ヴィオレッタ・ウルマーナ
亡き子をしのぶ歌(20003) ウィーンフィル アンネ・ゾフィー・フォン・オッター
個人的にはフォン・オッターが登場するのが嬉しいのですが、リュッケルト歌曲集がなんでウルマーナ(S)なのかという疑問は残ります。確かに美声で嫌いじゃないんですけど、男声でも女声でも可となっているということは、ソプラノの高い声はあまり相応しくないように思います。
ブーレーズのマーラーは、基本的に曲の構造を明確にして、感情に流されない「超客観的演奏」というような評価をされています。それは、ある時は成功しているようだし、ある時はつまらない演奏になっていることは否定できません。
音符の一つ一つをはっきりと音にするような感じで、バーンスタインが太かったり細かったり、時には曲がりくねる筆だとするなら、ブーレーズはひたすら点を打っていくような感じで、フランスの点描印象派の代表であるスーラの絵画みたいです。
交響曲の第3番と第8番だけはさすがに長いのでCD2枚にまたがりますが、驚くことに他はすべてCD1枚におさまっている。つまり、全体に速度が速いわけですが、それほど早い印象がありません。おそらくブーレーズが考える無駄な間を省いたり、やたらと音を長く引っ張ったりしないことが関係しているのかもしれません。
こういうマーラーは、らしいのからしくないのか意見は分かれるところですが、自分は嫌いではありません。くどくどしたのが好みじゃなく、すっきりしたマーラーを聴きたい向きにはお勧めです。
2020年1月26日日曜日
Klaus Tennstedt LPO / Mahler Complete Symphonies (1977-1986)
1977年にロンドン・フィルハーモニー管弦楽団と毎年1曲、マーラーをスタジオ収録していました。1983年に同オケの音楽監督に就任して、いよいよこれからという1985年に喉頭ガンを発症しました。以後は治療を続け、体調を見ながらの制限された活動を行いましたが、1993年夏以降状態が悪化し事実上引退しています。
この全集は、EMIのドル箱の一つとなり、たびたび廉価版ボックスとして登場していますが、基本的な録音は、1977年 交響曲第1番、1978年 交響曲第5番、第10番(アダージョのみ)、1979年 交響曲第3番、第9番、1980年 交響曲第7番、1981年 交響曲第2番、1982年 交響曲第4番、1983年 交響曲第6番、ガン発症後の1986年 交響曲第8番となっています。
EMIがWernerに吸収された後の現行盤では、さらに1982年(と1984年)の大地の歌、ライプ録音された1988年 交響曲第5番、1991年 交響曲第6番、1993年 交響曲第7番が追加されています。1993年の第7番は、正規としてはテンシュテットの生涯最後の録音です。
これら以外にも、ハンブルク北ドイツ放送交響楽団とのライブ集、ロンドフィルの自主製作ライブ集、シカゴ響との第1番ライブなどが登場しており、短い活動期間だったことを考えると、テンシュテットがマーラーに費やした時間はかなりの割合だったと思います。
スタジオでのセッション収録の全集は、いずれも主観と客観が同居するバランスの取れた名演なのですが、一般的にはEMIの録音がいまいちで、また残念ながらロンドフィルもオケとしては一流とは云い難いという感想が多いようです。
とは言っても、そこまで細かいことにこだわる必要があるのかという程度であって、純粋に音を楽しむということであれば、些細なことのように思います。
ただし、むしろライブ録音の方が、指揮者・オケ共に緊張感のある好演を残していると言われています。特にガン発症後は、一つ一つの集中力が高く、いずれも高く評価されているので、できれば合わせて聴きたいところです。
2020年1月25日土曜日
2つの硬貨
だから何?! と言われれば、ぐーの音も出ないような話ですが・・・
同じ年なのに、違うデザインの硬貨が作られていた、ということに何となく面白いなと思っただけ。
