2018年3月15日木曜日

平安文化 (3) 一条天皇と彰子


一条天皇は、その時代としては珍しい・・・というと申し訳ないのですが、先の中宮、定子に対しての一途な愛情を持っていたことは確かで、その死による喪失感はかなりあったようです。それは、実は周囲の貴族たちも同様で、万人に対して定子の接する態度が見えてくるようです。

定子の妹(名や生没年は不詳)が、御匣殿別当(天皇の衣服を用意する部署の長)として出仕していたのですが、職務から御匣殿(みくしげどの)と呼ばれ、定子の生前よりこどもたちの世話を手伝っていました。定子死後半年くらいして、一条天皇は御匣殿に定子の面影を見つけ、恋愛関係に発展し御匣殿は妊娠するも出産を待たず亡くなりました。一条天皇は再び「定子」を失います。

定子、御匣殿が亡くなり、一人中宮となった彰子は、天皇の願いもあって第1皇子の敦康親王の養育を任され、藤原道長もそのことを容認します。理由は、定子に対する同情から来る反感を弱める効果があり、また彰子に親王ができない場合の保険として、親王の養母、養祖父という立場を作っておくことにありました。

道長が定子の影を意識せずにはいられなかった原因の一つに、当時すでに流布されていた、徹底的に定子を賛美する清少納言の「枕草子」の影響は否定できません。彰子にもサロンの強化の必要性を認識していた道長は、ちょうど宮内でも話題になり始めた「源氏物語」の作者、紫式部に目を付けます。

1005年、道長の要請で出仕した紫式部は、当初は人気が出始めた才女という色眼鏡で見られ苦労します。紫式部は自己防衛的に、才能を顕示するのではなく抑制的に働かせるコツを身に付けますが、そこが次第に彰子との関係を築くことになります。

定子は当意即妙の知的な雰囲気を作り出し、物事に積極的に関わり、周囲の人々を自然に引き込む力を持っていました。一方、彰子はそういう定子のライバルとして入内したものの、まだ幼く抑制的な考え方をするようになり、サロンは地味で消極的でした。一条天皇も、たった一人の妃として彰子を大切にするようになり、後宮の女房間のライバルとしての切磋琢磨の必要性が減ってしまったことも関係がありそうです。

1008年、彰子は入内して10年目にして初めて妊娠し、天皇と道長を安堵させました。その一方で、定子の産んだ次女、媄子が病没。定子の子を溺愛していた天皇は、悲嘆にくれました。精神的には、まだ彰子は定子に負けていたのですが、彰子には控えめですが、定子を乗り越える努力を続ける人でした。

第2皇子となる敦成親王を出産した後、翌年には敦良親王も誕生します。次第に一条天皇の心も彰子に向くようになったかに思われましたが、運命はなかなかうまく事を運びません。1011年、一条天皇は発病し、敦康親王への譲位の気持ちを漏らします。彰子も、自ら養育してきたので賛同しますが、道長はそれを許しません。

一条天皇は32歳の若さで亡くなり、冷泉天皇の第2皇子、居貞親王が第67代三条天皇に即位しました。その後は、敦成親王が第68代後一条天皇となり、さらに敦良親王が第69代後朱雀天皇と継いでいきます。彰子は、一条天皇の思いの実現は忘れずにいて、後朱雀天皇の中宮に敦康親王の娘を入内させました。

定子と彰子という、二人の妃は対照的で、普通なら皇統をめぐる敵対関係にあるはずですが、一条天皇を巡って成長していく彰子の人間性が、それらを上回ったのかもしれません。そういう宮中の気配が、文化的な熟成に大きく関与したわけで、この二人の妃のことを知らずしては平安文学は理解できないようです。