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2014年11月5日水曜日

ライプツィヒ時代のバッハ (2)

ライプツィヒ時代の1年目と2年目は、バッハは毎週ある礼拝でほぼ切れ目なしに自作カンタータを演じ続けています。ただし、旧作の再利用やパロディも多め。しかし、2年目は、おそらく大いなる決意を持ってコラール・カンタータの体裁を貫き通しました。

つまりプロテスタントの基本的な讃美歌のメロディの一部を利用した合唱から始まり、アリアとレチターティボをいくつか間にはさんで、最後にコラール本体を置いて締めくくるというのが基本形です。

なお1年目の終わり、1724年4月7日の聖金曜日には、ヨハネ受難曲が初演されました。この時の楽譜はほとんど残っていませんが、最終形に近いものと考えられています。1725年3月30日の聖金曜日にも、ヨハネ受難曲が演奏されていますが、大幅に改定したものと推定されています。

1725年5月からの3年目は、残っているものは少なく、バッハの自作として確認されているものは10数曲。他人の作品、とくに親戚のおじさんJ.L.バッハのものを多く取り上げています。
1726年5月からの4年目になると、再び自作曲が並びます。興味深いのは、この年に独唱カンタータが急増していること。素晴らしい能力を持った歌い手が出てきたか、あるいは市に滞在していたのでしょうか。

1727年に、詩人ピカンダーとのコラボが始まります。そして1727年4月11日、聖金曜日には、人類最大の音楽遺産ともいわれるピカンダーの詩を用いたマタイ受難曲が初演されました。ただし、この初期稿は失われていて詳細は不明ですが、推定復元稿は唯一現役カントルのビラーの演奏があります。

その後は、残されているカンタータは激減しますが、ピカンダーの「1年分のカンタータ詩集」を用いたものが9曲あり、ほかの詩にも曲をつけた可能性は否定できません。1729年4月15日、聖金曜日に、初期稿によるマタイ受難曲が再演されています。

1730 年には市当局に対して、バッハは意見書を提出し、バッハの目指している「整った教会音楽」のために今の作曲・演奏環境が貧しいものかを訴えています。トー マスカントルとしては基本的には、これまでに作ったストックの再演で、日々の仕事をこなすことができるようになりました。

つまりバッハは、この頃に市当局との軋轢が決定的になり、トーマスカントルとしては最低限の業務をこなすことだけにして、自らのこれまでの業績を集大成する ことに力を注ぐようになるわけです。1731年の聖金曜日には、もう一つのバッハ自作の受難曲であるマルコ受難曲が演奏されていますが、歌詞のみで楽譜は完全に消失しています。

実際、教会を離れてバッハが指導を始めていた、大学生を中心としたコレギウム・ムジクムとの活動はこの頃から活発化していきます。また、彼らが演奏することを想定した世俗カンタータも、増えていきました。

1733年、バッハは市の不当な扱いに腹を据えかね、ドレスデンのザクセン選帝侯に対しキリエとグロリアからなるミサ曲を献呈し、援助を求めています。1734年 には、それまでの世俗カンタータのパロディを中心としたクリスマスオラトリオと呼ばれる、クリスマスから新年の特別な6日間に演奏するための連作カンタータがまとめられました。

1736年、ドレスデンの王室宮廷楽団付作曲家の称号を得ます。名誉職ではありましたが、益々悪化していたライプツィヒ市当局との関係には、一定の歯止めになりました。

壮年期に入ると、バッハはいくつかのミサ曲を作り出します。ミサ曲は本来カトリックの典礼のためのものですが、プロテスタントも一部は取り入れていたもので、無理な話ではありません。大部分は以前の作品のパロディで構成されていました。

そして、 1733年のミサ曲をもとに、晩年の有名なロ短調ミサ曲に集約されていくわけですが、これらの成立については不明な点が多く、何故これだけの大規模なミサ曲を作ったのか、また実際に演奏されたのか、謎だらけなのです。

いずれにしてもライプツィヒ市からは冷遇される日々に、大きなかわりはなく晩年のバッハは失明の危機にさらされ、1750年、65歳で天寿を全うするのでした。そして、人々の記憶からは、急速に忘れ去られたのです。