昭和64年と平成元年も、西暦で言えばどちらも1989年。ただし、昭和64年は1月7日まででしたから、年明け早々でおそらく作られた硬貨は無いのでは。
と思ったら、実は天皇陛下が亡くなって急に元号が変わった関係で、3月までは「昭和64年」の刻印のまま作っていたそうです。
今回の平成から令和への変更は、数年かけて周到に準備されたので、5月1日をもって令和になってすぐに硬貨の鋳造も切り替わっているんだと思います。
同じ年に、違う刻印。そりゃまぁ当然ですけど、何か珍しい物を見たような気になりました(実際にはまったく珍しくないんですけど)。
2020年1月24日金曜日
Georg Solti CSO / Mahler Complete Symphonies (1970-1983)
ゲオルク・ショルティ (Georg Solti, 1912-1997)はハンガリー生まれのユダヤ系で、大戦後から指揮者として注目され、やはり一番の功績はシカゴ交響楽団の音楽監督を1969年から1991年まで続けたこと。1972年にイギリス国籍を得て、ナイトを叙勲されSirの称号で呼ばれます。
ショルティのマーラーは、現在全集としてボックスセット化されているものは、1970年の第5番と第6番から始まり、1971年の第7番と第8番(ミントン、ポップ、コロなど)、そして間があいて1980年の第2番(イソベル・ブキャナン、ミラ・サーカイ)、1982年の第3番(ヘルガ・デルネシュ)と第9番、1983年の第1番と第4番(キリ・テ・カナワ)という組み合わせになっています。
全集に含まれませんでしたが、シカゴ響とは、1970年にはさすらう若人の歌と少年の魔法の角笛の一部をイボンヌ・ミントン(Ms)の歌唱で、そして1972年には大地の歌をミントン、ルネ・コロ(T)の歌唱で録音しています。
さらに1990年には第5番の再録音もありますが、第10番の録音は残っていないようです。ショルティのマーラーはシカゴ以前に、RCOと1961年の第4番と大地の歌、ロンドン交響楽団と1964年の第1番、1966年の第2番、1967年の第9番、1968年の第3番を録音しており、曲によっては好みが別れるところ。
第7番のところでも書きましたが、ショルティのシカゴは金管楽器の響きが特徴とされ、ブラスが元気一杯になるところはまさに「健康優良児」なのですが、その金管を引き立てているのが打楽器。ティンパニーは響きを抑えて、比較的乾いた打音でびしびしとしている。これは、「ドーン」ではなく「ドン!」という感じで、元気印を増していると思います。
じゃあ、弦楽器は弱々しいのかというと、弦楽器が目立つ第9番を聴いていると、これもけっこうしっかりと音を出しています。個人的な感覚ですけど、最後ではバーンスタインは悲壮感を持って死を迎える感じですが、ショルティはやることをやって胸を張って死んでいく・・・というところ。
ショルティはシカゴと最初に録音したのが第5番であり、そして唯一再録音したのも第5番。さらにいうと1997年、亡くなる2か月前のチューリッヒ・トーンハレ管弦楽団との最後のライブでの演奏曲目も第5番でした。
最後が第5番というのは偶然でしょうけど、ショルティの気持ちとして第5番に何らかの思い入れがあっただろうことは容易に想像できます。
第10番は、実は1996年に初めてコンサートで演奏したのようですが、その時のオケがトーンハレ管でした。残念ながらメディアは登場していないようです。
2020年1月23日木曜日
Eliahu Inbal Frankfurt RSO / Mahler Complete Symphonies (1985,1986)
1974年から1990年までフランクフルト交響楽団の音楽監督を務め、オケの人気・実力を高めたました。ここで、オケとの強い信頼関係ガ築かれていたこともあってか、1985年と1986年の2年だけで(正味ほぼ1年間)第1~9番と第10番アダージョを録音してしまいました。
1985年
第1番、第4番
