2017年11月30日木曜日
古事記 (16) 神功皇后の謎と応神天皇
古事記や日本書紀を歴史書と考えて、西暦と対応させることはかなりの困難を伴います。神代については、もしも史実として実在するなら、もうまったく何でもありで、旧石器時代から古墳時代のどこでもいいわけです。神武天皇即位が辛酉の年と記載され、事実か否かは別として、かろうじて紀元前660年と決まります。
そこから各天皇の在位年数などの記載を真に受けて考えると、ヤマトタケルが活躍するのは西暦100年頃のこと。仲哀天皇が急死して、神功皇后が三韓征伐に乗り出すのが西暦200年頃。238年に魏国に使いを出し、ここから大陸との往来が頻繁になり、神功皇后が亡くなるのが269年ということになります。
一方、魏志倭人伝の記述で邪馬台国の卑弥呼が死去するのは247年か248年と考えられていて、「ほぼ当たり」とするか「まったくはずれ」とするかは考え方しだい。
いずれにしても、7世紀に記紀編纂が始まった時点では、日本書紀の神功皇后についての記載に意図的に引用されている事実から、魏志倭人伝の存在とその内容は日本でも知られていたことは間違いない。にもかかわらず、一言一句「邪馬台国」も「卑弥呼」も記紀に登場しないのは何故か。
考えにくいのですが、ヤマト王権とはまったく別の対抗勢力である場合があります。この場合、邪馬台国の場所は九州しかなく、ヤマト王権からすれば敗者の話なので無視・・・なんだけど、完全黙殺できない何かの事情があったとしか思えません。
ヤマト王権と直接の関わりのある集団だった場合は、畿内説が浮上しますが、九州だとしてもかまわない。記紀に記載しなかった理由は、先進国としての中国側への対抗心が最も大きいだろうと言われています。
何故なら、「邪馬台国」は「ヤマト国」の意味ともとれますが、当てた漢字は邪(よこしま)。「卑弥呼」も「姫命(ひめのみこと)」の意味かもしれませんがも使われた漢字は卑(いやしい)です。つまり、魏からすれば、かなり高飛車なかなりの上から目線の表現なので、ヤマトからすれば到底承服しかねる。
自分たちのかつての支配者を、そんな風に呼ばれて、そのまま記載するわけにはいかなかったということだろうと。なにしろ、特に日本書紀は、ヤマト王権の「正史」として天皇の神格化と支配の正当性を徹底的に謳い上げることが最大の目的です。そのためには、いくらでも創作神話の挿入も厭わない編集方針ですからね。
ここまでの話は、記紀のいずれも事実だとしてもかなりの脚色があることは間違いありません。神功皇后の息子のホムダワケは即位して応神天皇となりますが、やっとこのあたりからは実在については確実視されるようになります。
そして、応神天皇は世継ぎ候補として三人の皇太子がいましたが、末っ子の寵愛する宇遅能和紀郎子(ウジノワキイラッコ)を筆頭に考えていました。
兄の大山守命(オオヤマモリノミコト)と大雀命(オオサザキノミコト)を呼び「兄弟ではどっちが可愛いか」と尋ねます。オオヤマモリは、当然先に生まれた兄だと答え、オオサザキは天皇の質問の意図をくんで「弟です」と答えました。その結果、オオヤマモリは地方長官、オオサザキは官房長官という役どころにつかされます。
応神天皇が亡くなると、オオヤマモリは挙兵して天下をとろうとしますが、ウジノワキイラッコとオオサザキは協力してこれを討ちます。その後ウジノワキイラッコは自分は天皇の器ではないと言い、二人の間で天皇位の譲り合いが続きましたが、ウジノワキイラッコが急死(病死? 他殺? 自殺?)したため、オオサザキが即位します。社会科の教科書で、最も有名な前方後円墳の主、仁徳天皇の誕生です。以上で、古事記中つ巻は終了。
総合的に考えると、ヤマト王権の成立過程の説明が主たる内容でした。神武により国内統一の道筋がしめされ、ヤマトタケルにより実際に東西を平定し支配域を固め、そして神功により外国も従属させるという、大河ドラマも追いつけない壮大なスケールの話。
神武天皇以来800年近い年月の話ということになりますが、実際は2世紀から4世紀頃までの数百年くらいの出来事が基になっているのだろうと考えられているようです。
2017年11月29日水曜日
古事記 (15) 神功皇后の神秘
景行天皇の後を継いだのは、ヤマトタケルの異母兄弟の成務天皇ですが、ほとんどエピソードもないうちに亡くなり、その次はヤマトタケルのこどもである仲哀天皇が即位します。奥さんは息長帯日売命(オキナガタラシヒメノミコト)、いわゆる神功皇后(じんぐうこうごう)で、神のお告げが聞こえるらしい。
天皇が熊襲討伐のため筑紫にいた時・・・って、ついこの前ヤマトタケルが成敗したはずなのに、また朝廷に反発するというしつこい連中ですね。神功皇后は神のお告げとして、「西に金銀、財宝がたくさんある国があり、天皇の国にするがよい」と伝えました。
天皇は、「西の方は海しかないので、それは嘘だ」と相手にしなかったので、神は怒って天罰により急死してしまいます。神功はこの時妊娠中でした。国中で徹底的に禊(みそぎ)を行い、もう一度神様を呼び出しました。
すると、出てきた神様はアマテラス配下の住吉三大神で、「皇后のお腹の子が国を治めなさい。すべての神を大事にして、自分を船に祀って海を渡れ」と言うので、神功を先頭に新羅(しんら)国まで一気に攻め入ります。
新羅(しんら、あるいはしらぎ)は紀元前1世紀~10世紀までの朝鮮半島の東側半分を占める国。4世紀~7世紀には西側半分が百済(くだら)で、北部と大陸にかけてが同じ時代には高句麗(こうくり)でした。おそらく実際の歴史の流れでは、古事記中つ巻のエピソードは、朝鮮半島ではこの三国が覇権を争っていた時代だろうと考えられています。
さて、その勢いに驚いた新羅は、戦うことなく従属することになりました。その話を聞いて百済と高句麗も、あっさりとひれ伏してしまい、「三韓征伐」を成し遂げました。神功は、懐にくくりつけた石で子が産まれるのを遅らせていたので、筑紫に帰ってすぐに品陀和気命(ホムダワケノミコト)を出産しました。
倭(大和)に戻る時、ホムダワケの異母兄弟が謀反を計画していることを察知します。皇后の軍は、まず喪に服した船を用意して生まれたホムダワケが死んだように装い相手を油断させ、さらに弓の弦を切り降伏した振りをして、敵が武器を下ろしたとたんに呼びの弦を張りいっきに攻め滅ぼしました。ホムダワケは第15代、応神天皇に即位し、神功は摂政になりました。
まぁ、神が憑依するわ、大きなお腹を抱えて、出産を無理に遅らせ海外遠征するわで凄い話の連続ですが、身内との戦い方も高度な作戦勝ちで驚かされます。ただし、かなり卑怯な方法で、さぞかし相手は悔しい思いをしたでしょうね。この戦いは、一族内の天皇の座を巡る史上初めての御家騒動の記録であることも注目すべき点かもしれません。
いずれにしても、俄かに真実としては信じがたい話ばかりなので、欠史八代だけでなく、ヤマトタケルも含めてほぼ創作であり、ここまでを神話と考える研究者も多いようです。
このあたりの話は、日本書紀でもほぼ同様の記述になっています。ただし、否が応にもいろいろな想像を掻き立てるのは、やたらと神功の記述の中に「別伝によると」という備考が多いこと。そこには、魏志からの引用も使われていて、明言はされていないものの「神功皇后=卑弥呼」という疑惑が浮かんできます。
事実だけど肯定できない理由が何かがあるのか、あるいは意図的にそのように思わせたいのか・・・いまだ正解が見えていない古代史の大きな謎の一つです。
2017年11月28日火曜日
クリスマス・シーズン開幕
日本列島各地で、クリスマスツリーの点灯式というイベントが行われ始めました。
人集めが目的みたいなところがありますから、かなりフライング気味でも、まぁしょうがないかというところ。
