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2018年3月5日月曜日

古代終焉 (9) 終点は藤原家の世


村上天皇は42歳で亡くなり、憲平親王が18歳で第60代冷泉天皇として即位します。しかし、心体ともに病弱で在位はわずかに2年にも満たない期間でした。藤原家は、自分の娘を天皇に嫁がせ、その子を天皇に即位させる方程式を完成し、権勢を欲しいままにしていました。そのためには、かなり強引な婚姻もあり、また天皇の若年化などの道理を無視した無理を通してきました。

即位当初から冷泉天皇には不安があったため、皇太子選定が急がれました。天皇の同母弟にあたる村上上皇の為平親王と守平親王が候補でしたが、左大臣、源高明の影響下にあった年長の為平親王は排除されました。969年、安和の変が発生します。橘繁延と源連の謀反の計画が密告され、源高明の関わりが疑われ、九州へに左遷されたのですが、後に身内を固めるために藤原実頼が行ったの策謀だったことがはっきりしました。

守平親王は9歳で第64代円融天皇になりましたが、当然摂関家である藤原氏の鉄壁な包囲網により、ほぼ天皇は肩書状態です。皇太子は、冷泉天皇の師貞親王が立ちました。妃が集まる後宮は、外戚になろうとする貴族が自分の娘を次から次へと送り込み、またその娘らの争いもけっこうすさまじかったようです。天皇は26歳で退位し、師貞親王が17歳で、第65代花山天皇として即位。今度は、皇太子は円融天皇の懐仁親王です。

当時、藤原実頼(忠平長男)の次男であった関白の藤原頼忠は、なかなか外戚になることができず力を落としていました。藤原師輔(忠平次男)の子、右大臣藤原兼家の方が力がありました。もう天皇家の系図よりも、藤原家の家系がどうなっているのかがより重要という状況です。

花山天皇は兼家の子、藤原道兼の誘いに乗せられ、2年後には退位して出家してしまいます。懐仁親王が第66代一条天皇に7歳で即位し、藤原兼家は太政大臣となり、左右大臣もその子である道隆、道長が座りました。皇太子には、冷泉天皇の皇子、花山天皇の弟である居貞親王が選ばれますが、この親王も兼家の孫にあたりました。

いやはや、天皇家の系図だけでも複雑すぎてわけがわからない状態になっているところへ、藤原家が入り乱れて絡んでくるため、誰が嫁で、誰が兄弟、そして誰の子か・・・もうお手上げ状態です。つまり、これが平安貴族の優雅な生活の裏にある真実の姿なのかもしれません。この辺りを掘り下げるのは、テーマが変わってしまいますから、気力があれば別の機会に行いたいと思います。

一条天皇の治世で、ついに10世紀が終了します。神代から始まり、古事記・日本書紀によって謎の多い日本創生が語られ、律令国家として飛鳥時代、奈良時代を経て平安時代前半までたどってきました。さすがに古代と呼べる時代はそろそろ終わりになります。

こうやって辿ってみると、大王と呼ばれたトップが天皇となり、基本的には王朝による独裁国家として国らしくなってきたわけですが、古代の終点は天皇を形式的において、とりまく貴族たちの策謀術策が国を推進していたということだと思いました。

あまりに多くの天皇を取り巻く事件があり、いくつかは大袈裟に伝わったり、または創作であったかもしれませんが、逆に知られていないこともたくさんあるのだろうと思います。古代は、そういう謎がたくさん含まれている時代だということもできそうです。