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2020年1月3日金曜日

Claudio Abbado CSO / Mahler Symphony #7 (1984)

マーラーに挑戦してみて、あらためて数カ月前の記事を読み直してみると、それなりに考え方が変わってきたように思います。

例えば第9番。ドラマのBGMみたいという感想を持ちましたが、その後一番聞き返したのは第9番で、何度も聞くうちに断片的で頭に入ってこなかったメロディがしだいに少しづつつながってきた。

何がというのを言葉で表現する文才が無いので、説得力のある理由を説明できないのですが、「あー、これがマーラーなんだ」という納得がいくようになりました。

作曲家がこの音楽を通して聴く者に伝えたいことは何かということは、意識するしないにかかわらず、人の心を動かす「芸術」というジャンルの文化では必然的に付きまとう命題です。

歌詞がある音楽では、それが言葉として直接的に伝わるという点で簡単ですが、マーラーを例を取れば、ドイツ圏の文化、そしてドイツ語を理解していない日本人としては真の理解は困難。

ましてや、タイトルが交響曲第××番というだけでは、いったいどんな音楽なのかはいっそう理解しにくいところがあります。

実は、マーラーの交響曲でしばしば話題にあがるのが標題の件。「巨人」とか、「復活」とか呼んでますが、最終的にマーラー自身が残した交響曲の標題は無い。

古い物ほど、研究によってマーラー自身が言葉や手紙などによって、その曲が表すものの解説が可能なので、そういう知識のもとで聴いてしまいますが、特に第9番は生前に初演されていないし、まして第10番は未完成で、解説するための手掛かりがたいへん少ない。

マーラーが標題を付けなかった、あるいは除いてしまったのは、標題から来る特定の固定されたイメージを避けたかったということに他ならない。それは、何を感じるかは聴く側に委ねられるということになりますし、マーラーはそんなことは百も承知だったはず。

演奏方法を事細かに指定して、自分の音楽を勝手な解釈で変更されないようにしていたマーラーですから、本来は聴く側に伝えたかったこと、または音楽から聴きとるべきものははっきりしていたはずです。つまり、標題を付けないことで、それを感じ取る感性を聴衆に要求しているわけで、その点が聴く者を選ぶ音楽なのかもしれません。

さて、そこで交響曲第7番なんですが、これは一般的に「夜の歌」あるいは「夜の音楽」という標題が付くことが一般的ですが、当然これもマーラー自身が付けた標題ではありません。

あくまでも、第2楽章と第4楽章に、それぞれ「Nachtmusik 」という副題がついているために、交響曲全体を通して「夜の音楽」と呼ぶのは明らかに間違い。ましてや「夜の歌」はもっとダメ。

一般的にマーラーの交響曲の中で一番人気が無く、時には失敗作とまで言われている理由の多くは、夜に聴く音楽、あるいは夜を表した音楽と想像するところから、全体のバランスの悪さ、特に最終楽章のどんちゃん騒ぎが納得できないところによるものと思います。

全5楽章を昼-夜-昼-夜-昼、明-暗-明-暗-明、または陽-陰-陽-陰-陽、厳-優-厳-優-厳とか、何でもいいのですが強いコントラストの違いを際立たせる構成と考えると、あっさりと違和感が消えていく気がしました。

実際は、反意語を並べただけの単純な対比ではありませんが、偶数楽章の夜から来るイメージは固定され、奇数楽章はそれとは違うあらゆるものが表現されたということでしょうか。

少なくとも、最終楽章のまるで勝利を高らかに宣言しているかのような威勢の良いティンパニーから始まり、高らかに鳴り響く管楽器による出だしは、その後それをあざ笑うような旋律に取って代わられ、両者が入れ代わり立ち代わり登場しながらフィナーレに向かう感じ。

アバドの演奏では、最初のシカゴ響との演奏は若く威勢が良い面が目立つかもしれませんが、アバドらしいマーラーを尊重した堅実な演奏です。全体にベルリンフィルとの演奏より、後にもたくさんの名演を残しているシカゴ響との演奏は、新鮮な響きが感じられて好感が持てます。

当分は第7番をいろいろと掘り下げてみたい気がしています。