実際のところ、クリスマス・・・イエス・キリストの誕生を祝うキリスト教のイベントですから、キリスト教徒でないと関係ない。
・・・はずですが、そこに乗っかるからには少なくともキリスト教に少しは敬意を払いたいもの。
11月30日の聖アンデレの日に最も近い日曜日から12月25日の誕生日までの4週間が待降節(たいこうせつ、アドベント)と呼ばれ教会歴の始まりで、キリスト誕生を祈って待つ期間になります。
今年は始まりが最も遅い年にあたり、12月3日がその始まりです。4回の日曜日の機関を静かに待ち続け、25日の誕生で喜びを爆発させるというもの。
ツリーは12月3日まで待てとまでは言いませんが、そのあたりのことくらいは知っておきたいものだと常々思うことしかり・・・
こちらはスシローのツリー・・・ではなくて、あざみ野ガーデンズの生木電飾。高さは25mくらいでしょうか。昔は、電球の熱で木が傷むためダメでしたが、LEDが普及して気楽に派手に飾り付けされるようになりました。
2017年11月27日月曜日
古事記 (14) 悲劇の倭建命
ヤマトタケルは記紀の中で、特に天皇中心の記述をする中つ巻以後、天皇ではないにも関わらず最も多くのページがさかれている「人物」です。
また、現在では明らかな特定の個人ではなく、各地に残る伝説を集大成した英雄像との見方が一般的です。そして、基本的なエピソードは共通なのにもかかわらず、記紀の違いが際立つところが特徴的。
古事記では、勇猛果敢なイケメンですが、父親の景行天皇にうとまれ、僻地での戦いの中で孤独に死んでいくという悲劇のヒーロー。
最初に登場するときの名前は小碓命(オウスノミコト)、またの名は倭男具那命(ヤマトオグナノミコト)です。兄の大碓命(オオウスノミコト)は、父景行天皇のお気に入りの女性を横取りしましたが、父はぐっとこらえていたようです。
ある時、オウスは景行天皇から「オオウスは毎日の食事に出てこない(天皇への反抗?)から様子を見てこい」と言われます。見てこいというのを「正してこい」と考えたオウスは、何とオオウスを惨殺してしまいます。景行天皇は、その凶暴さを恐れ、「西の地の熊曾建(くまそたける)兄弟を征伐しろ」と命じます。時にオウスことヤマトオグナ、16歳でした。
ヤマトオグナは伊勢にいる叔母の倭比売命(ヤマトヒメノミコト)から女物の着物を借りて九州に向かいます。そして、宴席に女装して紛れ込み、兄熊曾を刺し殺し、さらに弟に剣を向けます。弟は、「我々兄弟よりも強いあなたに健の名を差し上げます」と言い残して切り殺されました。そこでヤマトオグナは倭建命(ヤマトタケルノミコト)と呼ばれるようになりました。
各地を平定しながら帰京する途中で、出雲建(いずもたける)を友人になった振りをして、だまし討ちにします。戻った途端に天皇は、今度は「東の地の服従しない連中をやっつけてこい」と指令します。ヤマトタケルは、再び伊勢に寄り「父は自分に早く死んで来いと思っています」とヤマトヒメに嘆きます。ヤマトヒメは草那芸剣(くさなぎのたち)と火打石を授けました。
相武国(さがむのくに、相模国、つまり神奈川県)についた時、国造に騙され野原で火を放たれますが、ヤマトタケルは火打石で向火を放ち、草那芸剣で薙ぎ払いながら窮地を脱し返り討ちにしました。続いて走水の海(東京湾)で海が大荒れになりましたが、妃が身代わりとなり入水して無事に渡り切ることができ、ずいぶんと悲しんだようです。
上総国(筑波)で荒ぶる者どもを平定して目的を達したヤマトタケルは、足柄、甲斐、科野(信濃)、尾張を通って伊吹山(米原)まで戻ってきます。そこで神の化身である白い猪から氷雨を浴びせられ体調を崩してしまいます。
能煩野(のぼの、三重県)までやっとのことでたどり着きましたが、ついに息を引き取るのでした。墓を作り埋葬したところ、ヤマトタケルは大きな白鳥となって手に向かって飛び立っていきました。古事記の景行天皇の章は、この後は137歳で亡くなったことを記して終わります。
いや、これは、もう・・・完璧なドラマです。なかなか、これだけ壮大な物語は作れるものではありませんが、だからといって実話であるはずもなく、いやいやたいした創作能力です。そういう意味では、日本書紀だとずいぶんとつまらない。基本的に、天皇讃歌の立場を貫いています。
日本書紀のあらすじは、そもそも出生からして違う。大碓・小碓は双子の兄弟で、兄殺しの話はありませんが、オオウスが天皇の女を横取りするのは同じ。熊襲征伐の西征は一度天皇自ら成し遂げた12年後に、再度盛り返してきたためコウスが派遣されることに。女装して討伐は同じ。出雲建の話は無し。コウスは天皇から褒められ可愛がられます。
東征は最初オオウスに指令が下りますが、オオウスは逃げ出してしまったため、結局ヤマトタケル(日本書紀では日本武尊)が自らすすんで行くことになります。使命を成し遂げ、帰路で出会うのは猪ではなく蛇。氷雨で痛めつけられ、亡くなったときは30歳。天皇は嘆き悲しみ、埋葬されると白鳥になって飛んでいくのは同じ。数年後、天皇はヤマトタケルの足跡を巡礼しています。
日本書紀での二人の関係は、子を誇りに思う父と父に忠誠を誓う息子で、理想の親子として描かれ、ドラマとしての面白みはありません。記紀のどちらが本当なのか、どちらも嘘なのか、あるいはどのような事実がベースになっているのか、大変興味深いところです。
第13代の成務天皇は記紀ともにほぼカット。第14代の仲哀天皇は少しだけ触れられますが、話の主人公は仲哀天皇の后、神功皇后に移っていきます。
また、現在では明らかな特定の個人ではなく、各地に残る伝説を集大成した英雄像との見方が一般的です。そして、基本的なエピソードは共通なのにもかかわらず、記紀の違いが際立つところが特徴的。
古事記では、勇猛果敢なイケメンですが、父親の景行天皇にうとまれ、僻地での戦いの中で孤独に死んでいくという悲劇のヒーロー。
最初に登場するときの名前は小碓命(オウスノミコト)、またの名は倭男具那命(ヤマトオグナノミコト)です。兄の大碓命(オオウスノミコト)は、父景行天皇のお気に入りの女性を横取りしましたが、父はぐっとこらえていたようです。
ある時、オウスは景行天皇から「オオウスは毎日の食事に出てこない(天皇への反抗?)から様子を見てこい」と言われます。見てこいというのを「正してこい」と考えたオウスは、何とオオウスを惨殺してしまいます。景行天皇は、その凶暴さを恐れ、「西の地の熊曾建(くまそたける)兄弟を征伐しろ」と命じます。時にオウスことヤマトオグナ、16歳でした。
ヤマトオグナは伊勢にいる叔母の倭比売命(ヤマトヒメノミコト)から女物の着物を借りて九州に向かいます。そして、宴席に女装して紛れ込み、兄熊曾を刺し殺し、さらに弟に剣を向けます。弟は、「我々兄弟よりも強いあなたに健の名を差し上げます」と言い残して切り殺されました。そこでヤマトオグナは倭建命(ヤマトタケルノミコト)と呼ばれるようになりました。
各地を平定しながら帰京する途中で、出雲建(いずもたける)を友人になった振りをして、だまし討ちにします。戻った途端に天皇は、今度は「東の地の服従しない連中をやっつけてこい」と指令します。ヤマトタケルは、再び伊勢に寄り「父は自分に早く死んで来いと思っています」とヤマトヒメに嘆きます。ヤマトヒメは草那芸剣(くさなぎのたち)と火打石を授けました。
相武国(さがむのくに、相模国、つまり神奈川県)についた時、国造に騙され野原で火を放たれますが、ヤマトタケルは火打石で向火を放ち、草那芸剣で薙ぎ払いながら窮地を脱し返り討ちにしました。続いて走水の海(東京湾)で海が大荒れになりましたが、妃が身代わりとなり入水して無事に渡り切ることができ、ずいぶんと悲しんだようです。
