2013年5月23日木曜日

Martha Argerich Live in Tokyo 2000

負け惜しみみたいですが、凡人でよかったと思うのがマルタ・アルゲリッチの人生。

アルゲリッチは、アルゼンチンの天才少女として幼くして脚光を浴び、ヨーロッパに渡ります。そこから、同じ年代の少女のような楽しみは無くなり、周りは大人ばかり。世界がどんどん狭くなり、気持ちのよりどころをなくしたアルゲリッチはコンサートをドタキャンしたり、いろいろなところでかみついたりするようになったとのこと。

しかし、それがアルゲリッチの個性となり、時には褒め称える材料になったりしたのは、彼女にとって幸であり不幸であるのでしょう。ただし、外から見れば、自由奔放とか天衣無縫というような表現で、好意的に見られることの方が多かったわけで、今でもそういうところが音楽として面白いわけです。

しかし、本人は一人で演奏していると、ひたすら鍵盤を見つめて気持ちがどんどん突き詰められていくと言い、時に鍵盤が動物の口のように見えて怖くなったと告白しています。それが、コンサートでも録音でも独奏をする機会がどんどん減っていった理由だそうです。

おそらく、その不安定な精神状態がピークに達したのが、1980年の国際ショパンコンクール審査員辞任事件に象徴されるのでしょぅ。自分の推すピアニストが落選した事に腹を立てて、コンクールの途中で帰国してしまいました。

 そのあとから、残された録音は2台のピアノあるいは4手ピアノ作品、クレメールやマイスキーらとの競作を中心とした室内楽が圧倒的に増えて、ピアノ独奏を聴く事はなくなるのです。

ところが、2000年ごろに再びアルゲリッチの心に変化が出てくるのです。ピアノ独奏を再開し、日本でもソロ・リサイタルを行っています。そのときの奇跡的な記録が、東日本大震災のチャリティとして10年を経て発売されています。ライブ録音とは言え、ソロとしては1983年のシューマン以来のもので、得意のショパン、バッハ、プロコフィエフ、ラベル、スカルラッティを演奏しています。

これは、もともと2000年始めに行われる予定だったミケランジェリ追悼のプログラムだったのが、恩師グルダが亡くなったために延期となっていたもので、 いろいろな意味でアルゲリッチにとっては思いのこもったコンサートだったようです。

この頃から、アルゲリッチは後身の教育に力を入れるようになり、スイスのルガーノ(2002~)と日本の別府(1998~)で毎年プロジェクトを行うようになりました。これらでは、若い演奏家を積極的にパートナーに登用して、ソロからオーケストラまで様々な形態の音楽を楽しく提供するようになり、演奏家としてより音楽家として充実した活動をおこなっているのです。