年末年始休診のお知らせ

年内は12月28日(月)午前まで(午後は休診)です。 12月29日(火)~1月4日(月)は休診します。

2020年12月31日木曜日

大晦日2020


今年は確実に歴史に刻まれる一年でした。

科学の進歩によりデジタル化が進み、人間がどれだけ便利になった生活をしていても、敵わない脅威があるということを嫌というほど認識した一年です。

実際のところ、今だに「鉄腕アトム」は身近にいませんし、「2001年宇宙の旅」もできていない。そもそも進歩したと思うのは、人間の傲慢でしかないのかもしれません。

宇宙という巨視的な視点からすれば、地球というごく限られた場所で増殖して蝕むウイルスが人間という見方が成立します。そのウイルスが、さらにミクロの病原体に侵されるという・・・

まぁ、宇宙的ウイルスかもしれない人間の立場としては、何しろ日々の生活がかかっていますから、一度手に入れた地球上での生存権を手放すわけにはいきません。

今年は防戦一方でやられ放題でしたが、来年は攻撃に転じ、来年のこの日には明るく締めくくれるといいですよね。

交差点に立つ都筑まもる君(ローカルには有名!)も、ライトアップされ「頑張りましょう」とエールを送ってくれている感じです。

来年もどうかよろしくお願いいたします。

2020年12月30日水曜日

ミュンヘン (2005)

スティーブン・スピルバーグの久しぶりの社会派ドラマは、1972年のミュンヘン・オリンピックにおけるパレスチナ武装集団「黒い九月」によってイスラエルの選手11名が殺害された事件に端を発し、犯行に関わった人々をイスラエルが国を挙げて暗殺していった実話をもとにしています。

連合赤軍などが覚めやらぬ日本で、リアルタイムにまだ中学生だった自分の場合、遠い異国での凄い事件という認識以上のものはありませんでした。従って、この作品を見るためには、それなりの知識を勉強しなおす必要があり、さすがにユダヤ系アメリカ人であるスピルバーグもそこまで親切ではありません。

しかし、それでも長い歴史の中で迫害連れ続けてきたユダヤ人のことも、ある意味かつてのユダヤ人のように国を持てない苦しみの中にいるパレスチナ人のことも、本当に理解することは日本人には不可能であると思います。

映画の中でも、スピルバーグは比較的両者を公平に扱ったために、ユダヤとバレスチナの双方から批判をされたようですが、そういう意味では、この事件についてどちらの方を持つこともできない日本人は、映画として冷静に鑑賞することができるのかもしれません。

1972年9月5日、開催中のミユンヘン・オリンピックの選手村に、パレスチナの「黒い九月」の8名が侵入し、イスラエル選手団2名を殺害し、9名を人質に取り捕まっているパレスチナ人234名の解放を要求しました。

イスラエルの女傑首相ゴルダ・メイアは要求を拒否し、西ドイツ当局は武力鎮圧を計画します。テロリストは飛行機での脱出を要求し、人質と共にヘリコプターで空軍基地に到着。待機していた狙撃手の発砲により銃撃戦になりました。人質9名全員と警察官1名、そしてテロリストもリーダーを含む5名が死亡しました。

比較的事実に基づいたものとしては、1976年に「テロリスト・黒い九月 ミュンヘン」というTV用映画があり、日本語字幕付きでYouTubeで視聴が可能です。

さて、これからがこの映画のストーリーになるのですが、ここでもスピルバーグは「銀残し」のテクニックを全編にわたって適用し、白黒に近い彩度で、コントラストの強い緊張感のある映像を作りました。

メイア首相の肝入りで「神の怒り作戦」と呼ばれた報復が始動します。事件に関わった、パレスチナ側の主要人物を暗殺するために、イスラエル諜報部(モサド)のメンバーが選抜され、彼らはアイデンティティーを消去してヨーロッパに送り込まれます。

映画上は、チームはリーダーのアヴナー (エリック・バナ)、運転のプロであるスティーヴ( ダニエル・クレイグ)、爆弾製造のロバート(マチュー・カソヴィッツ)、現場の後始末をするカール(キアラン・ハインズ)、そして偽造文書作成のハンス(ハンス・ツィッシュラー)の5人。いずれも諜報活動に長けていたわけではなく、あくまでも面子が割れていないという理由からの人選。

映画は、こどもが誕生する直前のアヴナーを中心に展開していきます。事実に沿って、順調に暗殺を繰り返していくうちに、彼らの中にはしだいに人を殺すことに対する慣れが生まれてくる一方で、自分たちのやっていることの正当性に対する疑念も生じてくるのです。

アヴナーは唯一、妻にかける電話だけが精神を保つ拠り所でした。しかし、相手にも自分たちの存在が知れるところになり、カールとハンスが殺され、ロバートも爆弾製造に失敗して失います。

一定の成果を残したアヴナーは帰国し、これ以上の仕事はできないと上司に言い、妻子を避難させていたニューヨークに飛びますが、毎晩悪夢にさいなまれ、自分だけでなく家族にも危害が及ぶのではないかという恐怖がつきまとうのでした。

実際には、ノルウェイで事件の黒幕サラメを暗殺しようとして、人違いで一般人を射殺したことから、逮捕された工作員が自供しイスラエルの国家的計画が露見しています。もちろん、イスラエルは今でもこれらの作戦については公式には否定し続けています。

もともと殺人の訓練を受けていない集団が、次から次へと国ために人殺しをしていくプロセスは、やはり日本人には理解しにくい。しかし、その精神的な重圧は人を人でなくするには十分であることはわかります。

スピルバーグも、そこには正義が無いことを認めているのでしょう。実際、殺されていく敵は、いずれも彼らにとってごく普通の常識的な生活をしていることが十二分に描かれています。特に、偶然パレスチナ側の戦士らと一晩を過ごすことになった時、アヴナーは彼らもまた国を求めていつまででも戦い続ける話を聞くことになります。

当然、911事件と、それに対するアメリカの湾岸戦争などの報復行動に対してのメッセージを見て取れる。ラストシーンで、アヴナーが見つめる先には、倒壊する前の世界貿易センタービルが合成されていることからも明らかです。

