2014年11月4日火曜日

ライプツィヒ時代のバッハ (1)

ヨハン・セバスチャン・バッハが晩年までの後半生に活躍したのが、ライプツィヒにある聖トーマス教会

教会の詳しい説明は、ライブツィヒ市のHPにあります。それによると、今より800年も前、創設は1212年の修道院からで、少年合唱団も同時期に組織されたとのこと。

現在の教会が建立されたのが1496年で、かのマルティン・ルターもここで説教をしたというから、その歴史の懐の深さは想像以上です。

バッハは、この教会のトーマスカントルという職についたのが、1723年のこと。前任者だった、ヨハン・クーナウが亡くなったのが1722年6月のことで、バッハが就任するまで約1年がかかっています。

後任人事を選定するライプツィヒ市参事会が最初に目を付けたのは、ライプツィヒ大学出身だったテレマンでした。テレマンは、当時ハンブルクの教会で音楽監督をしていて、すでに有名人。ハンブルクは獲られてはなるものかと待遇を改善したため、この案はポシャリます。

続いてダルムシュタットの宮廷楽長のグラウプナーを候補にしますが、こちらも断られ、1723年春の時点で、市としては「最高が無理なら、中くらいでがまん」ということになりました。

そんなわけで、当時あまり名前の知られていなかったケーテンの宮廷楽長のバッハに話がまわってきたわけです。バッハ一家は、1723年5月22日にライプツィヒに引っ越ししてきました。

ここから27年間、亡くなるまでバッハはライプツィヒで獅子奮迅の働きをするのですが、もともとバッハを小者扱いしていた市当局とは、ぶつかり合うことばかりで、それはもうストレスフルな毎日だったことでしょう。

現代のカントル、ビラーはバッハから数えて16代目にあたるわけですから、およそ一人のカントルは平均20年弱くらいの在任期間ということになります。バッハの27年間は長かった方なのでしょう。

バッハは最初の5年間、だいたい年に59回ある主日や祝日のためのカンタータを用意したとされています。そのまま掛け算をすれば、およそ300曲となりますが、実際にはちゃっかり休んだり、他人の曲を演奏したりしていたことがわかっています。

現在、演奏可能なものとして残されているバッハのオリジナルの教会カンタータは約200曲。100曲程度が散逸したといわれていますが、実際にはもともと作曲されていない可能性もあり、本当に消失したものはその半分程度なのかもしれません。