1966年リリースされたボブ・ディランの名作「Blonde on Blonde」は、2枚組というだけあって長い曲が多い。何と言っても、レコードの最後の1面を占める「Sad Eyed Lady of the Lowlands」は11分23秒で、新婚の妻サラへの賛歌。7分5秒の「Stuck Inside of Mobile with the Memphis Blues Again」も、ディランの哲学がよく表れていると言われていますが、ここでは「Visions of Johanna」を取り上げます。時間は7分33秒です。
不穏な夜に、皆は認めようとはしないが、俺たちは行き詰っていた
ルイーズは雨を両手ですくって抗って見せてと君に言う
屋根裏の灯が漏れてきて、部屋の暖房のパイプが音を立てている
ラジオから静かに懐かしい音楽が流れ、まったく止める気にはならない
ルイーズは彼女の恋人と抱き合うけど、俺の心はヨハンナの幻影で一杯
目隠し鬼をして空き地で遊ぶ女たち、地下鉄ではしゃぐ娼婦たち
夜間の警備員がライトをつける音が聞こえた
彼は、自分と彼女たちのどっちが狂っているのか考えているようだ
ルイーズはそばにいて大丈夫、でもきっぱりとヨハンナがいないと言う
電気の亡霊が吠えて、ヨハンナの幻影が俺の場所に居座っている
本気で困っている迷子が自分の不幸を自慢して、むしろ楽しんでいるようだ
彼女の名を口にすると、迷子は去り際のキスの話をしてきた
役に立たないわりに図々しく、壁に向かってどうでもいいことを呟いている
何て言えばいい? 本当に生きていくのは大変だ
夜が明けるというのにヨハンナの幻影が俺を眠らせてくれない
美術館では無限について議論され、救いなんてこんなもんさと聞こえてくる
でもモナリザは憂鬱な旅をしていたことは、あの微笑みを見ればわかる
能面のような女たちがくしゃみをすると壁際の花が凍ってしまう
俺の膝はどこだと口髭男が言い、ラバの首には宝石と双眼鏡がかかっている
そのすべてが残酷に見えるのはヨハンナの幻影のせいなのだ
伯爵夫人のお気に入りの商人は、独りで生きてる奴がいたら祈ってやると言う
でも、あんたは何も見えてないというのが、彼を迎える時のルイーズの口癖
マドンナの姿はなく舞台衣装があった場所には、錆びた空の檻がある
バイオリン弾きが通りで魚を運搬する車の後ろに「借金完済」と書き込んだ
俺はハーモニカの音に気持ちが昂りヨハンナの幻影だけが残されていた
(意訳 : 亜沙郎)
この曲の歌詞は、作詞家としてのディランの最高傑作とまで称賛する評論家もいるくらいですが、やはり凡人にはその真の意味を簡単には理解させてくれそうもありません。
最初の節は今の現実。ルイーズという身近な女性と一緒に安ホテルかどこかにいる情景ですが、おそらくルイーズは実際の結婚したばかりの妻のサラがモデルでしょうか。ヨハンナは目の前には実在しない理想の象徴で、この時はすでに別れた元恋人(おそらくジョーン・バエズ)が想定されます。
となると、結婚しておきながら元カノが忘れられないという、常人ならかなり我儘な男のうじうじしたボヤキみたいなことになる。そこに芸術性が生まれてくるのがアーティストなんですが、話を複雑にしているのはルイーズ、ヨハンナ、俺の三人以外に「君」とか「ルイーズの恋人」とかまで出てきて、登場人物が多いところ。
これらの場面をキリストの「最後の晩餐」に例えて深読みしている方もいたりしますが、少なくとも人物が多いことで「俺」の罪を分散して、直接的にルイーズから非難されないようにしているように思えます。
とは言え、現実から始まり、次第に幻影に支配されていく割合が増えていくので、後半になるほど不思議な情景が広がっていて、単純な三角関係では読み解けません。現実の女性によって助けられることはなく、迷子になったりするのも自分、美術館も慰みにならないのも自分ということでしょう。これらの隠喩的な表現は、ディラン独自の感性から来る物で、それまでのポピュラー音楽史にはなかったものとして評価されてしかるべきと思います。
もともとニューヨーク・セッションでThe Bandを従えて録音されたのですが、「The Bootleg Series Vol.12 Cutting Edge」にいくつものテイクが含まれていて、ミディアム・テンポ、アップ・テンポ、ブルース風、スロー・テンポ、カントリー・ロック調など、いろいろなパターンが17テイクも試されました。進捗状況に業を煮やしたプロデューサーの提案で、ナッシュビルに移動して、ようやく納得のテイクが仕上がったというエピソードが有名です。
1966年のイギリス・ツアーでは、ほぼすべての公演で前半のアコースティック・ステージで弾き語りで演奏されていて、現在ではすべてがリリースされています。複雑で長い歌詞をどうやって覚えられるのか尋ねられたディランは、この曲については言葉ではなくイメージで覚えているので簡単だと答えています。
