祝日も最終日のWhit Tuesdayとなりました。ただし、聖霊降臨節として次の日曜日までは、丸々お祭りが続くようです。
バッハが用意したこの日のためのカンタータは2曲。年巻の1724年と1725年の分として作られました。
BWV 184 待ちこがれし喜びの光
BWV 175 彼は己の羊の名を呼びて
BWV184は、珍しくアリアや二重唱が中心で、合唱は最後の方だけ。フルートの伴奏でデュエットがあったり、いつもと違った味わいがあります。元々はケーテン時代の失われた世俗カンタータからの流用らしい。
BWV175も、合唱は最後にしかない。前半はリコーダー中心の素朴な伴奏で、羊(自分)と羊飼い(キリスト)の関係を切々と歌い上げます。
バッハのカンタータの特徴は・・・って、なかなか素人には難しいのですが、基本は歌唱を始まりから終わりまでを対称に配置したところらしい。つまり合唱→アリア(ソロ)→合唱→アリア(ソロ)→合唱みたいな構成。
基本的にはソプラノ、アルト、テノール、バスの4声。歌詞が「私」のときはソロ、「我々」の場合は合唱。そしてコラールがたいてい含まれる。コラールはプロテスタントが皆で歌うことを目的にした賛美歌で、マルティン・ルター自身も積極的に曲を作っています。
バッハは過去の作品のパロディと皆が知っているコラールを、新たに作るカンタータの中に自由自在に配置して、礼拝に参加した人々も音楽に参加しやすくすることを第一に考えていたんでしょうね。
キリスト教、特にプロテスタントに詳しい人だったら、このコラールの取り込み方を研究するという、さらに高度なカンタータの楽しみ方があるわけです。自分のようななんちゃって仏教徒には、到底高嶺の花ですけどね。
いずれにしても、あくまでどういう内容を歌うかが問題になるカンタータでは、その歌詞が重要ということで、適切な歌詞が手に入らないことには、大バッハといえどそうそう曲作りにかかることはできません。
ライプツィヒより前は、カンタータ作曲のペースはゆっくりですから、あまり心配はなかったのですが、ライプツィヒで毎週作ろうと思い立つと、歌詞の入手にはかなりの困難がつきまとったというのは容易に想像できるところです。
最初の2年間くらいは、少なくとも、聖トーマス教会関係者、ライプツィヒ市関係者、ライプツィヒ在住詩人などが、聖書の内容に準拠しながら、作詞をしたであろうと考えられています。
さらに2年目からは、コラールが意識的に取り込まれる作品が集中してきますが、この間は一連の作品を続けて作詞した人物の存在が想像されています。そして1975年の2年目の年巻の最後、復活祭後から聖霊降臨祭までには続けて女流詩人ツィーグラーが登場します。
ツィーグラーは9つのカンタータで作詞をしていて、 BWV175も彼女の作詞によるもの。しかし、歌うために詩の一部を変更するバッハとの間で、いろいろ問題があった可能性が指摘されています。以後、バッハはピカンダーという詩人を多用します。
マタイ受難曲のような大曲でもピカンダーが登場し、バッハの詩人として後世に名を残すことになるわけですが、本名はC.F.ヘンリーツィで、基本的に他人の着想をうまく利用する「模倣の名人」という軽蔑的な評価を受けてきました。
その後も多くのカンタータのための詩を作っていて、バッハが実際に曲をつけたのかもしれないのですが、現存するものの中にはほとんど残っていません。
宗教曲は、基本は説教をメロディにのせるところから始まったわけですから、優れた歌詞を手に入れるということは作曲家にとっては、ある意味最も重要なところ。カンタータを書き続けるバッハにとって、詩の入手は最大の悩みだったのかもしれません。