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2018年3月2日金曜日

古代終焉 (7) 天皇の逆襲と敗北


藤原良房は、9歳で即位した清和天皇の祖父にあたり、当然のように幼い天皇に政治ができるわけがありませんから、良房が摂政として実質的な権力を握っています。さらに、皇后は藤原高子で、良房の姪にあたります。良房が亡くなっても、養子に入っていた基経が地位を引き継ぎました。

清和天皇は27歳にして、若くして高子の産んだ貞明に譲位しますが、おそらく藤原家が実質な覇権を維持するための政略でしょう。その4年後には、31歳の若さで病死します。876年、貞明が第57代の陽成天皇として即位したのは、またも9歳の時です。母である高子はかなり飛んでる女性だったようで、基経との折り合いが悪かったようです。

陽成天皇が元服して基経が摂政を降りた直後、前代未聞の宮中殺人事件が発生します。犯人はほぼ・・・だろうといわれているようですが、迷宮入りです。いずれにしても、陽成天皇はかなり奇行・蛮行が目立ったようで、基経の画策により17歳で退位し、時康親王に譲位しました。時康親王は、仁明天皇の藤原家出身の妃が産んだ子で、即位したときは55歳、こどもを続けて即位させた反省がこめられているようです。

884年、時康親王は第58代光孝天皇として即位したもの、もともと皇位継承など夢にも思わず中年にかかっていたので、基経を関白としてなんでも任せていたそうです。しかし、唯一基経の意向に逆らったのが、3年後に病で倒れた時でした。一度皇族から除籍していた息子の源定省を、親王に復させて亡くなりました。

ちなみに、日本書紀から始まる政府公認の「国史」のシリーズを、まとめて六国史と呼びますが、六国史に記載されているのはここまでです。その後は、計画されたことはありますが、実際の編纂・出版は行われていません。古代史を学ぶことを、国史を読むことと考えれば終点に達したことになりますが、まだまだ興味は尽きません。さらに話を進めてみましょう。

887年、21歳だった定省は、第59代宇多天皇となりますが、何しろ血気盛んな年頃です。基経はそのまま関白に留まったものの、宇多天皇は自らの意見をはっきり述べるタイプで、次第に基経との間に確執が深まっていきます。

そもそものきっかけは、即位直後からから始まります。宇多天皇は基経への関白就任依頼に関白を指す「阿衡の任」という言葉を用いたところ、阿衡とは形ばかりで実が無い意味として、基経はへそを曲げてしまいます。この時、いろいろ両者の調整を行い何とか丸く収めることに奔走したのが菅原道真で、以後宇多天皇の信任を得て出世していきます。

宇多天皇が25歳の時に基経が亡くなり、その息子の時平を政権に入れるものの、関白はおかず自ら政治を司りました。しかし、一度皇籍を抜けたことで、清和・陽成系の皇族からは白い目で見られる中、菅原道真の助けもあり比較的善政を行い、久しぶりの天皇親政の時代を迎えました。それは、藤原家の不満を膨張させることであり、道真もわっかってはいても、宇多天皇の信頼に答えるしかありませんでした。

897年、宇多天皇は皇統の正当性に深みを持たせるために、突然、12歳で元服すると同時に敦仁親王に譲位します。自らは後に出家して宇多法皇として、実質的な権限は持ち続け、形式的には藤原時平と菅原道真を政府の両輪としつつも、実質的には脱藤原を進めていました。しかし、即位した第60代醍醐天皇は、親の心子知らずでした。

宇多法皇は仏道に励み、しだいに比叡山や高野山に出かけることが多く、宮内を配慮する時間が減ってしまいます。若い醍醐天皇には、時平のつけ込む隙はいくらでもあったわけで、まずは時平の娘、隠子が宇多法皇の反対をよそに入宮します。

901年、ついに昌泰の変が発生します。これは、有名な菅原道真の大宰府への左遷です。道真が宇多法皇の子で自らの婿でもある斉世親王を皇位に即けようとしていたというもので、宇多法皇は知らせを聞いたときは時すでに遅しでした。宇多法皇は、すぐに宮に駆け付けますが、門は閉ざされ入城を拒否されなすすべはありませんでした。嫡子がいない醍醐天皇の即位を急ぎすぎ、仏道に傾倒し道真への援助を怠った結果だといえます。