第2番 ヘレン・ドナート、ドリス・ゾッフェル
第3番 ドリス・ゾッフェル
第8番 フェイ・ロビンソン、テレサ・ケイヒル、ヒルデガルト・ハイヘレ、リヴィア・ブダイ、ジェーン・ヘンシェル、ケネス・リーゲル、ヘルマン・プライ、ハラルト・シュタム
1986年
第5番、第6番、第7番、第9番、第10番
1988年 大地の歌 ヤルド・ヴァン・ネス、ペーター・シュライアー
1992年 第10番(クック版)
これだけの短期間での収録は、マーラー録音史上最短ではないでしょうか (もっとも、1925年のMahler Feestでメンゲルベルクは一人で全曲指揮しましたけど)。現在入手しやすいボックスセットには、大地の歌(1988)、クック版第10番(1992)、少年の魔法の角笛・さすらう若人の歌(1996、ウィーン響)も含まれています。
ベルティーニと同じく、インバルもイスラエル出身。実はインバルも日本とのつながりが深い指揮者で、70年代の日本の三大オケであったN響、日本フィル、読売響にたびたび客演していました。
そして、ベルティーにと同じく1995年以降は東京都交響楽団との関係が強く、2度のマーラー交響曲全曲演奏会を行い、2014年からは桂冠指揮者となっています。
2度目の全曲演奏会は、それぞれが当時の最高品質の技術でライブ録音され発売されましたが、そのせいかCDが高価でボックス化もされていないため、逆にほとんど話題にならないのは残念なことです。
ベルティーニにしても、インバルにしても日本での知名度が高かったこともあって、当時の東芝EMI、DENNONが制作に深く関与していることもあり、その全集は日本向けの要素がたくさん含まれています。そのこともあって、日本のマーラー受容を一気に推進することに貢献したことは間違いありません。
どの指揮者の演奏が好みなのかは、最初に出会ったマーラーが誰の演奏だったかによるところが大きい。実際、自分も開眼したのはアバドのお陰ですから、ルツェルンのアバドのマーラーがスタンダードであって、それと比べてどうなんだろうと自然に思いながら聞いてしまいます。
インバルも、譜面の指示をきっちりと守るタイプの指揮者で、フランクフルトとの全集は全体的には透明感のあるものになっています。当然、激情型が好きな人は物足りない演奏と言う感想を持たれるかもとれません。
アバドは激情型ではありませんが、「円熟の味わい」というような「らしさ」があると思います。ベルティーニに比べると、インバルの方が「らしさ」を感じられるのですが、それを言葉で表すのが難しい。
最初に出会うとその人のスタンダードになりうるマーラーであることは間違いないのですが、フランクフルト響の演奏であることを考慮すると、21世紀になってパーヴォ・ヤルヴィによるビデオ全集の方が演奏能力は上がっているような印象もあります。
2020年1月22日水曜日
Gary Bertini Koln RSO / Mahler Complete Symphonies (1984-1991)
わざわざ、マーラー駆け出しの自分が書くまでもなく、たくさんの批評がいくらでもありますから、とりあえずあまり話題に上らない、隠れ名盤とか、珍品の話ばかりになっている。それはそれで貴重とも言えますが、やはり王道からはだいぶはずれてしまうことになります。
というわけで、一度軌道修正して、誰もが認める名演・名盤の話。交響曲全集を成しえた指揮者にスポットを当ててみます。
ガリー・ベルティーニ (Gary Bertini, 1927-2005) はイスラエルの指揮者で、1958年にバーンスタインと深いつながりがあるイスラエルフィルでデヴュー。イスラエル室内管、デトロイト、フランクフルトで活躍し、晩年は東京都交響楽団の音楽監督をしていたので日本ではまじめなクラシックファンにはお馴染み。
1983年から1991年は若杉弘の後任としてケルン放送交響楽団の首席として、世界に通用するオケに育て上げ、この間にマーラー全集(旧EMI)を完成させています。