結局、スピルバーグは、この事件そのものの犯人であるパレスチナも、そして報復に出たイスラエルに対しても否定はしないが、その連鎖が関わった人々を幸せにする物ではなく、この問題の解決には役に立っていないことを訴えたかったのだと思います。

相容れない立場の違いは、真っ向からお互いの正義がぶつかり合うだけということ。確かに今や世界はテロリズムが常態化し、どこにも勝者を見出せない泥沼の中にあります。

主演のバナは、オーストラリアのコメディアンからハリウッドに進出し、「ブラック・ホークダウン(2001)」、「ハルク(2003)」などで注目されました。スティーヴはこの後ジェームズ・ボンドに起用されています。

また、標的の居場所の情報を提供する組織の「家長」として、「007/ムーンレイカー」の悪役だったマイケル・ロンズテールが登場。アヴナーの妻は、イスラエルの代表的な女優であるアイェレット・ゾラーで、この撮影時は役と同じで実際に妊娠していました。

映像作家としてのスピルバーグとしては、現代に持続する問題に切り込んだことは高く評価されるところです。アカデミー賞では複数のノミネートがありましたが受賞は逃しましたが、彼のキャリアとしては最も強いメッセージを備えた作品として高い評価がされていいと感じました。

2020年12月29日火曜日

宇宙戦争 (2005)

スティーブン・スピルバーグとしても、主演のトム・クルーズとしても異色のSFアクション映画。

スピルバーグは、過去に「未知との遭遇」でも「E.T.」でも、友好的な宇宙人を映画の中に描いてきましたが、今回は地球を侵略し、情け容赦なく人類を抹殺していく宇宙人が登場します。そして、トム・クルーズは、勇敢な二枚目を捨てて、妻から愛差を尽かされ、こどもたちからも信頼されない父親。

原作は1898年に発表されたH.G.ウェルズの古典的SF小説であり、これまでに映画化もされていますし、そのモチーフを使った作品もたくさんあります。スピルバーグは、原作の宇宙人との戦いよりも、逃げ惑う一般人の視点からストーリーを再構築し、主人公はごく普通の市民という設定にしています。

原作が有名ですから、大まかなストーリーについてはいまさら書くまでも無い。この映画独自の設定は、宇宙人は人類が生まれるよりも前の太古の時代に、地中深く攻撃用マシン「トライポッド(三本足)」を埋めていたというところ。

ダメ親父のレイ・フェリエ(トム・クルーズ)が、離婚して離れ離れになったこどもたちと久しぶりに週末をすごすというタイミングで、宇宙人は雷と共に降下してトライポッドに乗り込みます。

世界各地で、同時に無数のトライポッドが地中から現れ、市民は大混乱の中逃げ惑うしかありません。レイは息子のロビー(ジャスティン・チャットウィン)と娘のレイチェル(ダコタ・ファニング)を伴って母親に家に向かいますが、やっとついてももぬけの殻。さらに旅客機が墜落してきて、命からがら逃げだしさらに祖父母の家に向かう。

途中で、更なるトライポッドの攻撃にさらされたり、理性を無くした市民の暴力に合ったりする。ロビーは自らも戦うと言って、このまま逃げるだけでは納得できないと、レイの制止を振り切って戦闘が行われている方に行ってしまいます。

宇宙人は一部の人間を捕獲して、エネルギー源にしていました。レイとレイチェルもついに長い触手で捕獲され、トライポッド内に吸い込まれそうになったときに拾っておいた手榴弾を爆発させ難を逃れます。

その後、各地で猛威を振るったトライポッドは次々と機能を停止し始めるのです。これは原作通りで、地球上の微生物に対して免疫が無い宇宙人たちは抵抗力が無く死んでいったのです。

やっと祖父母の家についたレイは、先に到着していたロビーの姿を見つけます。ロビーはこの映画で初めて、レイのことを「父さん」と呼び抱き合うのでした。

ということで、ここでは人々はいとも簡単に殺戮され、宇宙人との激しい戦いのシーンなどはほぼ皆無といってよい。生き延びるだけで精一杯で、いかに人間が無力かを徹底的に描きます。恐怖の盛り上げ方は、スピルバーグの得意とするところで、パニックの中で弱い人間の本性が垣間見えてきます。

墜落した飛行機の残骸や、行方不明者を探すたくさんの張り紙が、911事件の記憶を彷彿とさせるのはスピルバーグの意図したところで、テロリズムの中で一般市民がいかに犠牲になっているかを訴える意図があるようです。

そのような社会的視点を除くと、結局はダメな父親が、究極のサバイバルの中でこどもたちを精一杯守り親として復権する姿が、スピルバーグの一番描きたかったところなのかもしれないと思いました。

と言いたいところなんですが、やはりトム・クルーズを起用したら、この役柄はどう見てもピンとこない。全然ダメ親父に見えないし、クルーズがただ逃げまくるだけというのはありえないと思って見てしまう。ロビー役がクルーズで、彼の視点から何とかダメでも戦いに挑む地球人という話ならある程度納得できたかもしれません。

2020年12月28日月曜日

ターミナル (2004)

これは、前作に続いてスティーブン・スピルバーグの作品には3回目の登場となるトム・ハンクスが主演の現代劇です。フランスのシャルル・ド・ゴール空港に実在した人物をヒントにした話で、そのエピソードは「パリ空港の人々(1993)」としても映画化されています。

クラコウジア共和国(架空の国)から、ニューヨークに到着したビクター・ナボルスキー(トム・ハンクス)は、入国審査にひっかかる。彼が旅立った直後に軍事クーデターが発生し、パスポートもビザも無効となってしまったのです。

帰る国が無くなり、かといってアメリカに入国できないナボルスキーは、乗り継ぎロビーの中に足止めされることになってしまいます。ところが、ナボルスキーは英語がわからず、テレビのニュースで何とか自分の立場を理解するのです。

言葉が通じない状況のもどかしさは、ハンクスは自らのアドリブの「クラコウジア語」でこなすところはさすがです。何か月かたって、ナボルスキーは英語を勉強し、しだいに空港の底辺で働く人々と仲良くなり、なんとか食いつないでいく方法を見つけ出しました。