上総国(筑波)で荒ぶる者どもを平定して目的を達したヤマトタケルは、足柄、甲斐、科野(信濃)、尾張を通って伊吹山(米原)まで戻ってきます。そこで神の化身である白い猪から氷雨を浴びせられ体調を崩してしまいます。
能煩野(のぼの、三重県)までやっとのことでたどり着きましたが、ついに息を引き取るのでした。墓を作り埋葬したところ、ヤマトタケルは大きな白鳥となって手に向かって飛び立っていきました。古事記の景行天皇の章は、この後は137歳で亡くなったことを記して終わります。
いや、これは、もう・・・完璧なドラマです。なかなか、これだけ壮大な物語は作れるものではありませんが、だからといって実話であるはずもなく、いやいやたいした創作能力です。そういう意味では、日本書紀だとずいぶんとつまらない。基本的に、天皇讃歌の立場を貫いています。
日本書紀のあらすじは、そもそも出生からして違う。大碓・小碓は双子の兄弟で、兄殺しの話はありませんが、オオウスが天皇の女を横取りするのは同じ。熊襲征伐の西征は一度天皇自ら成し遂げた12年後に、再度盛り返してきたためコウスが派遣されることに。女装して討伐は同じ。出雲建の話は無し。コウスは天皇から褒められ可愛がられます。
東征は最初オオウスに指令が下りますが、オオウスは逃げ出してしまったため、結局ヤマトタケル(日本書紀では日本武尊)が自らすすんで行くことになります。使命を成し遂げ、帰路で出会うのは猪ではなく蛇。氷雨で痛めつけられ、亡くなったときは30歳。天皇は嘆き悲しみ、埋葬されると白鳥になって飛んでいくのは同じ。数年後、天皇はヤマトタケルの足跡を巡礼しています。
日本書紀での二人の関係は、子を誇りに思う父と父に忠誠を誓う息子で、理想の親子として描かれ、ドラマとしての面白みはありません。記紀のどちらが本当なのか、どちらも嘘なのか、あるいはどのような事実がベースになっているのか、大変興味深いところです。
第13代の成務天皇は記紀ともにほぼカット。第14代の仲哀天皇は少しだけ触れられますが、話の主人公は仲哀天皇の后、神功皇后に移っていきます。
2017年11月26日日曜日
古事記 (13) 欠史八代~崇神~垂仁
神武天皇が即位したのは、日本書紀には辛酉年と書かれていて、これが弥生時代早期の紀元前660年になるということで、現在「日本」の成立として「紀元節」と呼ばれる所以であり、ギネス記録で世界最古の王朝とされています。
神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)は、古事記での呼び名。日本書紀では、神日本磐余彦天皇(かんやまといわれひこのすめらみこと)と呼び、これを和風諡号(しごう)といいます。
神武天皇と呼ぶのは、崩御後につけられる漢風諡号というもので、記紀の成立した段階で使われていたものではありませんが、短くて使いやすい。
日本書紀によれば、神武天皇は76年間の治世があった・・・のですが、東征のエピソード以外ほぼ白紙。亡くなったのは127歳(古事記では137歳)というのは、やはり常識的に無理がありそう。
大正時代に津田左右吉が「神武天皇は事実にもとにしたものではなく神話の一部」と発表し、皇室を冒涜したとして有罪になりました。現在まで実在については結論はでていませんが、津田学説をもとにして、おそらく4世紀ごろの天皇の誰かをモデルにして、記紀編纂時にいろいろな逸話から創作されたという意見が主流です。
さらに神武天皇に続く、綏靖天皇、安寧天皇、懿徳天皇、孝昭天皇、考安天皇、孝霊天皇、孝元天皇、開花天皇までは古事記ではまったく触れられていないため、これらを欠史八代と呼びます。
日本書紀でも、父子の直系で即位し、都の場所、皇后の紹介、崩御した年などが記録的に羅列されているだけで、不自然に長寿だったりします。ですから紀元前600年と、大和王権が成立する4世紀との間を埋めるための創作と考えられています。
その中で、古事記では、神武天皇が即位後に新たな皇后を迎え子を授かったことに触れられています。となると、日向時代に妻子がいたわけですから、ここに昼メロ的ドロドロの事態が発生している。
美しい勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)に三輪山の大物主神(オオモノヌシノカミ、オオクニヌシの分身と考えられる)が惚れてしまい、トイレで矢に変身して陰部に突き刺さっていった・・・という、何ともR18な話。
そこで生まれたのが伊須気余理比売(イスケヨリヒメ)で、神武天皇の皇后になり3人の子をもうけました。神武天皇崩御後、先妻の子が天皇の座を狙ってイスケヨリヒメに接近するも三兄弟の末っ子によって倒されました。
第10代となるのが崇神(すじん)天皇で、その治世に疫病が発生。すると、またもやオオモノヌシが夢枕に登場し、この災いは自分を大事にしないからだから、意富多多泥古(オオタタネコ)を探し出し自分を祀らせなさいと言います。オオタタネコによって祭礼を行ったところ疫病はおさまりました。
以前、活玉依毘売(イクタマヨリビメ)のもとに夜な夜な通ってくる若者がいて、いつの間にか身籠ってしまいます。親が相手の正体を知りたくて、娘に糸巻の麻糸の端を帰り際に相手の衣につけるようにいいます。翌朝、糸を追いかけていくと、三輪山の神社にたどり着き、残った糸は糸巻に三巻きだったので三輪山といい、相手の若者はオオモノヌシだったという・・・
オオクニヌシの頃からプレイボーイ振りは健在だったという話で、これが「三輪山伝説」と呼ばれていますが、実はオオタタネコはオオモノヌシとイクタマヨリビメの曾孫の子、つまり玄孫でした。あらためて、天皇家と三輪山の関係を強調することになります。
日本書紀には、オオモノヌシの言葉を崇神天皇に伝えたのはオオモノヌシの妻だった、天皇の叔母、百襲姫(ももそひめ)と書かれています。神のお告げを伝える役どころから邪馬台国の卑弥呼の候補の一人になっています。
疫病が落ち着いてからは、各地に兵を出し、抵抗勢力を制圧し国は安定し発展、民も豊かになり大和王権の基礎が確立しました・・・なんですが、崇神天皇は168歳で崩御という、やはり嘘っぽい話で終わります。
崇神天皇の子が第11代の垂仁(すいじん)天皇で、こちらも亡くなられたのは153歳。その第三子が第12代の景行天皇であり、その子が古事記のヒーローの一人、ヤマトタケルです。
2017年11月25日土曜日
古事記 (12) 神武天皇と八咫烏
熊野の山の中からどうやって抜け出すのか困ったイワレビコでしたが、そこへ登場するのがタカギが道案内として送った八咫烏(やたがらす)でした。
お陰で、イワレビコは、八咫烏について無事に吉野にたどり着きました。各所で国つ神の服従を誓わせながら宇陀まで来ると、宇迦斯(うかし)兄弟は八咫烏に矢を放ち抵抗しますが、勝ち目はないと考え御殿を作って歓迎します・・・と見せかけて、御殿の中に罠を仕掛けます。
ところが弟は兄を裏切って仕掛けをイワレビコに教えたため、イワレビコは兄にまず自分から御殿に入るように仕向け、兄は自らの罠によって死んでしまいます。
忍坂の大室(奈良県)では、荒々しい八十建(やそたける)らを料理で振る舞うふりをしてやっつけちゃいます。そして、ついに生駒山に到着し、今回は太陽を背にして、那賀須泥毘古(ながすねびこ)を倒します。
このあたりの古事記の記述はあっさりで、しかもここで唐突に饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が登場し、「天孫に続いて天下って来ましたが、これからはあなたに仕えます」と宣言し、周りの反抗する神を説得しました。