特に第1番、第8番、第9番、大地の歌は日本のサントリーホールでライブ録音しています。第10番はアダージョのみです。
1984年 第6番
1985年 第3番 グヴェンドリン・キルレブルー
1987年 第4番 ルチア・ホップ
1990年 第5番、第7番
1991年
第1番、第9番、第10番(アダージョのみ)
第2番 クリスティーナ・ラーキ、クィヴァー
第8番 ユリア・ヴァラディ、マリー=アン・ヘッガンダー、マリア・ヴェヌーティ、アン・ハウェルズ、フローレンス・クイヴァー、パウル・フライ、アラン・タイタス、ジークフリート・フォーゲル
大地の歌 マリヤーナ・リポヴシェック、ベン・ヘプナー
2002年から2004年にかけて2回目の全集を目指して東京都響との録音がいくつか残されましたが、残念ながら未完に終わりました。
全集ともなると全体を通してすべてが名演とはいえないことはしばしばありますが、ベルティーニ盤はどれもが一定水準以上で、比較的短期間に出来上がったせいもあって全体のブレが少ない演奏。
演奏時間を見てもどれも標準的で、感情を込めすぎず(あるいは感情に流されず)にたんたんと演奏しているという印象ですが、きちんと押さえるところは押さえて透明感のようなものを感じます。
第4番の独唱はルチア・ポップ、大地の歌にはマリヤーナ・リポヴシェック、ベン・ヘプナーといったマーラー常連も登場します。
最初に出会うマーラーとしては、普通にお勧めできる全集だろうと思いました。
2020年1月21日火曜日
Hermann Scherchen / Mahler Symphony #7 (1953)
とは言っても、マーラー交響曲第6番、第9番のように狂気じみた速さで駆け抜けるわけではなく、今回は第7番で、どっちかと言うと、この曲の演奏としてはいいんじゃないかということで。
まだまだ修行が足りないと見えて、第7番はいまだに理解できないでいるんです。たぶんここで言う「理解する」というのは、基本的な構成が頭に入って、主旋律を続けて口ずさめるということじゃないかと思います。
この曲の場合、マーラーにしては珍しく「夜の音楽」と副題がついている第2、第4楽章に気持ちが行き過ぎるせいか、最終の第5楽章のどんちゃん騒ぎとのバランスが頭の中でいつまでたっても合わせられない感じがしています。
何度も聴いていると、特別につまらない曲だとは思わなくなってきているので、もう少し時間がかかりますが、馴染める予感はしています。
さて、一般に手に入るシェルヘンの第7番は3種類あるんですが、今回「いいんじゃないか」と思ったのは、タイトルにした1953年の物じゃなくて、1965年のトロント交響楽団との録音。残念ながら、年代の割には音質は良くない。全体にこもった音で、ダイナミックレンジもかなり狭めの印象です。
演奏時間は、18:40 - 12:57 - 8:23 - 13:04 - 16:40、全体で69:44です。
何だ、やっぱり爆速じゃん。まぁ、確かにそうなんですけど。クレンペラーの100分越えは別格として、通常は80分程度。
早めが多いネーメ・ヤルヴィだと
20:46 - 12:59 - 9:14 - 9:57 - 17:11、全体で70:07であまり変わらない。ただし、実際に聴くとかなり印象は違って、シェルヘンの方がかなり早い印象を受けるのは、はっきり言ってオケが下手でついていけてないということ。一番最後は鐘の音なんて、バラバラしすぎてせわしない。
ですから、とても名演として他人にお勧めするわけにはいかないんですが、あくまでもシェルヘンのマーラーとしては「いいんじゃないか」ということです。全体に速い事で、最後のどんちゃん騒ぎの違和感が少なくなりました。
ということは、その逆を考えているのがクレンペラーということなんでしょぅか。全体を遅くして最終楽章を浮き上がり過ぎないようにした・・・とは言っても、シェルヘンの後に聴くと、レコードの回転速度を間違えたのか(懐かしい表現!!)という感じ。
