30代なかばにさしかかったヨハン・セバスチャン・バッハは、ケーテンでの恵まれた作曲・演奏環境を捨てて、「整った教会音楽」の完成を求めて1723年、38歳の時にライプツィヒの地に赴任しました。
ライプツィヒでは、前年にトーマスカントルの職にあったクーナウが死去して、その後任の選抜に苦労していました。テレマンなどの名立たる作曲家には断られ、しかたがなくオープン試験をすることになります。
応募してきた中の一人がバッハだったわけで、1723年2月7日、バッハは2つのオリジナルのカンタータをひっさけでライプツィヒを訪れ、採用試験に臨みます。
その2曲が、
BWV22 イエス十二弟子を召寄せて (1723)
BWV23 汝まことの神にしてダビデの子よ (1723)
BWV22は、弟子たちに受難を予言するイエスの言葉と、それを聴いて混乱する弟子たち、そしてエルサレムに向かった後の新生を祈る内容です。合唱も器楽も当時の新しい様式を取り入れて、いろいろなテクニックを披露します。
BWV23では、一転して厳粛な雰囲気を漂わせます。冒頭は、ソプラノ、アルト、そしてオーボエが絡み合い、信仰のある盲人の苦悩をうたいあげます。
いずれも、バッハはライブツィヒ市に自分を売り込むために、古めかしいものから新しいものまで、いろいろな合唱や器楽をいかせる作曲能力を誇示するものになっているわけです。
復活祭前第7主日、五旬節のために、純粋に書き下ろされたカンタータとしては、2曲が残っています。
BWV127 主イエス・キリスト、真の人にして神よ (1725)
BWV159 見よ、われらエルサレムにのぼる (1729)
BWV127は、バッハのカンタータ年巻では第2年(1724~1725年)の最後にあたるもの。受難週を控えて、その予告編的な内容で、魂をうたう第3曲のソプラノのアリア、最後の審判を告知する第4曲が見事です。
BWV159は、マタイ受難曲で結実する作詞家ピカンダーとの最初のコラボレーションで、迫り来る受難の緊張をつづります。第1曲はバスのアリアとアルトによるレチタティーボが絡み合い、第2曲ではアルトのアリアとコラール合唱など、複雑な構成をとります。