ついにイワレビコは、畝火(うねび)の白檮原宮(かしはらのみや)で、天下平定を成し遂げ王として即位します。これが、後に天皇と呼ばれるようになったわけで、イワレビコはその初代に数えられることになりました。
まず、八咫烏・・・って、実は今もけっこう活躍している。サッカー日本代表のシンボルマークになっています。天武天皇が、毬蹴が好きだったらしいということからのようで、ゴールへ導いてねという願いが込められています。
咫は長さの単位で1咫は約18cmですから、八咫烏は羽根を広げて144cm・・・って、さすがにそんなに大きいのはないでしょう。もう一つの特徴は、普通は4本ある足の指が3本ということらしい。今でも熊野では神様の使いとしてカラスは尊ばれています。
次にナガスネヒコですが、ある意味イワレビコ最大のライバルにしては、古事記の記述は少ない。そこで、ニギハヤヒのことも含めて日本書紀の記述も参考にして、もう少し状況を整理しましょう。
イワレビコは、何度もナガスネヒコに攻撃を仕掛けますが苦戦。すると金色の鵄(とび)がやってきて、イワレビコの弓の先端にとまり強烈な光を放ちナガスネヒコの軍の戦意を喪失させました。
ナガスネヒコは、「天つ神のニギハヤヒが降臨し、妹を娶ったので、自分は仕えている。なのに、あんたも自分は天つ神の子と名乗り人の地を奪おうとする。嘘つきだ」と言いました。
証拠を見せろとイワレビコが言うと、ナガスネヒコはニギハヤヒの天羽羽矢(あめのははや)と步靫(かちゆき、矢を入れる筒)を取り出しましたが、それはイワレビコのものと同じでした。それでもナガスネヒコはここまできたら今さら戦いを止められないと言います。
天つ神の御心を理解しているニギハヤヒは、なんと自ら強情なナガスネヒコを殺してしまいました。ニギハヤヒは、イワレビコを本物として認め仕えることになりました。イワレビコもまたニギハヤヒが天下ったものであることを認めました。
そもそもそイワレビヒコの東征のきっかけに、ニギハヤヒのいる東が素晴らしいところだということがありました。つまり、イワレビヒコは実は元々その存在を知っていたわけで、あえて奪いに来た確信犯ということになる。
神武天皇の存在はずっと疑われていて、日向の地から大和へ権力の移動を説明するための創作という意見も多い。天皇制度の正当性を主張することが最も重要な目的としている記紀では、わざわざ書く必要はないエピソードであり、その裏側にある意味がはっきりすると建国の歴史が大きく変わるようなことかもしれません。
2017年11月24日金曜日
古事記 (11) 神武天皇の東征
古事記上つ巻の最後の復習。
天孫降臨の主役、ニニギの三男が山幸彦で知られるホオリ。ホオリの孫が4人いて、上から五瀬命(イツセノミコト)、稲氷命(イナヒノミコト)、御毛沼命(ミケヌノミコト)、若御毛沼命(ワカミケヌノミコト)。
何故か、次男は母をいる海の国へ、三男は常世国に行ってしまい、これ以上話には絡みません。中つ巻は長男と四男の話から始まります。
特に、最初の話の主役・・・というか、人代編のスタートとして最重要人物になるのが四男のワカミケヌですが、別名を神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)、後世に初代天皇として神武天皇と呼ばれる方。
高千穂の宮で、イッセとイワレビコは天下を取るにはどうすればいいか相談している。日本書紀には、この時45歳ですでに既婚、一人の子持ちと書かれていて、ここで家臣に向かって演説するですね。
「ニニギ様の降臨以来、179万年(!!)が経ったが、いまだに国土は統一されず争いがつづいている。東の地に、天磐船(あまのいわふね)により降臨した饒速日(ニギハヤヒ)がいるというので、そこで都を作ろう」
古事記では、あっさりと「やっぱ東の方だということになって、早速旅立ことにしました」くらいのことになっています。これが世に言う有名な「神武東征」の始まりです。
実は、このニギハヤヒは、ちょっと問題。ほとんど説明がないけど、実は高天原から降臨したニニギ以外の人物がいることを匂わせているわけです。
とりあえず、古事記の記載に従ってルートを確認していきます。日向を旅立ち、筑紫を通って豊国(大分県)の宇佐へ。また筑紫に戻って岡田宮に1年間滞在。続いて阿岐国(安芸国、広島県)の多祁理宮(たけりのみや)に7年滞在し、さらに吉備(岡山県)の高島宮に8年。
・・・って、最低ここまで16年かかっとるやないか。還暦すぎちやったんですけど。天下を取りにいくにしては遊びすぎ・・・なのか、それとも各地でよほどの抵抗を受けたのかもしれません。ここからは船の旅で、浪速の渡しをを経て白肩の港に到着します。
そこには地元の那賀須泥毘古(ながすねびこ)の軍勢が待ち構えていたので、イワレビコは楯を手に船から降り立ちました(だからその土地を今でも楯津と呼びます)。しかし、兄のイッセは敵の矢を受けて負傷し、退却を余儀なくされます。
イッセは、「アマテラスの子孫の我々が太陽に向かって戦ったのがいけなかった」と反省し、太陽を背にするように迂回しようということになり、紀国(和歌山県)の男の水門(おのみなと)についた時に亡くなります。
兄を失ったイワレビコは熊野に到着した時、出てきた熊の毒気により気を失います。さぁ、どうなるイワレビコ・・・って心配する必要はないんです。何たって天つ神の子孫ですから。
案の定、イワレビコの危機を察知した高天原のアマテラスとタカギは、オオクニヌシの国譲りで登場した力自慢のタケミカズチに相談します。タケミカズチは、立派な太刀を熊野の高倉下(たかくらじ)という人物の夢枕ごしに渡しました。
高倉下が太刀を持って駆けつけると太刀をかざすと、イワレビコをはじめ軍勢は目を覚まし、毒気を放った熊は死んでしまいました。さて、進軍を再開と思いましたが、周りには敵がたくさん。どうやって進むか困ってしまいました。
2017年11月23日木曜日
記紀から知る新嘗祭
現代では毎年11月23日は、勤労感謝の日として国民の休日にあたります。今までにも、話題にしたことは何度もありましたが、実は本当の意味は知らずにいました。
今でも毎年この日は皇居では、新嘗祭(にいなめさい)と呼ばれる重要な儀式が行われています。その年の豊作に感謝し、天皇が新米などの五穀を食する収穫祭だそうです。特に即位後、最初の新嘗は大嘗祭(だいじょうさい)と呼びます。
戦前までは、祝日の名前として新嘗祭が用いられていましたが、戦後に天皇崇拝を弱めたいGHQの意向で、一般には勤労感謝の日と呼び名を変えたもの。
古事記では、高天原でやりたい放題のスサノオが、くそを撒き散らしたアマテラスの食事をする場所を、大嘗之殿と呼んでいます。一番古い起源はここにあるのかもしれません。
天孫降臨神話における、アマテラスからニニギへの稲穂の実る中つ国の支配権の移譲が大嘗祭に転換したという説もあります。
日本書紀には第16代、仁徳天皇の治世40年に「新嘗の月に宴会」を行ったとの記録があり、文献上初めての新嘗祭にまつわる記述です。西暦ははっきりしませんが、おそらく4世紀半ばのこと。
第35代、皇極天皇は、西暦642年に始まり、その元年11月に、「丁卯、天皇御新嘗。是曰、皇子・大臣、各自新嘗」とあります。これは「11月16日、天皇は新嘗を行った。同日、皇子、大臣も各自に新嘗を行った」という意味で、明らかに天皇が新嘗祭を行ったという初めての記録。また677年11月21日には、天武天皇が新嘗をしたとの記載があります。
おそらく、それぞれの天皇に決まり事として伝わっていたと思われますが、定例の儀式として確実に定着していることがわかっているのは元禄時代以後のこと。