たまたま知り合ったCAのアメリア(キャサリン・ゼタ=ジョーンズ)に恋心を抱くようになります。アメリアは妻のいる男性と交際中でしたが、ナボルスキーの真っすぐな気持ちに惹かれるようになります。

しかし、空港から動けない状況がアメリアに知られてしまい、ナボルスキーは本当の訪米の目的を話します。それは、亡くなった父親の夢だった、ジャズ・ミュージシャンのサインの最後の一枚を貰うためだったのです。

アメリアは不倫相手とよりを戻し、その代償として彼のコネでナボルスキーの1日だけ有効なビザを取得してあげました。ちょうど、クラコウジアの紛争も終結し国に帰ることも可能になりました。

しかし、特別ビザに必要な入国警備責任者のサインが無く、責任者はこれまでもナボルスキーを邪魔者扱いしてきた人物。彼はサインを拒み、即刻出国するように脅迫します。入国を断念したナボルスキーに対して、仲良くなった大勢の空港で働く人々が応援し、ついにビザなしの不法入国を承知で空港の外に出ていくのでした。

そもそも、このような事態が現実に起こるのかという疑問があります。実際には、似たようなケースは多々あるようですが、さすがにアメリカでこのようなことはなさそうですし、実際あったらアメリカの人道主義も嘘くさくなる。

それを嘘と思わせないように作り上げていくのが映画であり、監督の手腕ということになります。さすがにスピルバーグはそんな疑問が湧かないように、正直者ハンクスの演技に支えられて軽快にストーリーを作り上げました。

また、911で空港でのロケができなくなったため、巨大な倉庫に5か月間かかって作り上げたセットは見事で、これもまた嘘を本物に見せる事に大いに役立っているようです。

全体的には評判は上々でしたが、現実味については許すとしても、やはり見ていて気になったのはナボルスキーとアメリアの関係。アメリアは元サヤにおさまって二人の恋は成就しないわけですが、スピルバーグは恋愛について描くことはうまくないという見本みたいな感じ。せっかく人気女優を揃えたのに、存在感としては薄いのがもったいない。

掘り下げれば重たいテーマも考えられる内容ですが、ちょっとだけロマンスを匂わせたライト・コメディとして見れば、十分に楽しめる作品です。

2020年12月27日日曜日

キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン (2002)

今度のスティーブン・スピルバーグ監督作品は、60年代末にアメリカに実在した偽造小切手の天才的詐欺師たフランク・W・アバグネイル・Jrの自伝をもとにしたストーリー。

アバグネイルは、17才でパンナムのパイロットになりすまし、医師として病院に潜り込み、さらに弁護士として裁判に登場しました。21才で逮捕されるまで、FBIを翻弄し続けた天才的手腕は、ある意味素晴らしいの一言に尽きます。

タイトルは直訳すれば、「やれるもんなら捕まえて見ろ」ということですが、これはアメリカの鬼ごっこでの決まり文句。スピルバーグは、アバグネイルが犯罪に手を染めるようになった経緯から、FBIに協力して偽造小切手を調査する専門家になるまでを、軽めのタッチでやすやすと描いていきます。

冒頭のタイトル・シークエンスは、スピルバーグには珍しい影絵のアニメーションで、追いかけっこをコミカルにトレースしています。そして、フランスの刑務所で服役中の悪人面したアバグネイル(レオナルド・ディカプリオ)が登場。アメリカへの移送のため訪れたのはFBIの捜査官ハンラティ(トム・ハンクス)で、アバグネイルは仮病で騙して逃亡しようとして失敗。

アバグネイルのまだ純真な17才から始まっても困らないところですが、最初にこのシーンを見せることで、アバグネイルがどういう人物なのか、そしてハンラティとの関係が表現されることで、話に入り込みやすくなっているというところでしょうか。

また、このシーンが無いとアバグネイルはいい子で始まり、いい人で終わってしまいます。この後も、移送中の「今」と過去のイベントが交互に登場して、しだいにその時間差が埋まっていく「追いかけっこ」構成を取っています。

基本的にここでスピルバーグが、映画化に興味を持ったのはおそらく「父子関係」であり、アバグネイルは大人になり切れないこどもです。そして、ハンラティとの間に疑似的な父親像を見出すことで、本当の大人になっていくことを描きたかったのだろうと思います。

裕福な家庭で幸せな暮らしをしていたアバグネイルは、父親(クリストファー・ウォーケン)の事業の失敗で暮らしが激変し、ついに両親は離婚。家でしたアバグネイルは、父親が金策で自分を利用したときのやり方をヒントに、小切手偽造詐欺に手を染めるのです。

当然、FBIの捜査対象になり、金融詐欺を専門とするハンラティの捜査対象になります。少しずつアバグネイルとハンラティの距離は縮まっていくのですが、いろいろな職業に成りすましている間に、本当の父親とハンラティには連絡を取り合うようになっていました。

小切手の偽造テクニックもどんどん上達。騙して司法家の娘に近づいてたアバグネイルは、本気で結婚を考え、彼女の父親(マーティン・シーン)にも家族への憧れを見出すのです。しかし、ついにハンラティに距離を詰められ海外へ逃亡。フランスで偽造小切手を作り続け、執念で追いかけてきたハンラティの説得で自首することになりました。

アメリカに移送される飛行機の中で、本当の父親が亡くなったことを知ったアバグネイルは慟哭し、一瞬のスキをついて着陸した飛行機から逃亡。そして母親のもとに向かいますが、母親は父親の親友と再婚しこどもまでもうけていました。駆け付けたハンラティに抵抗することなく逮捕され服役することになります。

ハンラティは、アバグネイル偽造小切手の鑑定能力に気がつき、保証人となって出獄させます。そしてFBIの中で働くことになるのでした。例によって、最後にその後のアバグネイルがどうなったかの語りと、「ハンラティとはいい友達でいる」ことが説明されます。

一度気になると、このスピルバーグの親切なエピローグはどうも気になる。実話が元ですから、わからないでもないのですが、必要が無いと判断して映像として描かない部分を説明し過ぎるのは、安心する人もいるかもしれませんが、白ける人もいるというところ。

