遅まきながらマーラーにはまってみると、予想通り巷には尊敬の念を込めて「マーラーおたく」と呼びたくなる人々が大勢いることが十二分にわかりました。
ネット社会になって、一般人でもいとも簡単に情報を発信できることが可能になり、採算が取れないと出版してもらえない書籍と違って、様々な情報が仮想現実空間の中を乱れ飛んでいます。
ただし、それが正しい情報かどうかは別の問題で、やはり一定の信憑性が担保された公的に出版された書籍は、より重要性が高まっているはずなんですが、現実にはネットの普及、電子書籍のシェア拡大などにより、出版物は減少し、本屋自体もどんどん縮小傾向にあります。
このままだと、何が正しくて何が誤っているかを正しく判断する力が人からどんどん無くなっていくのではないかという、大きなお世話みたいな勝手な危惧を感じてしまいます。
閑話休題。マーラーが亡くなったのは110年前。絵画でしか伝わらないベートーヴェンと違って、マーラーは写真が多数残されている時代の人物。にもかかわらず、マーラーの人と作品を知るための日本語で読むる資料は、人気の割には必ずしも多いとは言えません。
かつてマーラーは「(いつか)私の時代が来る」と言いましたが、一般に広く人気が出たのが1970年代から。このマーラー受容の遅れが影響しているのかもしれません。
前に紹介した東京書籍の「ブルックナー/マーラー事典」は、最も資料的価値の高いものだと思いますが、一般にマーラーを知るためによく用いられているのが妻アルマが後に回想した本ですが、アルマの主観による記述の信憑性についてはしばしば問題視されています。
アルマと結婚する以前については、20年間にわたり親交があったナターリエ・バウアー=レヒナーによる回想録が、マーラーの言葉をかなり正確に伝えていると言われています。これら二人の女性による「思い出」と伴に、マーラーの最も詳細な評伝を記述したのが、アンリ・ルイ・ド・ラ・グランジュです。
70年代に発表されてグランジュの著作は、なんと全3巻、3600ページにも及ぶ大作で、マーラー評伝の最高峰とされていますが、さすがに日本語訳は出ていないようですし、出ていてもそれを読み切ることはかなりの困難が予想されそうです。
そこで、グランジュのマーラー研究の評論集として編集された「グスタフ・マーラー 失われた無限を求めて(草思社、1993)」は、手頃な分量でそのエッセンスを知る手掛かりとして有効です。
テオドール・W. アドルノの「マーラー―音楽観相学 (法政大学出版局、1999)」は、やはりマーラー評論の名著らしいのですが、日本語の訳仕方のためかとにかく難解で、哲学書に近い感じがしてしまいます。この著書を引用している文章で、何となく匂いが漂えば満腹かもしれません。
日本人の著述としては、クラシック音楽の世界では大変有名人である故・吉田秀和氏の評論があります。これは現在では「決定版 マーラー(河出書房新社)」という手頃な文庫本として集められており、マーラー愛好者なら一度は目を通すべきものと言えるかもしれません。
また、前島良雄氏の「マーラー 輝かしい日々と断ち切られた未来(アルファベータ、2011)」と「マーラーを識る(アルファベータ、2014)」は、マーラーの作られた多くのイメージを排除し、前者は人物像、後者は作品論に焦点をあてて、その実像を浮かび上がらせた労作として高く評価されています。
マーラー自身は、「理性ではなく直感で聴いてもらいたい」と言って、細かく分析されることは嫌悪していたらしいので、こういう本の類が増えることは作曲者の意思に反することかもしれません。
確かに、音楽ですから音を楽しむことが重要で、これらの文章は理解を深めより楽しむための助けであって、絶対的に必要なものではありません。当然、自分もほとんど読んでいません。どうしても、どれか一つは欲しいと言うなら「事典」ですが、さらに知りたいという方は前島氏のものがお勧めです。