クリニックの夏季臨時休診のお知らせ
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2018年3月4日日曜日

古代終焉 (8) 武士の台頭


ヤマト王権誕生以来、天皇が政治の中心であり、例えば神功皇后の例の様に天皇以外が実際の政務を仕切った事例はありましたが、突発的な問題のための例外措置でした。

天皇が生前に譲位する場合、時に二重権力構造が発生し、孝謙上皇(後に重祚して称徳天皇)のように道鏡事件が発生したり、平城上皇の薬師の乱に至り、退位した天皇、つまり上皇の処遇をはっきりさせる必要に迫られました。嵯峨天皇は京内に天皇の内裏とは別に、上皇の場所(朱雀院と冷泉院)を設け後院と称して分離・明確化し権限の抑制を行いましたが、平安時代には生前譲位が常態化し、天皇の若年化・弱体化が進みます。

そこに有力貴族、藤原北家のつけ込む隙があったわけで、幼い天皇に代わって実質的に政治を行う摂政、さらに天皇が元服後も権力を保持し続ける関白の形態が出来上がっていきます。宇多天皇は、一度皇族から抜け源氏になっていたため、より政治に忠実に向き合い天皇親政を行う意欲を持ったわけですが、皇統系譜への連なりを深め、出自の正当化を進めるために幼いこどもへの生前譲位をまたも繰り返し、藤原家の思う壺にはまってしまいました。

ここに二重権力は、天皇と上皇という対立から、天皇の母方の藤原家と摂政・関白と天皇の父親である上皇との対立へと変化していきました。後に、関白はあくまでも天皇の補佐ということが明確化され、上皇による支配体制は院政と呼ばれるようになります。

藤原家の関わりを再度許してしまった醍醐天皇でしたが、宇多上皇、出家して宇多法皇との父子関係は良好でした。宇多法皇の院政体制はあったものの、仏教に傾倒していた法皇は政治への口出しをほとんどしなかったためでしょうか。

醍醐天皇の皇太子は第1皇子の保明親王ですが21歳で病死してしまい、その後に新たな皇太子となる寛明親王が生まれました。醍醐天皇自身も体調を崩し、930年、8歳の皇太子に譲位し直後に46歳で、翌年には宇多法皇も65歳で亡くなりました。

新しい第61代朱雀天皇は即位した時はまだ8歳で、藤原基経の四男、天皇の伯父にあたる藤原忠平が摂政につきます。左大臣は、基経の長男、藤原時平でした。桓武天皇の孫である高望王は、宇多天皇より平氏を賜り皇籍を降りていましたが、関東に出て武士集団になっていました。平高望の孫の平将門は周囲を制圧し、強大な力をもち、940年に朱雀天皇に対して、自らを新皇と称し東国の独立を宣言します。数か月後に朝廷連合軍により滅ぼされ、将門は歴史上初めて平安京で晒し首になります。

また、藤原北家出身の藤原純友は、瀬戸内海の海賊制圧の任に当たっていましたが、しだいにそれらの海賊を取りまとめて自らの軍隊として再編していました。将門の挙兵と時を同じくして、朝廷に対して反乱を起こしました。この2つの乱を合わせて承平天慶の乱と呼び、武士の台頭のエポックメーキングとされています。

皇子がいなかった天皇は24歳で退位し、弟の成明親王が第62代村上天皇として即位しましたが、病気だったわけでもなくその理由は不明です。朱雀上皇はその後復位を目指したことがわかっていて、必ずしも自らの希望ではなかった可能性があります。

村上天皇は即位した時は21歳、忠平が死去しますが、関白をおかず天皇親政を目指しました。しかし、実権は忠平のこどもである藤原実頼・師輔兄弟にあり、朱雀上皇の動きもあって現実には、自分の思うようなことはほとんどできなかったようです。