「タイタニック」で人気に火が付いたディカプリオの好演、そして翻弄されつつも捜査を詰めていくハンクスの実直さがいい味をだしています。また、父親ウォーケン、義父まであっと一歩だったシーンら名優を揃えたことも、映画としての深みを出すことに成功した一因です。

ショー・レースに絡むような大作ではありませんが、普通の人間ドラマとして、もう一度見たくなる出来栄えです。

2020年12月26日土曜日

2020年総決算


おそらく世界中、老若男女、どんな仕事をしている人にとっても、こんなひどい年はいまだかつてなかったというのが2020年でしょう。

年初からの新型コロナウイルスのパンデミックの発生は、確実に人類史の1ページとして記録されることになる。感染したらほぼ間違いなく命を落とすほどの毒性が無いだけましかもしれませんが、いまだに終息の気配が無く先が見えないまま、年の瀬を迎えました。

ですから、ほとんど何も生産的なことがなかったこの一年なので、総決算と言っても何も思い浮かばない。できることなら、無かったことにしてリセットして完全にやり直したいくらいです。

クリニックの収益で言えば、2月と3月はわずかな減少、そして4月は前年比60%。そこから月に数%ずつ戻り11月になってやっと90%。ところが、再び感染者の増大により、12月は夏ごろに逆戻りです。

この間、5月からスタッフの勤務調整を行い、人件費の調節で何とか乗り切ってきましたが、再び緊縮策が必要になって来るかもしれません。

法人化しているので、自分も最も高額な給料をもらうスタッフですので、5月~6月は実質無給。7月以降はおおよそ50%に抑えたことで、何とか持ちこたえているというのが実情です。

国・自治体からの支援策として、持続化給付金がありますが、この対象となるほど落ち込んだわけではありません。また家賃補助という制度もありますが、これにもひっかからない。

感染症対策にかかる費用については一定の補助金が出ますが、これは当然収入になる物ではありません。とは言っても、よけいにかかった支出を補填できることは無いよりは有り難い。

結局は、ちょうど公的援助の対象にならないところでの持続的な経営難ということで、支出を減らして自分の努力で持ちこたえるしかないということ。

医療関係者ということで、国からの慰労金(コロナ診療をしていないクリニックなので5万円/人)をスタッフの人数分いただきました。個人的には特別給付金10万円というのもありましたが、当然今年のマイナス分を埋めるにはほど遠い。

新たな生活様式が求められているのと同じく、診療というものも変化が必要であることは理解しています。その最たるものはオンライン診療の導入ということになりますが、昭和世代の医者としては、患者さんと直接接することが無いのは「医療相談」以上のものになることがイメージできません。

特に整形外科では処置を伴う診療行為が多いし、専門としている関節リウマチでも定期的な検査は必須。オンラインだけで、責任を持った判断をする自信はありません。

何にしても、2020年はとっとと終わってもらうしかない。2021年は、太陽が見えて陽が射してほしいところですが、今のところ明確な期待ができる状況はありませんね。

2020年12月25日金曜日

マイノリティ・リポート (2002)

21世紀のスティーブン・スピルバーグ監督作品は、有名人気俳優が続々登場しますが、今作ではトム・クルーズが主演。

今から30年くらい先の近未来を描く、ハードSFアクション作品。この作品の世界観は、入り組んでいて、最初に実例が示されるものの、終わりまで見てやっとわかりかけるという感じ。ですから、一度だけでなく、もう一回見るくらいの元気が必要かもしれません。

犯罪、特に殺人事件の発生数が膨大な数になり、これを抑止するために警察の一部としてワシントンで犯罪予防局が設置されているところから話が始まります。このシステムは、3人のブリコグ(precognituve、予言者)が頭に浮かんだ犯罪イメージから、現場に急行し実際の殺人が起きる前に容疑者を逮捕し収容するというもの。

このシステムが稼働してから、殺人事件はゼロになり、バージェス局長(マックス・フォン・シドー)は全国に広げることを政治的な目標にしています。これに対して、司法省はシステムの安全性に疑念を持ちウィットワー調査官(コリン・ファレル)を送り込んできます。

予防局の優秀な警察官であるジョン・アンダートン(トム・クルーズ)は、6年前に幼い息子を誘拐され失ったことから、精神的ストレスを薬物で紛らわしながら、犯罪抑止に異常なほどの執着をしているのです。

ある日、プリコグの一人であるアガサ(サマンサ・モートン)は、アンダートンにだけ初めての殺人イメージを見せます。この事件を調査し始めると、今度は見知らぬクロウという人物をアンタートンが殺すイメージを送ってきました。これは何かの罠だと感じたアンダートンは逃走します。

アンダートンは、システムの開発したハイネンマン博士から、三人のプリコグが共通に見た予言だけが、捜査対象になり、個別にみるものは少数意見(マイノリティ・リポート)として無視するシステムだと教えられ、真実を知るためにアガサ連れ出します。彼女のマイノリティ・リポートは、彼女の母親が殺される場面であることを確認し、彼の殺人予言現場にたどり着きます。

クロウは息子の誘拐犯であると自白しますが、アンダートンは寸前のところで警察官であることを思い出し殺人を踏みとどまる。ところが、家族への大金と引き換えに誘拐犯を演じて殺されるよう依頼されたと言って、クロウはアンダートンの銃の引き金を自らひかせるのでした。大きな罠の中で、アンダートンはついに逮捕され収容所に送られてしまうのですが・・・

これは個人情報を高度に管理する未来の話で、実際に前年の同時多発テロ事件後、個人情報に対して強力に立ち入る動きが出始めていることに対しての問題提起が含まれているようです。個人情報を管理するだけでなく、それを好きなように操作して変更することができてしまうと、簡単に犯罪者を作り上げることが可能になる怖さが描かれています。

近未来を想像した各種の小道具も楽しい。いかにも、実現しそうなものばかりですが、組み立てられた車が「レクサス」だったりするのはご愛敬。いたるところに設置された網膜スキャンにより、個人を特定し行動が当局に筒抜けなのは、今の中国・韓国あたりが近づいているのかもしれません。