ちなみにタイトルにした1953年のシェルヘンはウィーン歌劇場管との演奏で、77:57という普通の時間。オケも落ち着いて実力を発揮していますが、逆に特にこれという特徴は無い普通に聴ける演奏になっている感じです。古い割に音質は良好。
もう一つはウィーン交響楽団との1950年の録音ですが、これはまだ聴く機会がありませんのでノーコメントです。
2020年1月20日月曜日
マーラー本
遅まきながらマーラーにはまってみると、予想通り巷には尊敬の念を込めて「マーラーおたく」と呼びたくなる人々が大勢いることが十二分にわかりました。
ネット社会になって、一般人でもいとも簡単に情報を発信できることが可能になり、採算が取れないと出版してもらえない書籍と違って、様々な情報が仮想現実空間の中を乱れ飛んでいます。
ただし、それが正しい情報かどうかは別の問題で、やはり一定の信憑性が担保された公的に出版された書籍は、より重要性が高まっているはずなんですが、現実にはネットの普及、電子書籍のシェア拡大などにより、出版物は減少し、本屋自体もどんどん縮小傾向にあります。
このままだと、何が正しくて何が誤っているかを正しく判断する力が人からどんどん無くなっていくのではないかという、大きなお世話みたいな勝手な危惧を感じてしまいます。
閑話休題。マーラーが亡くなったのは110年前。絵画でしか伝わらないベートーヴェンと違って、マーラーは写真が多数残されている時代の人物。にもかかわらず、マーラーの人と作品を知るための日本語で読むる資料は、人気の割には必ずしも多いとは言えません。
かつてマーラーは「(いつか)私の時代が来る」と言いましたが、一般に広く人気が出たのが1970年代から。このマーラー受容の遅れが影響しているのかもしれません。



前に紹介した東京書籍の「ブルックナー/マーラー事典」は、最も資料的価値の高いものだと思いますが、一般にマーラーを知るためによく用いられているのが妻アルマが後に回想した本ですが、アルマの主観による記述の信憑性についてはしばしば問題視されています。
アルマと結婚する以前については、20年間にわたり親交があったナターリエ・バウアー=レヒナーによる回想録が、マーラーの言葉をかなり正確に伝えていると言われています。これら二人の女性による「思い出」と伴に、マーラーの最も詳細な評伝を記述したのが、アンリ・ルイ・ド・ラ・グランジュです。
70年代に発表されてグランジュの著作は、なんと全3巻、3600ページにも及ぶ大作で、マーラー評伝の最高峰とされていますが、さすがに日本語訳は出ていないようですし、出ていてもそれを読み切ることはかなりの困難が予想されそうです。



そこで、グランジュのマーラー研究の評論集として編集された「グスタフ・マーラー 失われた無限を求めて(草思社、1993)」は、手頃な分量でそのエッセンスを知る手掛かりとして有効です。
テオドール・W. アドルノの「マーラー―音楽観相学 (法政大学出版局、1999)」は、やはりマーラー評論の名著らしいのですが、日本語の訳仕方のためかとにかく難解で、哲学書に近い感じがしてしまいます。この著書を引用している文章で、何となく匂いが漂えば満腹かもしれません。
日本人の著述としては、クラシック音楽の世界では大変有名人である故・吉田秀和氏の評論があります。これは現在では「決定版 マーラー(河出書房新社)」という手頃な文庫本として集められており、マーラー愛好者なら一度は目を通すべきものと言えるかもしれません。



また、前島良雄氏の「マーラー 輝かしい日々と断ち切られた未来(アルファベータ、2011)」と「マーラーを識る(アルファベータ、2014)」は、マーラーの作られた多くのイメージを排除し、前者は人物像、後者は作品論に焦点をあてて、その実像を浮かび上がらせた労作として高く評価されています。
マーラー自身は、「理性ではなく直感で聴いてもらいたい」と言って、細かく分析されることは嫌悪していたらしいので、こういう本の類が増えることは作曲者の意思に反することかもしれません。
