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2018年3月17日土曜日
平安文化 (4) 清少納言
春は曙。やうやう白くなりゆく山際、すこしあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。
夏は夜。月の頃はさらなり、闇もなほ、螢飛びちがひたる。雨など降るも、をかし。
秋は夕暮。夕日のさして山端いと近くなりたるに、烏の寝所へ行くとて、三つ四つ二つなど、飛び行くさへあはれなり。まして雁などのつらねたるが、いと小さく見ゆる、いとをかし。日入りはてて、風の音、蟲の音など。
冬はつとめて。雪の降りたるは、いふべきにもあらず。霜などのいと白きも、またさらでも いと寒きに、火など急ぎおこして、炭持てわたるも、いとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、炭櫃・火桶の火も、白き灰がちになりぬるは わろし。
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さて、「枕草子」です。この超有名な出だしの四季についての文章は、大学入試必修古文ですし、理系でも聞いたことは無いという人は少ないでしょう。
作者は清少納言であり、現存する日本最古の随筆・・・つまりエッセイと言われていて、今で言えばブログ記事のようなものでしょうか。
もちろん、清少納言は本名ではなく、女房(内裏に出仕した女性)たちは自分や家族の地位に関連した通称で呼ばれるのが慣例でした。父親は、著名な歌人であった清原元輔で、清少納言の「清」は清原来ていると思われますが、少納言の由来については明解ではありません。
966年頃の生まれと推定されていて、父の影響を受けて幼少から和歌・漢詩などの素養を身につけたと考えられています。981年に橘則光と結婚し、翌年出産するも、武骨な夫との「性格の不一致」により数年で離婚しました。993年、経緯は不明ですが、28歳の時に一条天皇の中宮であった定子の女房として出仕します。
977年生まれの定子は、990年に入内し、すでに中宮として自らのサロンを活発に活動させていました。10歳ほど年上のこの新人に対しても、風流を大事にして、一から十を知るような鋭い感性と、即座に反応して行動できる力を求め教育します。初めは、まごついた清少納言でしたが、もとより十分すぎる素養を持っていた清少納言は、ほどなく定子から厚い信頼を受け、また清少納言も若い上司を敬愛するようになります。
994年夏頃に、内大臣となった定子の兄、藤原伊周が天皇と定子に高価だった紙を献上しました。天皇は「史記」の書写をするようだが、私は何に使うのがよいかと、定子は清少納言に問いかけました。分厚い紙の束を見た清少納言は、「枕にするのがちょうどよい」と返答したところ、定子はそのまま清少納言に紙を譲りました。
995年、定子の父、藤原道隆が病死したのを皮切りに、996年は1月に伊周の花山法皇に対する事件が発生、5月に逮捕され定子は発作的な出家。6月には、実家の焼失と、定子の周囲は急速に力を失ってしまいました。秋には、同僚たちから、清少納言は藤原道長と通じていると噂され、自宅に引き籠るようになります。
しかし、定子は右中将だった源経房を度々使わして、清少納言への信頼が損なわれていないことを伝え、再び紙を送りました。清少納言は、自分に対する中傷から、定子の一番辛かった時を支えずに逃げ出したことを後悔していたのでしょう。定子を励ますために、最も輝いていた頃の楽しかった思い出を書き始めたのが「枕草子」の執筆動機とされています。
ここで、清少納言は最初に紙を頂いた時の事を思い出したに違いありません。天皇が史記を書写したことに対して、こちらは「四季」を書くことから始めようという気持ちが、冒頭の名文です。
996年の年末に、源経房が最初の「枕草子」の原稿を定子に届け、これが書写され広まることになります。997年春、清少納言は定子のもとに戻り、1000年12月に定子が出産直後に亡くなるまで仕え、この間も「枕草子」は書き続けられました。
定子の死から1年後、藤原棟世と再婚していた清少納言は、夫の赴任先である摂津にいました。そこに天皇から使いがきて歌を送られます。天皇は定子を失ったことによる悲しみが続いていることを伝え、清少納言にも気遣いを見せており、清少納言も都と一緒でこの地も住みにくいのは同じと返しています。
1004年頃(?)、夫の任期満了により都に戻った清少納言は、再び筆を執ります。都でまだまだ続いていた「定子ロス」に対して、定子との華やかで楽しかった思い出を「枕草子」に書き足していくことで、この悲劇の中宮を徹底的に美化し鎮魂することが目的だったと思われます。
以後の清少納言の事はほとんど記録がありませんが、彰子サロンのメンバー、和泉式部や赤染衛門らとの交流はあったようです。没年は不明です。少なくとも、現代にいたるまで、「枕草子」が読み継がれたことでも、清少納言が意図した「定子の美化・鎮魂」は十分すぎるほどの成果を上げたと言うことができるのかもしれません。