さすがクルーズといえるアクションも盛りだくさんで、スピード感のあるスリルとじわじわとやって来るサスペンスのバランスはなかなかのもの。バージェスはどこかで見たと思ったら、「エクソシスト(1973)」のメリル神父そのままじゃないでいか。シドーはメーキャップで老け役をしていたのですが、ここではそのまま年を取りました。

撮影されたフィルムは、「銀残し」と呼ばれる特殊な現像テクニックにより、ざらついたコントラストの強い画面は、現実感を強調します。これは「プライベート・ライアン」でも用いられた手法で、元々は日本初の技術。発色を抑え、コントラストを象徴できるアーティスティックな画像を作れます。

内容としては、SFですからいろいろ都合よく設定できるところがありますが、登場人物の逃走、侵入などが簡単すぎて驚かされます。近未来のセキュリティはいったいどうなっているのか、むしろ心配になります。

そしてスピルバーグの、だんだん気になるようになったエピローグ。さすがに悪が滅びで終わりで良さそうな感じですが、皆が平和に暮らしましたとさ、めでたし、めでたし、という説明がくどい感じ。すっきり終わらせたいという、スピルバーグのサービス精神なのかもしれませんけどね。

2020年12月24日木曜日

A.I. (2001)

21世紀最初のスティーブン・スピルバーグの作品は、新時代に相応しく、人工知能(artificial intelligence、AI)をテーマにしたものでした。

実はこのストーリーの基本構想は、巨匠スタンリー・キューブリックが用意した物。この内容はスピルバーグが監督することを望んだキューブリックは、80年代からスピルバーグと連絡を取り合って映画の実現に向けての動きが始まっていました。

1999年にキューブリックが亡くなり一度立ち消えそうになりましたが、遺族の強い希望によりついに映画化が実現したもので、スピルバーグが自ら脚本に参加し、キューブリックの原案をできるだけ尊重してまとめ上げたと言われています。

スピルバーグの映画では、父子の関係が表にも裏にも表現されていることが多く、前作「プライベート・ライアン」でも戦争に参加した父親に捧げるとしていました。しかし、今回のテーマは母と子の愛で、スピルバーグにしては珍しい。

確かにキューブリックが自らこの映画を作っていると、ハードエッジで母子の愛を硬質な物にしてしまい、キューブリック的なものとは合致しなかったかもしれません。確かに、スピルバーグ向きですし、娯楽性も兼ね備えたSF作品でのヒューマン・ドラマは得意なジャンルと言えます。

物語は19世紀末の児童文学「ピノキオ」をベースにしていることは明らかです。ジェッペットじいさんが、話をする丸太から木の人形を彫り、ピノキオと名付けました。ピノキオは楽しそうなことばかりに目が行って、危ない目にばかり遭う。巨大なサメに飲み込まれマグロに助けてもらって心を入れ替え、夢に現れた妖精によって本当の人間になるという話。

この映画の舞台は、地球温暖化により海面が上昇して、地球上の多くの都市が水没した150年くらい未来で、生活の中には高度な人工知能を備えた人間型ロボットが不可欠になっていました。人口を増やさないため妊娠は許可制となり、厳しくコントロールされているという設定です。

こどもがいない夫婦のために、少年型ロボットが開発され、しかも親に対して愛情を抱くように設計されました。そのディビッド(ハーレイ・ジョエル・オスメント)と呼ばれる試作機が、事故で意識が無く回復の見込みのないこどもを持つヘンリー(サム・ロバーズ)とモニカ(フランセス・オコナー)の夫婦に与えられます。

最初は所詮機械だと戸惑う母親は、しだいに興味を持ち、ついに自分を母親と認識するプログラムをインプットしてしまうのです。母親と認めてくれる「こども」を手に入れたことで幸せな日々が戻ってきたのも束の間、回復しないと言われていた本当のこどもが意識を取り戻し帰宅してきました。

不要になった場合は、破壊処分と決まっていたのですが、モニカは自分を母親と慕うディビッドを「殺す」ことはできず遠い森の中で置き去りにするのです。ディビッドは、以前モニカが読んでくれた「ピノキオ」の話に出てくる「青い妖精」に本当の人間にしてもらいモニカと再会するため、いろいろな危険な目に遭いながら、ついに水没したマンハッタンで本当の生みの親ホビー教授のもとにたどり着きます。

ディビッドは教授が青い妖精ではないことに落胆し、海の底に落下していきます。そこにはコニーアイランドの遊園地の残骸があり、その中のピノキオのアトラクションの中に青い妖精を見つけたディビッドはエネルギーが無くなるまで、本当の人間になりたいと願い続けるのでした。

ここで終わりでも映画は成立しそうですが、恒例となったしばしば批判されるスピルバーグ映画のエピローグがあります。実際は、原案にもあるもので、キューブリックの意向を反映したもの。

地球は氷河期に入り2000年が経過しました。人類は滅亡しており、高度に発達した人工知能、スペシャリストだけが「生命体」として存在しているのです。彼らは氷の中からディビッドを発見し、人類を直接見た最後のロボットとして再起動します。

彼らは、ディビッドがたまたま持っていたモニカの髪の毛から、モニカのクローンを作りますが、一度意識を失うとクローンは二度と生き返らないとディビッドに説明します。それでも、やっと母親に会えたディビッドは、最高に幸せな1日を過ごし、夜になり二人は二度と覚めない眠りにつくのでした。

最大の見どころは、ディビッドを演じた、当時12歳だったハーレイ・ジョエル・オスメントの無機質なロボットから、愛情を持つよう変化していく演技。「フォレスト・ガンプ(1994)」でデヴューし、「シックス・センス(1999)」でも、その演技は絶賛された子役です。ただし、残念ながら彼自身はいろいろとトラブルを抱える大人に成長してしまったようです。

ピノキオは人間になって立派な大人になっていくのでしょうけど、ディビッドは人間になれたわけではなく、母親に会いたいという望みを叶え、その思い出と伴に消滅する。スペシャリストも機械を有機体にすることは不可能でしょうし、仮にできたとしても人類が存在しない未来では成長する意味もありません。

