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2020年1月30日木曜日

日本のクラシックは「オタク」に殺されつつある

という、けっこう衝撃的な文章をネットで見つけました。書いたのは、指揮者の大友直人氏。1958年東京生まれですから、自分と同世代。桐朋学園大学出身で、22歳でNHK響を指揮してデビュー。国内の主要オーケストラで活躍し、現在は大阪芸術大学教授も務める方。

今月発売されたばかりの自著「クラシックへの挑戦状(中央公論新社)」の内容を雑誌「PRESIDENT」で紹介するオンライン記事です。以下、その主張を一部引用します。

クラシック音楽界は、残念ながら衰退の道を辿っているといわざるをえません。1990年代以降クラシック音楽界は徐々に勢いを失っていったように思います。

いつからか、音楽専門誌で書かれている評論は、極端にオタク的なものとなっていきました。アマチュアのそれこそオタクのような人か、音楽家志望だった中途半端な人たちや自称音楽ジャーナリストやライターが、評論サイドの個人的嗜好を知らされるだけで本当に有益な情報を得られる場所がなくなってしまったのです。

こうした積み重ねがどんな状況を生んだか。日本のクラシック音楽の聴衆の間に、極端なオタク的感性を持つ人が増えてしまいました。自分の好き嫌いがはっきりしていて、嫌いなものは認めない。排他的な感性を持つ人を増やしてしまったといえるでしょう。

もちろん私たち演奏の現場にいる人間の責任も大きい。しかし立ち止まることもできず、毎日ひたすら走り続けている演奏の現場を高い見識を持って社会と結びつけてくれるパイプの役割を果たすのが、評論やジャーナリズムのはずです。

評論家やジャーナリストに、自分もクラシック音楽界の一翼を担っているのだという大きな責任感や使命感を持ち、自分自身の実力と置かれている立場を理解している人が少なくなってしまったのではないかと思います。

以上、一部省略はしましたが、大意は変わっていないと思います。

まず、最初にはっきりしておきたいことは、この記事に対しては非常に違和感を覚え、ほぼ賛同できないということ。おそらく、そのくらいのことを明言できるくらい、自分はクラシック音楽を聴いていると思います。

それこそ、自分も大友氏の言う「クラシックおたく」であろうと認めますが、「クラシック音楽が衰退している」ことには強く同意します。ただし、その理由を評論家の責任に転嫁している点はいかがなものかと。

クラシック音楽に限らず、古典芸能は「古典」と言われ始めた時点で、伝統に縛られ変革を拒否する、あるいはできない芸術になってしまうと思います。歌舞伎しかり、落語しかり、場合によっては大相撲もそうだと思います。

特にクラシック音楽は、楽譜を忠実に演奏することが求められ、過去の大家の曲は有限資産です。ベートーヴェンがそのまま生き続けて、新曲を書き続けているわけではありません。

もともと、宗教色の強い現場から始まった音楽が、日常的な娯楽として定着し繰り返し演奏され、次第に形式が固まっていきました。作曲家が亡くなれば、その曲は基本的にロックされて、時代が変わると古典と呼ばれ身動きが取れないものになっていきました。

当然時代の変化に合わせられなくなり、衰退していくのは宿命的な部分があることは認めざるをえない。時代のニーズに合わせられないのであれば、いつまでも同じ場所を掘り下げていくしかないわけですから、当然演奏する側も聴いて楽しむ側も「オタク」化していくのは必然だと思います。

つまり、クラシック音楽のオタクは今に始まったわけでなく、オタクが増えたのではなく、インターネットの普及も手伝ってオタクが情報発信を容易にできる環境が増えたというのが正しいのではないでしょうか。

好き嫌いがはっきりしているのは、聴衆の側としては当然です。芸術全般に言えることだろうと思いますが、芸術は生きていく上で必須ではなく、あくまでも人生を豊かに装飾するものですから、そこに好き嫌いが入り込む余地はあるわけで、あえて好まない物を聴く必要はありません。

あえて嫌いなものも聴こうとしても、すべてを網羅することは仕事にしている評論家でも不可能だと思います。逆に、今の情報社会では、嫌いなものの情報も容易に得られるようになったので、選択しやすくなったということは言えるかもしれません。

実際に、時代に合わせてサイモン・ラトルは、ベルンフィルを改革することにある程度成功したと言えます。自主レーベルを立ち上げ、デジタル化を促進し、聴く側の環境に合わせて音楽メディアの形式を選択できるようにしました。

ソースを変えられないのであれば、外部の評論に頼っているだけでは消退していくことは避けられない。音楽を作る側から、時代に合わせた変化が求められているということじゃないかと思います。

もっとも、これはクラシック音楽だけに限らない、すべてのことに云えそうです。そのことが良いかどうかは、後年にならないと評価できないことだろうと思います。少なくとも、現時点では「オタク」のファンがクラシック音楽を支えているということも、音楽を作る側は忘れてはいけない事実だろうと思います。