いずれにしても、勤労感謝の日は、日本人は元々稲作を中心とした農耕民族ですから、農耕という「勤労」の結果として秋に収穫できたその年の穀物に「感謝」するというのが、本来の意味。
スーパーなどでは、すでに今年の新米は流通していますが、新嘗祭までは口にしないのが基本なんだそうです。今日は、今年の恵みに感謝して、初めて新米を食べるという気持ちが大事ということ。
毎日家族のために働いているんだから、1年に1日くらい感謝してもらいたいと思うかもしれませんが、自分に感謝させるための祝日じゃありませんのであしからず。
2017年11月22日水曜日
2017年11月21日火曜日
2017年11月20日月曜日
古代史の勉強で困ること
古事記の上巻で、神代の世界の話が整理されます。この部分は、日本書紀だと全30巻の最初の2巻にまとめられ、神様の呼び名が多少違ったり、はしょられた話があったりします。
続いて人代の話に入るわけですが、古事記の中巻と下巻はあまり重視されていない。というのも、日本書紀が残りの28巻で、もっとも詳しく記載しているからです。
神代の話は再三書いてきたように、元がファンタジーの世界です。ヒントになる事実のあったかもしれませんけど、一つ一つのエピソードをすべてまともに受け止めるのには無理がある。
ですから、研究者の想像に任せるしかありませんので、もう解釈の仕方はいろいろ。多少の考古学的な物的証拠と合わせて、客観的に論を進める人もいれば、まったく荒唐無稽な仮説を展開する人もいる。
文学として学ぶなら何でもいいのですが、自分の場合、理系人間の端くれで、古代史としてきちんと納得できる話を知りたいし、わからないことはわからないとはっきりさせておきたい。
とは言っても、神代についてはある程度あきらめがつく。何しろ、神様が主役ですから、何でもありです。古代日本の基本的な思想の原型だと思って、かえってあっけらかんとした世界観を楽しめばいいと開き直れます。
問題は人代です。これは困った。何しろ現代まで続く、「万世一系の天皇家」の物語になるわけですから、ファンタジーではすませられない。
とにかく研究者の中でも、いろいろな説が多すぎて、素人からするとそのどれもがもっともらしいのですが、実はいずれも確定的な証拠があるものはきわめて稀という印象です。
理系の研究は、まず予想される結果を想定して仮説を立て、実験という手技によって仮説を証明することで事実と認定されます。古代史については、同じように仮説を証明するのですが、実験できるわけではないので、文字の記録や発掘物から矛盾しない状況証拠を探し出すしかない。
ところが、そもそもその状況証拠も、仮説の上に成り立っているわけですから、延々と仮説の連続で、もう研究者の信念としか言いようがないところがある。
とくに、記紀などの文献を中心に考える歴史学者と、発掘物から考える考古学者との間の深い溝はかなりのものだと思いました。とにかく古代史研究者お互いの批判合戦は、かなり熾烈な戦いで、ネットなどでも、名指しで著作物を徹底的に批判するみたいなことは日常茶飯事のようです。
特にヤマト王権が成立していく3~5世紀あたり、つまり弥生時代末期から古墳時代の話となると、記紀の記述も曖昧で、研究書も魑魅魍魎の百鬼夜行の如くで、どれをとっても賛否両論が半々です。賛成派はもう信者に如く褒め讃えるし、否定派は鬼の首を取ったかのように攻撃する。
文献については、思想的な背景のもとに意図的に作り出されたらしき物もあり、何が信用できるかはっきりしない。本来は物的証拠を持ち出せる考古学側が、しっかりしないといけないのですが、実はここにも大きな問題があって、2000年に発覚した「発掘捏造事件」は記憶に新しい。
次から次へと新発見を発掘し「神の手」と呼ばれた著名な考古学者が、実はほぼすべての発見を、自分で埋めて発掘していたという驚愕的な事件です。
20数年間にわたり行われていた捏造により、それまでの旧石器時代の歴史はほぼ全滅する状況で、教科書などもすべて水泡と帰して、考古学に対する信頼は完全に地に落ちてしまいました。捏造した側もさることながら、長期にわたりそれを見抜けなかった考古学関連の学会、研究者の側にも大きな問題があると言わざるをえない。
というわけで、続いて日本書紀を中心に人代の話を読んでいきたいと思っているのですが、いろいろな資料を集めれば集めるほど、どこから整理していけばいいのかわからなくなって、迷路の中で途方に暮れている状況なんです。
とは言っても歴史は難しい。蘇我氏を滅ぼした645年の事件は「大化の改新」と教わりましたが、今は「乙巳の変」と呼び、大化の改新はその後の政治改革を指すようになりました。聖徳太子と後世に呼ばれて1万円札で長らく知られた厩戸王(うまやとおう)は、実際はそんなに立派な人じゃないというのが現在の認識。
鎌倉幕府の誕生は「いい国作る鎌倉幕府」で1192年という語呂合わせが定番でしたが、最近は「いい箱作る」で1185年に変わったらしい。江戸時代のキーワードとして重要だった「鎖国」も、限定ルートで外国と開いていたのでことばとしては使わなくなったそうです。「士農工商」も消えて、武士とその他大勢みたいなことになった。
新しい発見や解釈で変わるのが歴史ですから、理詰めで考えると、出口を見失うのは当然のことのようです。どこか肩の力を抜いて、「まぁこんなもんかなぁ」くらいの適当なところで妥協するくらいでちょうど良さそうです。
2017年11月19日日曜日
神社に参拝する時の作法
・・・って、なかなかやっかいです。
何しろ、日頃から宗教心が無いもんだから、何か願い事がある時だけ、あるいは観光で来たついでみたいなときに、何となく頭を下げているだけ。
多少ちゃんと参拝するというのは、こども七五三の時くらいでしょうか。ところが、参拝するのにも正式な手順というものがあるので、知らないよりは知っていた方がよさそうです。
まず、入り口。鳥居があります。これをくぐって入ること。横から入っちゃいけません。境内に駐車場があって、すぐ拝殿の横に行けたりする場合でも、できれば鳥居のある所まで戻りましょう。鳥居をくぐる際には、一礼すること。真ん中は神様の通り道ですから、よけて端の方から進みます。
次に手水舎について、手と口をすすぎ清めるのですが、ちゃんと約束事があります。これが、なかなか面倒で、いつも、えーっとどうするんだっけと悩むところ。
右手で柄杓を持ち一回だけ水をすくいます。最初に左手、柄杓を持ち替えて右手、また右手に持ち替えて左手の平に受けた水で口をすすぐ。柄杓に直接口をつけてはいけません。
もう一度右手に持ち替えて、左手をすすいだら、柄杓を立てて残った水を落として柄杓の柄を清めたら、元の場所に柄杓を戻します。ハンカチとかは最初に出しておいた方がよさそうです。
身を清める作業が終わったら、参道を進んで拝殿、あるいは本殿に進むわけですが、ここでも真ん中は神様の通り道であることを忘れてはいけない。
ここから願い事の一番大事なところ。まず賽銭箱。乱暴にお金を放り投げてはいけません。静かに入れましょう。
続いて、鈴があるなら鳴らします。これは、玄関のチャイムみたいなもの。ピン・ポ~ン、来ましたよ~と神様に知らせる合図です。
そしたら姿勢を正していよいよ礼拝なんですが、大原則は二拝二拍手一拝です。神様に願い事や、何か報告したいことがある場合は、拍手の後に心の中でつぶやきましょう。その時「どこどこの誰兵衛」と言うこともお忘れなく。
終わったら、静かに参道の端から戻って、鳥居を出るときにもう一度礼をして終了・・・というわけで、最低限のマナーがこんな感じなので、ちゃんとするとけっこう疲れるかも。
でも、これは簡易参拝であって、正式参拝だと玉串を捧げるので、さらにいろいろ作法が大変なことになります。でも、大丈夫。たいてい、神社の係の方がああしろここしろと教えてくれますもんね。