確かに、音楽ですから音を楽しむことが重要で、これらの文章は理解を深めより楽しむための助けであって、絶対的に必要なものではありません。当然、自分もほとんど読んでいません。どうしても、どれか一つは欲しいと言うなら「事典」ですが、さらに知りたいという方は前島氏のものがお勧めです。
ネット社会になって、一般人でもいとも簡単に情報を発信できることが可能になり、採算が取れないと出版してもらえない書籍と違って、様々な情報が仮想現実空間の中を乱れ飛んでいます。
ただし、それが正しい情報かどうかは別の問題で、やはり一定の信憑性が担保された公的に出版された書籍は、より重要性が高まっているはずなんですが、現実にはネットの普及、電子書籍のシェア拡大などにより、出版物は減少し、本屋自体もどんどん縮小傾向にあります。
このままだと、何が正しくて何が誤っているかを正しく判断する力が人からどんどん無くなっていくのではないかという、大きなお世話みたいな勝手な危惧を感じてしまいます。
閑話休題。マーラーが亡くなったのは110年前。絵画でしか伝わらないベートーヴェンと違って、マーラーは写真が多数残されている時代の人物。にもかかわらず、マーラーの人と作品を知るための日本語で読むる資料は、人気の割には必ずしも多いとは言えません。
かつてマーラーは「(いつか)私の時代が来る」と言いましたが、一般に広く人気が出たのが1970年代から。このマーラー受容の遅れが影響しているのかもしれません。
前に紹介した東京書籍の「ブルックナー/マーラー事典」は、最も資料的価値の高いものだと思いますが、一般にマーラーを知るためによく用いられているのが妻アルマが後に回想した本ですが、アルマの主観による記述の信憑性についてはしばしば問題視されています。
アルマと結婚する以前については、20年間にわたり親交があったナターリエ・バウアー=レヒナーによる回想録が、マーラーの言葉をかなり正確に伝えていると言われています。これら二人の女性による「思い出」と伴に、マーラーの最も詳細な評伝を記述したのが、アンリ・ルイ・ド・ラ・グランジュです。
70年代に発表されてグランジュの著作は、なんと全3巻、3600ページにも及ぶ大作で、マーラー評伝の最高峰とされていますが、さすがに日本語訳は出ていないようですし、出ていてもそれを読み切ることはかなりの困難が予想されそうです。
そこで、グランジュのマーラー研究の評論集として編集された「グスタフ・マーラー 失われた無限を求めて(草思社、1993)」は、手頃な分量でそのエッセンスを知る手掛かりとして有効です。
テオドール・W. アドルノの「マーラー―音楽観相学 (法政大学出版局、1999)」は、やはりマーラー評論の名著らしいのですが、日本語の訳仕方のためかとにかく難解で、哲学書に近い感じがしてしまいます。この著書を引用している文章で、何となく匂いが漂えば満腹かもしれません。
日本人の著述としては、クラシック音楽の世界では大変有名人である故・吉田秀和氏の評論があります。これは現在では「決定版 マーラー(河出書房新社)」という手頃な文庫本として集められており、マーラー愛好者なら一度は目を通すべきものと言えるかもしれません。
また、前島良雄氏の「マーラー 輝かしい日々と断ち切られた未来(アルファベータ、2011)」と「マーラーを識る(アルファベータ、2014)」は、マーラーの作られた多くのイメージを排除し、前者は人物像、後者は作品論に焦点をあてて、その実像を浮かび上がらせた労作として高く評価されています。
マーラー自身は、「理性ではなく直感で聴いてもらいたい」と言って、細かく分析されることは嫌悪していたらしいので、こういう本の類が増えることは作曲者の意思に反することかもしれません。
確かに、音楽ですから音を楽しむことが重要で、これらの文章は理解を深めより楽しむための助けであって、絶対的に必要なものではありません。当然、自分もほとんど読んでいません。どうしても、どれか一つは欲しいと言うなら「事典」ですが、さらに知りたいという方は前島氏のものがお勧めです。
