17歳のリナ(芳根京子)は、男の子を産み落としますが、名前も決まらないうちに両親に預けて姿を消してしまいました。
19歳のリナは、自由奔放。ある時、ボディワークス社を経営するエマ(寺島しのぶ)に拾われ、彼女の下で「プラスティネーション」という技術を習得していきます。プラスティネーションは、死んだ肉体に血液の代わりに特殊なプラスティック樹脂を注入し、遺体をそのまま永久保存するというものでした。
エマの弟であるアマネ(岡田将生)は、プラスティネーションを応用・発展させ、細胞分裂を止めない特殊な培養液を注入することで、永遠に老化しなくなる技術を開発します。エマは引退し、リナからの不老処置の勧めも断ります。
30歳のリナは、アマネと結婚し揃って不老処置を行い、世界初の不老女性となります。エマは自らプラスティネーションを行い、「永遠の命だけが幸せではない」という言葉を残して亡くなります。不老処置は急速に世間に浸透していきますが、処置を受ける人と受けない人に人々を分断していくことになります。信念を理由にする場合もありますが、経済的な理由も大きな要素になっていました。
アマネは瀬戸内海の小島に、不老処置を受けない、受けられない人々が平穏に人生を全うするための施設を開設し、無償で高齢になった人々を受け入れることにします。リナも施設で入居者を世話する生活を続けることになりました。
複雑で難解なシチュエーションが続きますが、登場する俳優陣の達者な演技に支えられて、最後まで集中して見続けることができました。特に芳根京子の硬派な演技には驚きました。見た目は30歳なのに中身は90歳、風吹ジュンよりも年上という設定のギャップを抱え、まったく動じない様子は素晴らしいものです。
エマの弟であるアマネ(岡田将生)は、プラスティネーションを応用・発展させ、細胞分裂を止めない特殊な培養液を注入することで、永遠に老化しなくなる技術を開発します。エマは引退し、リナからの不老処置の勧めも断ります。
30歳のリナは、アマネと結婚し揃って不老処置を行い、世界初の不老女性となります。エマは自らプラスティネーションを行い、「永遠の命だけが幸せではない」という言葉を残して亡くなります。不老処置は急速に世間に浸透していきますが、処置を受ける人と受けない人に人々を分断していくことになります。信念を理由にする場合もありますが、経済的な理由も大きな要素になっていました。
アマネは瀬戸内海の小島に、不老処置を受けない、受けられない人々が平穏に人生を全うするための施設を開設し、無償で高齢になった人々を受け入れることにします。リナも施設で入居者を世話する生活を続けることになりました。
50歳のリナは、姿は30歳のままでした。しかしアマネに異変が生じます。遺伝子異常により、不老処置の効果が急速に減退し、凍結精子を残して亡くなってしまいます。
85歳のリナは、姿は相変わらず。そして、娘のハルを産みます。しばらくして、施設にリヒト(小林薫)とフミ(風吹ジュン)という高齢夫婦が訪れます。入所したフミは末期がんでしたが、リヒトは自らの意思で不老処置は受けておらず、浜辺の小屋を借りて住むと言い入所しませんでした。
90歳のリナは、何気なくリヒトがハルのスケッチブックに描いた絵を見て、リヒトが自分が17歳の時に産んだ子であることに気がつくのでした。
この映画はカラー映像で、リナが不老処置を受けるまでの前半を時系列に追いかけていきます。しかし、不老処置を受けてからは後半は映像は白黒になり、時折フラッシュバックする過去のシーンだけがカラーになるという作りになっています。
前半では、よくぞ日本にこんな無機質な近未来を想像させる建物があったと思わせるシーンが続きます。これらは香川県庁舎や瀬戸内海歴史民俗資料館などがロケで使われています。後半は、ほとんどが小豆島でのロケですが、白黒であることで未来的ではない島の風景の「今感」を最小限にする効果があるように思います。