2017年11月18日土曜日
神社にあるもの
神社に行くと、大きくても小さくても、まず最初に目につく必ずあるのが鳥居。この鳥居は、簡単に言えば「門」ですが、俗世間と神様のいる聖域と境界を示す物。木材でできているものと、石材、場合によっては鉄などの金属でできているものもあります。
一番上の横に渡した部分が笠木と呼ばれ、左右に2本の縦の柱で支えます。そして笠木の下にもう一本、横に渡した貫があるのが基本構造。大きく分けると神名鳥居と明神鳥居の二種類。神明系は島木無しで、明神系は島木有りです。島木は笠木の直下につく横材です。
神明系の代表は伊勢の神宮。一見、神社の地図記号のように、実にシンプル。飾り気がありません。でも、実は笠木の断面は五角形をしていて特徴的。鹿島神宮、靖国神社などでも見られます。
明神系はヴァリエーションが豊富。通常は笠木の両端は上に反ってややとんがり気味なのが特徴で、八坂神社、伏見稲荷、日吉神社、厳島神社などなどで見られます。
縦の柱が上にいくほど内側に傾く場合(転び)の有無、中央で島木と貫をつなぐ額束とそこに掛けられた神社名を記す扁額(へんがく)の有無、貫が縦の柱より外側に飛び出る飛び出ないなどいろいろ。柱を支えるように前後に控え柱が付属する場合や、柱の台座となる藁座の有無などの違いがあります。
続いて、鳥居から続く参道の脇に手水舎(ちょうずしゃ)があります。水が貯めてあって、手と口を清める場所。ただ神主さんが常時いない神社では、水が止められていることが多く残念。
さらに参道を進むと、更に深い神域を示す二の鳥居、場所によっては三の鳥居があったりしますが、もう一つたいてい目にするのが獅子に似た狛犬(こまいぬ)です。
狛犬は普通は「阿(あ)」と「吽(うん)」の一対からなりますが、阿だけが二つ並ぶところも少なくありません。魔除けの役割があって、境内を守護するもの。神社によっては、狐、兎、狼などの別の動物の像だったりもします。
神社の建物が社殿ですが、一般的に祭神を礼拝したり、祭礼を執り行う場所が拝殿で、その奥に実際に際神を祀っている本殿があります。また、御神楽を奉納するための神楽殿を持つところもあります。
普通に神社にお参りしている場所は拝殿ですが、本殿と拝殿が別棟に分かれていない本殿のみのところも多い。また、古い神社で自然の山、岩、木々などを神として祀っている場合は、しばしば本殿の建物はありません。
社殿の形は複雑で、いろいろな種類に分類されるので、なかなか素人にはわかりにくい。基本的には、片方の屋根の面の下に入り口がある平入(ひらいり)と両側の屋根の間にいりぐちかがある妻入(つまいり)です。
屋根は本を開いて伏せたような形が一般的で、これを切妻造(きりつまつくり)と呼びます。屋根の端には、木材がそのまま上に飛び出した破風があり、両側から飛び出て交差した形を千木(ちぎ)といい、男神を祀る神社は垂直に切り落とし、女神を祀る神社は水平に切ります。
伊勢神宮は切妻造で平入。出雲大社は大社造りと呼ばれる、切妻造で妻入、さらに高床式になっています。割と多いのが切妻の屋根の入り口側を長めにしたものが流造(ながれづくり)で、切妻造・妻入ですが入り口に出っ張る庇がついたものが春日造と呼ばれます。
メインの神様を祀る本社とは別に、枝社、あるいは摂社・末社と呼ばれる小ささめの神社が同じ境内に付属していることがよくあります。規模はちょっと小さめから祠程度まで様々。たいていは、本社に祀る主祭神に関連がある神様が祀られています。
何を祀っているのかということと合わせて、こうやって境内の様子を見ていくと、それぞれの神社の特徴みたいなものが見えてきます。細かいことを見ていくとかなり複雑ですが、ここにあげたくらいのことをチェックできれば、お参りをしたときの楽しみがずいぶんと増すことはうけあいます。
2017年11月17日金曜日
手打ちそば おおつか @ センター南 今月2回目
連日ですが・・・大塚さんです。
もちろん、蕎麦屋ですから、蕎麦が主役・・・なんですが・・・
実は、これも他ではまず食べることができないくらいの・・・ほぼ主役級間違いなし。
鴨です。
大塚さんの鴨せいろを食べてしまうと、もう他のどんな鴨せいろも撃沈です。どうです。この厚切りの鴨。しかも、惜しげもなく、どーんと出してくれます。
醤油たれにしっかり漬け込んで、ちょうど熱が通るくらいにローストした、この鴨肉の旨さはもう絶品です。
始めて大塚さんちに行くなら、まず鴨せいろを食べてみてください。次が天せいろ。後は好きなもので・・
2017年11月16日木曜日
手打ちそば おおつか @ センター南
実は、この店の蕎麦湯が・・・ものすごく薄い。おそらく普通の蕎麦湯のイメージを期待すると、けっこう裏切られるかもしれません。
これはどういうことかというと、たぶん蕎麦に限らず麺類は大量のお湯で茹でる、というのが大原則。鍋の中で麺が接触すると、どうしても茹でむらができてしまいます。
十割細切りの大塚さんの蕎麦の茹で方は、20秒間お湯にくぐらせるだけ。しかも、必要以上に大量のお湯を用意している。
ですから、茹で汁に蕎麦粉が溶け出さない。おそらく打ち粉もできるだけ少なくしているんでしょうね。
芯まで一瞬熱が入ればOKで、蕎麦の香りを逃がさず、蕎麦に含まれるいろいろな成分を壊さない・・・それが旨さの秘訣になるんだろうと想像します。
今回は穴子天せいろ。いい穴子は入手するのが年々難しくなっているそうで、お品書きにあっても出せない時があるようです。写真では他の天ぷらに隠れ気味で見にくくて御免なさい。
鰻ほど油っこくなく、ほどほどの弾力があって、衣のさくさく感と対照的な天ぷら向きの食材。
大変美味しくいただきました。満足、満足。
2017年11月15日水曜日
記紀神話が知らなかった伝承
日本の古代史を知るための文献資料は古事記、日本書紀だけではありません。魏志倭人伝のような外国の古文書もありますが、実は国内にも無視できない重要な書物があります。
日本書紀に続いて正史として編纂された六国史(続日本紀、日本後紀など)と呼ばれるものがあります。ただし、これらは平安時代初めまでの記録的文献で、古代史という観点からはあまり役には立ちません。
古事記・日本書紀が成立した直後に、朝廷は各地方にその土地での歴史・文化、そして生活の現状のレポートの提出を指令しました。これは朝廷が地方当地の指針とするためで、天皇へ献上され「風土記(ふどき)」と呼ばれています。
全国から調査結果が提出されてきますが、地域によって温度差はいろいろで、出そろうまでに数年~数十年を要しました。また報告内容も大雑把なものから、微に入り細に入り詳細なものまでいろいろ。完本として現存するのは「出雲国風土記」のみですが、部分的に残っているのは播磨国、備前国、常陸国、豊後国の4つで、後世の書物に引用の形で逸文として残されているものが少々。
完本ということもありますが、記紀の中でも重要な位置にある出雲の風土記は最も注目する必要があります。記紀が、体系化され朝廷が制作した「正史」であるのに対して、風土記にはその地域に伝承されてきた話が収載されています。
記紀以後にそれらとの整合性を意識したものもあるようですが、その土地だけに伝わるオリジナルの神話もあり、記紀だけでは伝わってこない本当の歴史が見え隠れしているのかもしれないということです。
特に、記紀にはまったく載っていない、出雲オリジナルの「国引き」の話は有名です。もちろん荒唐無稽で、支配者としての天皇家を明確にする話とは無関係の話です。
元々の島根半島は東西に細長く、土地が少なかった。八束水臣津野命(ヤツカミズオミツヌノミコト)は、「八雲立つ」この地を出雲と命名し、遠く海の向こうの余っている4つの土地を裂いて、綱をかけて引き寄せました。その結果、真ん中に宍道湖が残された。