2020年1月19日日曜日
Barbara Hendricks / Mahler Lieder (2010)
そういう意味で、女性の場合だと、メゾソプラノ~アルトくらいが聴きやすく、ソプラノだと高音部でキンキンするのがどうしても苦手。好きな歌手は、フォン・オッターなどに偏ることはお許しいただきたい。
マーラーの歌曲では、ソプラノが目立って活躍する場面はあまり多くなく、比較的メゾソプラノのレパートリーとなっていることが多いのは、大変助かるというものです。
ところが、バーバラ・ヘンドリックスだけはソプラノ歌手ですけど嫌いじゃない。珍しいアメリカの黒人歌手ですが、透明感の高いリリック・ソプラノとして70~90年代に人気を博しました。
21世紀になって、ゴスペルやジャズの分野でも精力的に活動し、自主レーベルを立ち上げてやりたいことを精力的に発信し続けています。シューベルトの「アベ・マリア」は自分にとってはベストですし、「冬の旅」は珍しいソプラノ歌唱として素晴らしい出来でした。
ヘンドリックスのソプラノは、年老いてやや声量の落ちは否めませんが、美しい澄んだ歌声はいまだ健在で、このマーラー作品集でも素晴らしい歌唱を聴かせてくれます。
ここでは「さすらう若人の歌(全4曲)」、「リュッケルト歌曲集(全5曲)」、そして「大地の歌」の終楽章「告別」が収録されています。
「さすらう若人の歌」は声部指定はありませんが、一般的には低域向けとされていてソプラノは珍しい。「リュッケルト歌曲集」も声部指定はありませんが、こちらはときどきソプラノが歌っていることがあります。
ただし、「大地の歌」は二人の独唱者はテノール、アルトまたはバリトンとなっている。ピアノ伴奏譜では低域と高域という曖昧な指定ですが、ここで聴けるのはスウェーデン室内アンサンブルによる伴奏です。
自主レーベルの関係上、話題になりにくいのが残念ですが、知る人ぞ知るみたいな優秀な録音の一つに上がってもいい作品だと思います。
2020年1月18日土曜日
ノートパソコン爆発××秒前
クリニックで3年前から使用しているインネット接続用のノートパソコンが、秋ごろから不安定になっていました。
MicrosoftのハードでSurface Bookと呼ばれるもの。これは変わった機種で、ディスプレイとキーボードが切り離せて、タブレットとしても使用できるというもの。
ですから、キーボード側には追加のバッテリーとUSBハブの機能、そしてNVIDIAの外部GPUが組み込まれています。CPU本体と主バッテリーはディスプレイ側に入っています。
まずUSB機器の接続が認識されにくくなって、SDスロットも使えなくなってきました。特に絶対的に困るというわけではないので、経年劣化としてしょうがないと思っていました。
そのうち、なんか設置している状態の安定性が悪くなってきたのに気がついた。底面の接着剤で固定されていたパネルが浮き上がって来たんです。隙間から除いてみると、リチウムイオン電池らしきアルミパッケージが膨張している。
おっと、これは巷でよくある電池の老朽化による問題。場合によっては爆発すると火事の原因になることもありますから、そのままにしておけない。保証期間はとっくに過ぎていますし、そもそもこの手のトラブルは高額な有償交換の対象です。
キーボード側は予備のバッテリーですから、最悪無くてもPCは使えるはずなので、緊急手段として膨張しているパッケージを破いて緊張を減らすことにしました。パネルを大々的にはがして、膨らんだパッケージの角をカッターでちょんっと切り込んでみました。
パチっと火花がでて、とりあえずパッケージはしぼんだんですが、実はけっこう危ない行為だと思います。火花は静電気によるもので、これが発火の要因。普通は絶対にやっちゃいけない行為です。
昔のPCの取り外しできるバッテリーパックの場合は、たいてい充電用のニッケル水素電池かリチウムイオン電池がそのまま複数詰め込まれているのですが、最近のコンパクトな取り外し式ではない平たいパッケージは、全体が電池になっています。