カラー映像の中に白黒が混ざるのは、過去の回想とか夢で見たことなどの場合が多いのですが、もしかしたら不老になること自体が「夢」のようなものだというとらえ方をしているのかもしれません。
この映画の究極のテーマは「生と死」であることは間違いなく、「死があるから人は生を大事にする。死ななくするのは生への冒涜ではないか」と言うセリフがあり、それに対してリナに「それは死ぬことが前提の考え方であり、不死になれば意味をなさない」と答えさせています。
しかし、映画の中で不死となった人が増えたことで、出生数は激減し自殺者が増加しているというニュースで語られるように、社会的にも個人的にも必ずしも幸福とは言い切れない状況は現実的に出現しそうな気配です。
プラスティネーションと不老処置という似て非なるものは、死を永遠とするのか生を永遠とするのかという違いがありそうです。ある意味アナログとデジタルの対比にも似ています。というのは、磁気テープにしてもレコードにしても、そしてCDでさえも媒体の経年劣化は避けることができません。
デジタルとして保存すれば、媒体を変え続ければ(まるでクローンのように)永遠保存も可能となります。しかし、音楽については今でもアナログの需要は絶えないし、サブスク中心となったデジタルは使い捨てのような扱いを受けていることは否定できません。
85歳のリナは、姿は相変わらず。そして、娘のハルを産みます。しばらくして、施設にリヒト(小林薫)とフミ(風吹ジュン)という高齢夫婦が訪れます。入所したフミは末期がんでしたが、リヒトは自らの意思で不老処置は受けておらず、浜辺の小屋を借りて住むと言い入所しませんでした。
90歳のリナは、何気なくリヒトがハルのスケッチブックに描いた絵を見て、リヒトが自分が17歳の時に産んだ子であることに気がつくのでした。
この映画はカラー映像で、リナが不老処置を受けるまでの前半を時系列に追いかけていきます。しかし、不老処置を受けてからは後半は映像は白黒になり、時折フラッシュバックする過去のシーンだけがカラーになるという作りになっています。
前半では、よくぞ日本にこんな無機質な近未来を想像させる建物があったと思わせるシーンが続きます。これらは香川県庁舎や瀬戸内海歴史民俗資料館などがロケで使われています。後半は、ほとんどが小豆島でのロケですが、白黒であることで未来的ではない島の風景の「今感」を最小限にする効果があるように思います。
カラー映像の中に白黒が混ざるのは、過去の回想とか夢で見たことなどの場合が多いのですが、もしかしたら不老になること自体が「夢」のようなものだというとらえ方をしているのかもしれません。
この映画の究極のテーマは「生と死」であることは間違いなく、「死があるから人は生を大事にする。死ななくするのは生への冒涜ではないか」と言うセリフがあり、それに対してリナに「それは死ぬことが前提の考え方であり、不死になれば意味をなさない」と答えさせています。
しかし、映画の中で不死となった人が増えたことで、出生数は激減し自殺者が増加しているというニュースで語られるように、社会的にも個人的にも必ずしも幸福とは言い切れない状況は現実的に出現しそうな気配です。
プラスティネーションと不老処置という似て非なるものは、死を永遠とするのか生を永遠とするのかという違いがありそうです。ある意味アナログとデジタルの対比にも似ています。というのは、磁気テープにしてもレコードにしても、そしてCDでさえも媒体の経年劣化は避けることができません。
デジタルとして保存すれば、媒体を変え続ければ(まるでクローンのように)永遠保存も可能となります。しかし、音楽については今でもアナログの需要は絶えないし、サブスク中心となったデジタルは使い捨てのような扱いを受けていることは否定できません。
複雑で難解なシチュエーションが続きますが、登場する俳優陣の達者な演技に支えられて、最後まで集中して見続けることができました。特に芳根京子の硬派な演技には驚きました。見た目は30歳なのに中身は90歳、風吹ジュンよりも年上という設定のギャップを抱え、まったく動じない様子は素晴らしいものです。