・・・というもので、時の支配者が勢力を拡大していく過程、朝鮮半島からの人や文化が入ってくることに対する理由付けなのだろうと思います。
記紀に登場するいくつかの神も、出雲国風土記には登場するのですが、これは記紀より後年であることから、記紀の内容を考慮した部分があると言われています。
当然、最も登場回数が多いのは大国主命(オオクニヌシノミコト)ですが、風土記の中では大穴持命(オオナモチノミコト)あるいは所造天下大神(アメノシタツクラシシオオカミ)と呼ばれていますが、八十神を倒す話、あちこちに妻がいるプレイボーイの話、国を天皇家に譲り引退宣言をする話などが書かれています。
神須佐乃烏神(カムスサノオノミコト)はスサノオのことですが、記紀にあるようなオオクニヌシとの血縁関係の記載はなく、勇猛で荒々しいイメージはありません。妻であるクシナダは登場しますが、八岐遠呂智退治には触れられることはありません。
少なくとも、古代にそれぞれの場所で勢力を増していった土地の一つが出雲で、別の場所で発祥した天皇家に平和的に併合されたことは間違いないようです。
そして、多くの出雲出身者が天皇家に関わりを持つことになったのだろうということが、記紀神話の中で出雲が重要な土地として記述された理由なんだろうと思います。
2017年11月14日火曜日
記紀神話から消された歴史
とにかく日本の歴史ミステリー、歴史ロマンと言われるような話では、このことを除いては語れないほど注目度が高いのが「邪馬台国」であり、女王である「卑弥呼」の存在です。
邪馬台国が存在したと考えられる3世紀のことは、古事記も日本書紀も時系列として含まれているにもかかわらず、古事記には一切の記述はありません。日本書紀でも、備考としてそれらしきことが顔を出す程度の扱い。
にもかかわらず、その存在を否定しない最大の理由は中国の正史に記載があるからに他なりません。その書は、有名な「魏志倭人伝」と呼ばれているものです。
ただし、正確には魏志倭人伝という書物は存在せず、3世紀後半に当時の晋(しん)によって正史としてまとめられた「三国志」の一部である「魏志」の中に周辺諸国をレポートした「東夷伝」があり、その中の「倭人」について書かれたわずか二千文字程度の文章です。
江戸時代の儒学者、新井白石によって最初の研究が始まりました。新井白石は、魏志倭人伝に書かれた倭国への道程を当時の地名と対照させて、邪馬台国は大和国(奈良県)にあったととしました。しかし、晩年には、書かれた地名を中国語の発音で再度検討した結果、邪馬台国は筑後国山門(やまと)郡であると意見を翻しています。
「古事記伝」で有名な本居宣長は、邪馬台国は大和にあり女王もいたが、九州にいた卑弥呼が女王のふりをして中国から来た三国志編集者を騙したという説を持ち出しました。
その後、主に邪馬台国の所在地は畿内説と九州説に分かれた熾烈な論争は今に至るも続いており、さらに全国各地にここが邪馬台国と言い出すところが群雄割拠する事態が継続しています。
主として魏志倭人伝の書かれた中身を検討する歴史学者は九州説をとるものが多く、考古学の立場からは各地の遺跡からの出土品という「物証」より畿内説を主張する傾向があるようです。
特にキーアイテムとされるのが「三角縁神獣鏡」と呼ばれる物。魏国が卑弥呼に鏡を百枚送ったということが記されているため、中国から伝わったこの鏡の遺跡からの出土状況が議論の是非の根拠として持ち出されます。
いずれにしても、弥生時代後期、大和朝廷が確立する直前の人々の生活はどんな風だったのでしょうか。ある程度、まとまった集落を防衛的な目的の壁などで囲って「都市」とも言える共同生活の場を形成していたようです。当然、これは日本で最も古い国の前身と考えることができます。
魏志倭人伝の記載から、おそらく3世紀にそれぞれの集落が戦国時代に入り、30国を従えた邪馬台国が卑弥呼を担ぎ上げてのし上がってきます。邪馬台国では租税制度があり、身分階級制度が導入されていました。
卑弥呼は記載された時点では、すでに高齢で独身、弟が政治を補佐していたらしい。また住む場所は、一般人の住む囲いのある都市とは別の場所で、多くの警備人員を配していました。これはこの後の古墳時代の首長の住居に似ているのだそうです。
239年に卑弥呼は魏国へ特使を派遣し、外交関係を築き、魏の皇帝から「親魏倭王」の称号を得ることに成功します。その後邪馬台国は狗奴国(一般的には南九州と考えられています)との激しい勢力争いになり、魏国が加勢しおそらく邪馬台国の勝利になったのだろうと思われますが、その戦乱の半ばの248年に卑弥呼は死去したと記されています。
結局、邪馬台国はどこにあったのか、女王・卑弥呼とは誰なのか、その後の歴史の中で大和朝廷との関係はどうなっているのか、記紀に記載が無いのは何故なのか、とにかく興味は尽きませんが、現在までに誰もが納得する答えは見つかっていません。
2017年11月13日月曜日
記紀神話から見える現実
今の日本の国土は、ユーラシア大陸の端っこの一部だったことは確定している話です。つまり氷河期・・・更新世(こうしんせい)と呼ぶ時代のこと。大陸と北と南が陸続きになり、日本海は「湖」だったそうです。
少なくとも60万年くらい前、40万年くらい前、そして2万年くらい前の3回はつながっていたと考えられています。少なくともゾウは泳げないので、北海道で化石で見つかるマンモスはシベリア経由で、全国的に化石が見つかるナウマンゾウなどの朝鮮半島から歩いてこれたことは確実。
この時期にいろいろな動物が、大陸から歩いて、あるいはちょっと泳いで日本列島に渡ってきたらしい。その中にヒトがいたはずなんですが、現在わかっているのは4万年前くらいの石器(人が作った、つまり人がいた証拠)が最古とされています。
その頃の人は、おそらく狩猟による食物の確保が中心の生活で、気候のよい生活環境の場所に集中し、ある程度の集団で生活していたらしい。なんと、いろいろな資料から当時の人口を推計した話があって、西日本を中心に日本列島全体で約8000人なんだそうです。
当然、まだ国家というような概念はなく、ゾウのような動物を倒すために共同作業をするための共同体ということでしょう。気候の変化により、居住地域は動いていくはずですから、リーダー的な存在のヒトはいたかもしれませんが、定住生活が始まる縄文時代以後まで国の誕生は待たないといけません。
縄文人になると狩猟による生活から、保存のきく木の実などを主食とする生活にかわってきます。住居は竪穴式となり、定住生活が始まりました。そうなると、一定の食物が手に入ることを願う・・・つまり祭り、そして宗教的な儀式が始まるわけです。
さらに縄文時代末になると、稲を含む穀物が食べられていたらしく、大陸から持ち込まれたものか、実際に栽培が始まっていた可能性があるわけで、しだいに集団の力が大きくなっていく・・・その中にはっきりとしたリーダーが登場することになる。
その各地に登場してきたリーダーの中の一組が、イザナキ・イザナミだった。そして、彼らは子を増やし、さらに力をつけていったのかもしれません。
当初の彼らの縄張りは淤能碁呂島(おのごろしま)と呼ばれていた淡路島で、人口の増加とともに海を越えて、紀伊半島、中国地方、四国、九州などへ勢力を拡大していったのが「国生み神話」の裏側だったのだろうと想像します。
縄文時代の呼び名の由来は、この時代を特徴づける土器についていた紐を回してつけた跡です。一方、この後に来る弥生時代は、明治時代に東京都文京区弥生町で縄文土器とは違う土器の発見からきています。