しかし、ピノキオのような結末は夢物語ですが、ディビッドには「現実的」な結末を用意することで、母親に対する深い愛情の永続性を肯定的に表現することができるわけで、願いが叶わないところで終わっていたら、ただの感情表現ができるロボットの話。

ロボットのSF哲学映画という一面を強調したアメリカでは、あまり評判は芳しくなかったようですが、日本での母子の愛情を中心にキャンペーンが行われ、かなりの興行収入を生み出しています。

2020年12月23日水曜日

点検整備


通りかかった消防署。

温もりの有る日向で、機材の点検や整備らしきことをしていました。まぁ、いつもやっていることで、特別なことではないのだろうと思います。

ただ、大掃除という感じに見えて、年末を感じさせる光景でした。

通報があれば、即座に出動もしなければいけないのでしょうから、大風呂敷を広げたやり方はできないのでしょうから大変です。

日頃、われわれが呑気にしていられるのも、こういう社会インフラを支える仕事をしている方がいるからですよね。

ご苦労様です。

2020年12月22日火曜日

オニオンドレッシング


これ見て、何っ? ていうところなんですが・・・

ペットボトルに入れたドレッシングなんです。手作りってやつ。

例えば、結婚式の披露宴とかで、料理がフレンチだとします。デカい皿に、ちょっとだけ野菜がオシャレにのったサラダが出てくるじゃないですか。

そこに、かかっているお上品なドレッシング・・・っていうと想像できまかね。

それです。

それがオニオンドレッシングなんですが、巷のスーパーで、あの味を求めて買ってもほぼハズレです。

長持ちしないので、作り置きがきかない。せいぜい1週間以内というところ。

作り方は簡単。

玉ねぎ 1個
リンゴ 1/2個
ワインビネガー 50mlくらい
塩 味見しながら好きなだけ
オリーブオイル これも好きなだけ

玉ねぎとリンゴをミキサーで完全にドロドロにしたら、後はそれ以外を混ぜるだけ。

美味しいリンゴが手に入る、今の時期だけ限定の味というところでしょうか。

2020年12月21日月曜日

プライベート・ライアン (1998)

スティーブン・スピルバーグとしては、この映画で2度目のアカデミー監督賞を受賞しました。興業的にも成功し、映画史に残る傑作となりました。


第2次世界大戦のもとで、ノルマンディ上陸作戦の後、一人の二等兵を探し出し帰国させるという任務を帯びた小隊が多くの命の犠牲を払う話は、普通に日本人が見ると理解に苦しむ。

この映画の理解には、ソウル・サバイバー・ポリシーという言葉を知る必要があります。アメリカで実際に法制化されたのは戦後の1948年のことですが、実際に戦争が始まると急速にこの考え方が普及していきました。

南北戦争の時にリンカーンもこの事を強く憂慮していたことで、戦争によって兄弟が全員戦死してしまうと、その家は断絶してしまう、それを防ぐために、生き残っているこどもがいれば軍務を免除して帰国させるというものです。


今も軍隊があり徴兵制度がひかれているアメリカでは、この映画の当時では常識的な考えになっていたと思いますので、この映画についてテーマに違和感を覚えるアメリカ人はいないのだろうと思います。

スピルバーグは、ノルマンディ上陸作戦に参加していたナイランド兄弟の実例をヒントにして今回の映画を組み立てました。準備のために長い時間が費やされたにもかかわらず、実際の撮影が始まると、何とわすが2カ月で撮り終えています。

2時間48分の映画の冒約30分近くを使って描かれる上陸作戦の戦闘シーンは、見るもの全てを戦争の恐怖・残酷の中に導きます。今まであったどの戦争映画の戦闘シーンも、これに比べればこどもの学芸会です。

上陸艇のハッチが開いた途端に、たくさんの兵士が銃撃で倒れ込む。中にはヘルメットを銃弾が貫通し、海中にも弾が飛び込んできて命を落とす。やっと上陸できても、迫撃砲によって、体の一部が吹っ飛ぶ。海面は血によって赤く染まり、そこらじゅうに屍が横たわる様は凄過ぎる。

この中に中隊を率いるミラー大尉(トム・ハンクス)がいました。ミラーでさえ、恐怖を感じ手が震えてしまうのです。やっと後続部隊の進入路を確保して一息ついたときに、ミラーに新たな命令が下ります。

「ライアン二等兵を探し出し、無事に帰国させろ」

ライアンの3人の兄が、前後して戦死したことが判明し、マーシャル陸軍参謀総長からの指令でした。ミラーは、7名の部下を引き連れて、パラシュートで降下した後に行方不明になっているライアンの捜索に向かいます。

しかし、途中でドイツ軍と遭遇して二人の部下を失う。休息している時、ミラーは「一人部下を失うと、それはその10倍の兵士を助けるためだったと考えるようにしている」と語り、「ライアンに20人分の命の価値があることを願う」として先に進むのです。

重要な橋を死守していた生き残り部隊の中に、ついに目的のライアン(マット・ディモン)を見つけ出しました。しかし、ライアンはここで戦うことを続けることが家族のためだと言ってその場を去ることを拒否します。

ミラーは、しかたがなく一緒に橋を死守する目的を達成した上で、ライアンを連れ帰ることにします。しかし、ドイツ軍は多くの戦車や重火器を装備して攻撃してきたため、仲間は次々と倒れ、ついにミラーも敵に銃撃されてしまいました。

ぎりぎりのところで応援部隊と航空支援により、ドイツ軍は壊滅しましたが、ミラーはライアンに「無駄にするな・・・しっかり生きろ」と語り息を引き取ります。

それから何十年もたって、ライアンが家族を連れノルマンディー米軍英霊墓地を訪れます。ミラーの墓標の前で、ライアンは同じく年老いた妻にも「私はいい人生を送っただろうか? 私はいい人間だったかな?」と問いかけます。

スピルバーグは、第2次世界大戦にまつわる映画としては、「1941」でその愚かさを茶化し、「太陽の帝国」で民間人も多くの犠牲を払った事を思い出しました。「シンドラーのリスト」では、その狂気が人を人として見れなくなる怖さを描き、そして今作ではついに正面切って戦闘の意味を深く問いかけてきました。