注意深く、再度電源をつないでみましたが、特にPCの動作としては問題なさそう。発熱もなく、とりあえず応急処置としては成功したようでした。
ところが、実はディスプレイ側にも、変な色染みみたいなのが出てきていることに気がついた。昔のブラウン管ディスプレイで磁石で変色したみたいな感じ。何だろうと思っていたら、今度はディスプレイの液晶パネルが浮き上がってきたんです。
液晶パネルが裏面から圧迫されて色が変になっていたわけですが、年明けからついに接着剤がはがれてパネルが外れてきました・・・というのが上の写真。隙間から覗いてみると、またもやバッテリーのパッケージらしきアルミの袋が膨らんでいるのが見えました。
今度は簡単にはいきません。まずパネルを無理にはがすと、液晶を痛める可能性が高い。これは、完全に壊す覚悟が無いといじれません。というわけで、常時電源接続をやめて、代替器が用意できるまで何とかもつように神に祈るしかなさそうです。
MicrosoftのハードでSurface Bookと呼ばれるもの。これは変わった機種で、ディスプレイとキーボードが切り離せて、タブレットとしても使用できるというもの。
ですから、キーボード側には追加のバッテリーとUSBハブの機能、そしてNVIDIAの外部GPUが組み込まれています。CPU本体と主バッテリーはディスプレイ側に入っています。
まずUSB機器の接続が認識されにくくなって、SDスロットも使えなくなってきました。特に絶対的に困るというわけではないので、経年劣化としてしょうがないと思っていました。
そのうち、なんか設置している状態の安定性が悪くなってきたのに気がついた。底面の接着剤で固定されていたパネルが浮き上がって来たんです。隙間から除いてみると、リチウムイオン電池らしきアルミパッケージが膨張している。
おっと、これは巷でよくある電池の老朽化による問題。場合によっては爆発すると火事の原因になることもありますから、そのままにしておけない。保証期間はとっくに過ぎていますし、そもそもこの手のトラブルは高額な有償交換の対象です。
キーボード側は予備のバッテリーですから、最悪無くてもPCは使えるはずなので、緊急手段として膨張しているパッケージを破いて緊張を減らすことにしました。パネルを大々的にはがして、膨らんだパッケージの角をカッターでちょんっと切り込んでみました。
パチっと火花がでて、とりあえずパッケージはしぼんだんですが、実はけっこう危ない行為だと思います。火花は静電気によるもので、これが発火の要因。普通は絶対にやっちゃいけない行為です。
昔のPCの取り外しできるバッテリーパックの場合は、たいてい充電用のニッケル水素電池かリチウムイオン電池がそのまま複数詰め込まれているのですが、最近のコンパクトな取り外し式ではない平たいパッケージは、全体が電池になっています。
注意深く、再度電源をつないでみましたが、特にPCの動作としては問題なさそう。発熱もなく、とりあえず応急処置としては成功したようでした。
ところが、実はディスプレイ側にも、変な色染みみたいなのが出てきていることに気がついた。昔のブラウン管ディスプレイで磁石で変色したみたいな感じ。何だろうと思っていたら、今度はディスプレイの液晶パネルが浮き上がってきたんです。
液晶パネルが裏面から圧迫されて色が変になっていたわけですが、年明けからついに接着剤がはがれてパネルが外れてきました・・・というのが上の写真。隙間から覗いてみると、またもやバッテリーのパッケージらしきアルミの袋が膨らんでいるのが見えました。
今度は簡単にはいきません。まずパネルを無理にはがすと、液晶を痛める可能性が高い。これは、完全に壊す覚悟が無いといじれません。というわけで、常時電源接続をやめて、代替器が用意できるまで何とかもつように神に祈るしかなさそうです。
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