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2018年3月19日月曜日
平安文化 (5) 紫式部
紫式部は、言うまでもなく「源氏物語」の作者ということで、平安時代の中でも一二を争う有名文化人です。そして、しばしば内裏の中で、清少納言とライバル関係にあり、まるで火花をちらしていたかのように、まことしやかに話されます。
しかし、それは明らかに間違い。二人が同時に宮仕えをしていた時期はありません。内裏の中で、ばったり出くわして視線がバチバチとなったなんてことはありません。
紫式部は清少納言より7歳若く、973年の生まれと言われています。下級貴族の藤原為時の娘で、母親が早くに亡くなり、継母に育てられたようです。慎ましく、静かに暮らすのを身上とする家だったようで、これが紫式部の内省的な性格に強く影響したと言われています。
はっきりとした記録はありませんが、20歳頃に一度結婚しているかもしれません。また、その頃に最初の宮仕えをしている可能性が指摘されています。紫式部はもともと藤式部という女房名で呼ばれていたのですが、藤原の藤に、父親の官位の式部大丞を合わせたものといわれています。彰子に出仕したときには、父親は越前守だったので、その場合は藤越前のような呼び名が普通です。
999年、紫式部は27歳で47歳の藤原宣孝と結婚。二人の間には女子が誕生しますが、1001年に宣孝が死去し、夫を失った紫式部は幼い子を抱えて、深い悲しみに沈んでしまいました。そして1005年12月に出仕するまでの間に、ついに「源氏物語」の執筆が開始されたと言われています。
紫式部は、華やかで優雅な世界を空想して文章にすることが、数少ない慰めになったということを書き残しています。1003年5月頃から、彰子サロンの充実を考える藤原道長に出仕を要請され始めているので、その時点ではすでに「源氏物語」の評判が広まっていたと思われます。
1005年12月、ついに紫式部は中宮彰子の女房として出仕しました。清少納言は、少なくとも1001年には内裏を辞して摂津に移り、再び京に戻り亡き定子の陵の近くに居を構え「枕草子」の執筆を続けていましたが、少なくとも二人が直接対決する機会は無かっただろうと考えられています。
出仕した紫式部を待っていたのは、先輩女房たちの冷たい視線でした。新進作家として有名になってきた新人に対して、強い警戒心を持って迎えられたのです。定子の新人・清少納言に対する心配りのようなものは、まだ幼かった彰子に求めるのはさすがに無理というもの。紫式部は、自宅に籠りがちで、内裏に出た時もできるだけ「物を知らず仕事ができない」振りをするように努めたのです。
能ある鷹は爪隠す作戦が功を奏して、少しずつサロンに溶け込んでいった「藤式部」は、「源氏物語」の色彩テーマの紫にちなんで、「紫式部」と呼ばれるようになりました。しだいに彰子にも気に入られ、請われてこっそりと漢詩を教えたりすることもありました。彰子らの強力な読者を得ることで、「源氏物語」はどんどん書き続けられていきます。
1008年、彰子は入内して10年目にして初めて待望の懐妊し、1008年7月に敦成親王を出産。紫式部は、もう一つ残された作品である「紫式部日記」の記述は、この彰子の出産のため実家に戻るところから始まります。喜びの出産に続く、いろいろな行事について詳細に記載し、1年半くらいの期間の「日記」として比較的淡々と日常を記録していくのですが、途中から次第に自らの回想が入りだし、周囲の人々に対する論評が加わり、紫式部の人物像が浮き出てくるところが貴重です。
特に、清少納言との直接的な交流が無いのにも関わらず、いつも物事に対して抑制的に対応する紫式部が、かなり辛辣な清少納言批判を書き記したことが有名で、そのことによって、二人をライバル視するとっかかりになっているわけです。
「清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人。さばかりさかしだち、真名書き散らしてはべるほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり」(清少納言は、自分の自慢ばかりする人。利口ぶって、漢字の知識をひけらかしているが、よく見ると、中途半端である)
これは、かなり紫式部らしくない激烈な表現です。すでに宮中を去っている者に対して、このような批判をすることは強い違和感を感じます。京に戻り、心から敬愛する亡き定子の名誉を回復するために、「枕草子」を再開していた清少納言への対抗心があったことは否定できません。
しかし、道長からの働きかけもかなりあったのではないかと想像します。敦成親王が誕生し、彰子が名実ともに中宮として尊敬されることが、紫式部の女房としての役割ですから、定子の幻影をいつまでも追いかけるような清少納言の筆は邪魔でしかなかったのかもしれません。
紫式部は、彰子が皇太后となっても、引き続き仕え、1013年頃に「源氏物語」は全編が完成したと考えられています。10014年、42歳で亡くなったとされる説が有力ですが、晩年の活動記録はほとんど無いため、諸説があり本当のところはよくわかりません。
いずれにしても、多くの漢文・和歌の知識をフル活用して日本最古の長編小説「源氏物語」を完成させた偉業は色褪せることなく、日記から始まる日本文学史上の金字塔して、現在まで多くの人を魅了し続けているわけです。