老ライアンのシーンは、感傷的すぎるという評価はしばしば見受けられます。実際、これがスピルバーグらしさであるんですが、一定の結論を観客に押し付けるというのはあながち間違った批判ではない。

しかし、ライアンは何十人もの命の価値を見出せるだけの、それは特別な人類に貢献するような大発明でなくても、充実した人生を送ることが期待されていたわけですから、ミラーが死んで終わりではなく、それを感じ取れる最後のシーンがあることはスピルバーグの重要なメッセージと感じました。

トム・ハンクスはこの映画の後、たびたび重要な俳優としてスピルバーグ作品に登場することになります。ハンクスの軍人としての務めを尊重しつつも、人間味も忘れない演技によっても、さらに映画の格が上がりました。

スピルバーグが、このような社会派の人間ドラマを作ることに、誰も異論をはさむことは無くなり、むしろ期待するようになったと言えるのかもしれません。

2020年12月20日日曜日

摩天楼はバラ色に (1987)

マイケル・J・フォックスの最高傑作は?

誰もが「バック・トゥ・ザ・フューチャー」だと答える。いや、それを否定するつもりはありませんが、あえて言いたい。

彼のキャラクターが本当に生かされた「摩天楼はバラ色に」を見てから、もう一度考えてみてくれと。

名匠ハバート・ロスが監督したこの映画は、80年代のアメリカを見事に切り取ったラブ・コメディの傑作なのです。もう完全な夢物語であり得ない展開なのですが、誰もが自分を投影できる等身大のマイケル・J・フォックスが、愛と仕事を手に入れるサクセス・ストーリーは、拍手喝采しかありません。

カンサスの田舎からアメリカン・ドリームを夢見てニューヨークに出てきた、ブラントリー・フォスター(マイケル・J・フォックス)は、到着早々就職するはずの会社が乗っ取りにあい仕事を失います。

しかたがなく遠い親戚で大会社の社長、ハワード・プレスコット(リチャード・ジョーダン)に頼み込んで、会社内の郵便の配送係の仕事に就きます。そこで会社内の郵便物から経営上の問題点に気がつき、新米重役ウィットフィールドに成りすまし経営の効率化策を作り出すのです。

重役の中の紅一点クリスティ・ウィルズ(ヘレン・スレイター)に一目ぼれし、偶然送迎をした社長夫人ベラ(マーガレット・ホイットン)からも気に入られたウィットフィールド、いやブラントリーは重役会議で会社乗っ取りを防ぐために経営効率化のため縮小案に反対して、拡大案をぶちあげる。

実はクリスティは社長ハワードの不倫相手で、ハワードからウィットフィールドをスパイするように頼まれます。しかし、ブラントリーの本気の事業計画を聞いているうちに二人の仲はどんどん縮まっていくのです。

社長宅でのパーティの夜、ブラントリーはクリスティ、ベラはブラントリー、ハワードもクリスティ、クリスティはブラントリーのそれぞれの部屋に忍んでいこうと行ったり来たり。最後はクリスティの部屋で、全員が鉢合わせしてすべてがバレてしまう。

ブラントリーとクリスティは首になりましたが、会社創業家の娘であるベラの助けで、乗っ取りを画策する敵対企業の株を買い上げで撃退し、ハワードを首にして新社長に就任するのでした。

・・・と、まぁ、世の中こんなにうまくいくわけがないところを、突っ込む代わりに応援したくなるというのがマイケル・J・フォックスの人徳というところ。

相手役のヘレン・スレイターは1984年に映画「スーパーガール」でデヴューした、ブロンド美人。リチャード・ジョーダン、マーガレット・ホイットンの二人もいい味を出すバイプレイヤーですが、二人とも残念ながら病気で亡くなりました。

この映画では音楽を担当したのは、当時引っ張りだこだったデヴィッド・フォスターで、実にムードのある音楽を作りました。そこへ、ナイトレンジャーらのテーマソングが効果的に使われ、映像と音楽の組み合わせは実に素晴らしい。

とにかく見終わって、とてもすっきりした気分になれるというのは重要です。評論家諸氏には必ずしも名作扱いされていない感じはありますが、マイケル・J・フォックスの出演作としては出色の出来栄えで、彼の魅力をしつかりと引き出した傑作として評価されるべき作品と言えます。


2020年12月19日土曜日

バック・トゥ・ザ・フューチャー (1985)

映画のスタッフで一番偉い人は?

監督は、現場で撮影を指示してOKを出す人。映画の個性を最も決定づけているのは、監督の意向と言えそうです。誰々が監督した映画、という語られ方で作品を論じることが普通です。

映画を作るための資金を調達し、俳優を集めてくるのはプロデューサー(制作)という立場の人。映画を作るのには莫大なお金がかかるので、この役割を担う人がいなければ始まらない。

監督がこうしたいと思っていても、プロデューサーがウンと言わなきゃダメ。時には、雇われ監督による、プロデューサーの意向に沿うだけの作品もあります。アカデミー作品賞は、プロデューサーに与えられるものという言われています。

ちなみに日本では、このプロデューサーにあたる「制作委員会」という方式が多い。資金調達が分散するのでお金を集めやすくなりますが、当然利益は少なくなります。

さて、監督よりも、プロデューサーよりも、偉いということになっているのがエグゼクティブ・プロデューサー(制作総指揮)で、例えばスティーブン・スピルバーグは、この役割で参加している映画が、自分の監督作よりも多い。

ところが、この肩書は、偉いんですが役割は何だかよくわからない。映画が売れるために、名前だけ貸しましたみたいなものもある。実際のところ、「スピルバーグの××」と宣伝され、監督だと思って騙されたなんてことは山ほどあります。

スピルバーグの映画だと思ったら違っていたけど、めちゃめちゃ面白くて大ヒットした代表的な作品が「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のシリーズ。

そもそもは、制作であり脚本を書いたボブ・ゲイルのアイデアから始まったもの。ゲイルは、スピルバーグが監督した「1941」の脚本を書いた人。若くして有名になったスピルバーグには、70~80年代にはずいぶん一緒に仕事をしています。

監督はロバート・ゼメキスで、この人もスピルバーグの弟子みたいなもの。ゲイルとのコンビで、初期のスピルバーグ作品を支えた感じです。1994年の「フォレスト・ガンプ」でアカデミー監督賞を受賞しました。

このシリーズは、ゲイルが思いついた話を、ゲイルとゼメキスで脚本化して、スピルバーグの興したアンブリンの元で作り上げたということ。何かにつけて「スピルバーグさんがついていますから」と言えば、いろいろな交渉もやりやすくなったのかもしれません。

タイム・マシン物の映画はたくさんありますが、この映画のポイントは「みんなが体験してきた(あるいは容易に想像できる)過去」に戻るというところ。古い時代に戻るのは、歴史の教科書にのっている過去の見物みたいなところがあります。

ですから、タイム・スリップしたところには、いろいろな懐かしさを見出すことができて、登場人物の今昔の変化が直接映画に関連してくるところが、ストーリーの幅を広げています。

「1941」では、悪乗りしすぎたギャグの連続でスピルバーグの評価を下げまくったゲイル&ゼメキスですが、ここではマイケル・J・フォックスという、実に誰からも愛されキャラの俳優を得たことで、嫌みの無いスマートなコメディ要素を組み入れることに成功しました。

未来的なSF感覚で、オールディーズを語るロマンティック・コメディ要素のアクション映画とでもいえる、面白さてんこ盛りの内容なのに、ぞれぞれのバランスがうまくとれていて絶妙と言わざるを得ない。

内容は今更何をか言わんや。ハードなスピルバーグ作品で。ちょっと疲れてきた時でも、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」を見れば元気回復。何度目でも、散りばめられたいろいろな仕掛けを発見できる楽しい映画です。

ちなみに、パート2、パート3までのトリロジーとして×十周年記念ボックスとして数種類のパッケージが売られていますが、自分が持っているブルーレイ・ボックスは海外版。しかも、本編には日本語字幕・日本語吹き替えが入っているだけでなく、特典映像にも日本語字幕が付属しています。中古の購入価格は2000円を下回るのでお買い得です。

2020年12月18日金曜日

アミスタッド (1997)

スティーブン・スピルバーグは、1994年にディズニーの制作トップだったジェフリー・カッツェンバーグと音楽業界のデヴィッド・ゲフィンと共に、新たな映画制作会社ドリームワークスを設立します。

1997年2本目の公開となるスピルバーグの映画としては、本作がドリームワークスでの最初の作品となりましたが、アメリカ史の中で奴隷制度に深く関わり、しかも南北戦争の引き金の一つになった「アミスタッド号事件」を取り上げ、興業的には成功とは言えませんでした。

しかし、すでに単なる娯楽映画監督と言われない存在になったスピルバーグは、「白人」はあまり触れたくないであろうこの重厚なテーマを、2時間34分の映画の中に見事に描いたと感じました。

ヨーロッパの植民地であったアメリカが独立宣言をしたのが1775年。ジョージ・ワシントンが初代大統領となったのは1789年。1860年にリンカーンが大統領に就任すると奴隷解放制作を実行し、5年間続いた内乱である南北戦争が勃発。

その過程で1839年に起こったのが「アミスタッド号事件」でした。西アフリカで奴隷売買のために捕まったシンケら50人ほどのアフリカ人が、キューバに向かう途中で拘束を脱して船を乗っ取りました。

しかし、船はアメリカに到着し彼らは逮捕されます。裁判になり、スペイン女王、奴隷商人、逮捕に協力した海軍士官などがアフリカ人たちの所有権を主張する事態になります。地方裁判所では、それぞれの主張を退けアフリカ人たちに自由を認めましたが、奴隷制度を維持したい南部の顔色をうかがう時の大統領ビューレンは、最高裁に上告。

前大統領であったアダムズが弁護を引き受け、最高裁でも彼らの自由が認められ、1842年にやっとアフリカの故郷に帰ることができました。しかし、奴隷制度に頼る農業主体の南部の地域は、工業主体の北部に対する敵対関係を悪化させる要因の一つとして歴史に記録されることになりました。

アミスタッド号の船倉でシンケが束縛する鎖を何とかはずシーンから始まるこの映画は、史実をほぼ忠実に再現していきます。いきなり暗いシーンで、時折見えるシンケのアップは何か得体のしれない怖さを感じます。

当然のことながら、アフリカ人だちは英語でもスペイン語でもない、彼らの言語で話をする。この内容はだいたい想像できるにしても、何を話しているのかわからない状況は一層見るものを不安させるのです。

実際のところ、アフリカ人からすれば白人たちの会話は理解できないわけですから、何とか通訳が見つかるまでは、同じ不安を抱えていたわけです。冒頭から、彼らの不安を疑似的に体験することで、見ている我々も少しでも彼らのことを理解するようになっているんだと思います。

基本的には法廷劇と言える体裁をとっていて、意外なほどに現代でも理解しやすい裁判の進行をしていることに少なからず驚かされます。裁判官(判事)がいて、検事と弁護士がいる。状況証拠よりも物的証拠を重視するなど、すでに司法の仕組みは出来上がっていると感じました。

迫真の演技を見せるシンケ役のジャンモン・フンスー、奴隷解放を支援する黒人の新聞記者にモーガン・フリーマン、金目的だったのが次第に奴隷解放のために弁護するボールドウィン弁護士にはマシュー・マコノヒー、そして最後にアフリカ人の自由を勝ち取る大演説を行うアダムス前大統領はアンソニー・ホプキンスが演じます。台詞のある女優さんはまったく登場しません。

ちょっと気になったのはエピローグ。主要な物語が終わった後に、登場人物のその後をナレーションや字幕で追加しています。これは「シンドラー」でもありましたが、語るべきことがあるならそこまで映画にすべきだし、そうでないなら蛇足でしかありません。

とは言え、このような人間ドラマを飽きさせずに最後まで見させる構成力は、さすがに素晴らしい。映画を作り始めて30年、50才になったスピルバーグは、どんな映画でも安定した力量を期待できる作家になっていました。