弥生時代は、朝鮮半島から渡ってきた人によって伝えられたと考えられてる稲作文化が最大の特徴。さらに布を織る技術、青銅、鉄などの金属製の道具を作る技術も流入してくることになります。豊かさが増えることは、争いと、人の上下関係の始まりでもあるわけです。
当然、朝鮮半島と最も行き来のしやすい、対馬経由の北九州、隠岐島経由の島根付近が、新しい文化発達の中心となるはずです。これらの地域には、強大な新興勢力が登場しても不思議はありません。
これは勝手な想像ですが、紀伊半島を中心としたイザナキ直系のアマテラス集団に加えて、この時代にそれぞれの場所でリーダー格として出てきたのが、オオクニヌシ集団とスサノオ集団だったのかもしれません。古事記の中で本来は同格のはずのツクヨミ集団は、おそらくアマテラス集団に吸収されてしまい消滅したのかなと思ってしまいます。
この辺りは本当に勝手な想像ですから、何の根拠もありませんから、読み飛ばしてもらっていい話ですが、例えばアマテラス国は、最初は仲良くしていた北九州のスサノオ国を併合しようとしましたが、抵抗にあって結局は南吸収に追いやって封じ込める。
さらに、アマテラス国は日本海側に進出し、オオクニヌシ国を吸収合併することに成功して最大勢力としての地位を確保する。最後まで抵抗をしていたスサノオ国はアマテラス国が派遣したニニギによって制圧され、国家としての初期形態が完成したのが3世紀頃の話・・・なんてストーリーを想像すると楽しくなってきます。
いずれにしても、3世紀になり弥生時代後期になってくると各地の部族間の争いは確実に激しくなり、その中で歴史上注目度の高い人物が登場します。それが「邪馬台国」を率いる「卑弥呼」ですが、記紀の中では明確な記述はゼロというのは驚くしかありません。
そして、4世紀半ばにその中から抜き出たのグループが大和朝廷となり、天皇制のもとに日本という国家を統一していったということだけは間違いないようです。
2017年11月12日日曜日
古事記の成立
古事記の原本は今は残っていません。今、古事記として読むことができるものは、後世に写本されたもの。一番古い物が、14世紀の真福寺本と呼ばれる物。
古事記が成立したのは712年と確定的に言われる理由は、この真福寺本にある「序」に「和銅五年正月二十八日に献上」と記されているからです。
さらに、著者は、稗田阿礼(ひえだあれ)が、記憶していた古い資料(「帝紀」と「旧辞」)の中身を語り、太安万侶(おおのやすまろ)が文章としてまとめあげたものと書かれています。
そして、「序」によれば(おそらく)天武天皇から指示されたとありますが、その後天皇の逝去、その後継をめぐるごたごたで政情不安定がしばらく続いたせいなのか、和銅5年の成立までに30年以上を要したと考えられています。
この「序」がいろいろな問題を含んでいるのですが、そもそも序というのは読む人に対する編者・著者の挨拶文ですが、内容は明らかに時の天皇に対しての「献上」されたもので「表」と呼びならわされるもの。
その結果、「序」は後世に後付けされたものであるとか、本文そのものも捏造された可能性も議論されることになりました。
次に「序」の書かれた口述者である「姓は稗田、名は阿礼、年は28歳」なる者はどんな人物かという問題。見たもの読んだものは一目で記憶してしまう天才ということが書かれているのですが、男性なのか女性なのか、稗の田が荒れているともとれる名前は誰かのペンネームとも考えられます。
さらに、太安万侶も実在の人物か疑われていました。しかし、なんと比較的新しい1979年に奈良県で太安万侶の墓が発見され、奈良時代に実在した文官であることが証明されたことで、さまざまな古事記の成立に関する疑いが晴れました。
とは言っても、古事記の内容についても、いろいろな諸説が入り乱れている状況には変わりありません。一般的には対外的な「正史」として編集された「日本書紀」に対して、「古事記」国内向けのものと言われています。
それなのに、江戸時代に国学者、本居宣長が注目する(「古事記伝」、1797年)まで、ほとんど国内では話題になりませんでした。以後は、積極的な研究が盛んになったわけですが、盛んになればなるほど謎が謎を呼ぶというわけです。
歴史、考古学、文学などさまざまな方面から学者が喧々諤々の議論をしてもはっきりしないことは、素人の自分がここで考えてもしょうがない。一般的な見解を素直にそのまま受け入れておくことにします。
つまり、時の権力者であった大和朝廷が、大なり小なり創作を交えつつ、いろいろな伝承を換骨奪胎して作り上げた日本の建国の歴史書の一つが「古事記」であるということ。
その目的は、天皇家が支配することの正当性を明示すること。とくに古事記では、「神代」と呼ばれる上巻が最も重要な部分で、天と地、山と海のすべての力を天皇家が持つことの理由付けがされています。
その中身はほとんどファンタジーの世界ですから、古典文学の作品として十分に鑑賞しうると同時に、その行間からは当時の人々の暮らしが垣間見え、日本の古代史を知るための資料としても重要だということです。
2017年11月11日土曜日
外苑の銀杏並木
銀杏並木道はたくさんありますが、都内でも特に有名なのは青山の神宮外苑。毎年、今の時期にはたくさんの観光客も集まります。
毎年、この時期、大学へ行くときに楽しみにしています。さて、今年の銀杏の葉の色づき具合はというと・・・今週は、70%くらいという感じでしょうか。
南側、つまり絵画館に向かって左側はほぼ黄色に染まっています。葉も落ち始めていて、黄色の絨毯とのバランスだとこの土日が一番の見頃かと。
北側はまだまだ。緑の部分がかなりある。日当たりの関係でしょうから、しょうがない。
そのかわり、今週は南側、来週は北側と2度楽しめるのかもしれないと思えば、まぁ、いいんじゃない?
2017年11月10日金曜日
神社の成立と社格
元々、何か祀り事をする時だけ、祭壇を用意したのが常設化したのが神社の始まり。弥生~古墳時代に整備されていったと言われています。
6世紀半ばに朝鮮半島を経由して大和朝廷に公式に仏教が伝来してくると、賛否両論を巻き起こしながら日本でも広まっていきました。特に仏教に肩入れしたのが豪族の一つである蘇我氏。仏教が、実際に民間に浸透するのは平安時代以降とされています。
時の権力者の考え方もあって、神仏は抜きつ抜かれつの状態から、しだいに両社が混在する神仏習合の時代が、なんと明治維新を迎えるまで続きます。この中で、例えば両者が合体した神宮寺と呼ばれるものも登場しました。また、仏が生まれ変わって神様になったと考える権現(ごんげん)もありました。
明治政府は神仏は異なるものという考えから、神仏分離令を出します。これによって、神社に中の寺、あるいは寺の中の神社は分離・整理されました。神主さんの一部は住職に、住職の一部は神主に専従することになります。
戦後は、GHQの指導により国家から宗教が切り離されることになり、それぞれが宗教法人として自由な活動を行うようになりました。神社を統括する組織として神社本庁が設立されますが、庁とついていても政府の機関ではなく、民間宗教法人の一つ。中には所属していない神社もあります。
現在は神社の格付けは無くなったので、実質的な分類としてはすべての神社の頂点にある「神宮」とその他のすべての神社という単純化されたものしかありません。単に神宮と言う場合は、いわゆる伊勢神宮のこと。つまり伊勢神宮は通り名であって、正式名称は神宮の漢字二文字です。
それまでは、神社には社格と呼ぶ格付けがありました。古くは大宝律令(701年)によって、公的に管理する(各種の祈念祭の運営費用を出す)神社を「官社」と規定しました。延喜式神名帳(927年)という神社リストが現存していて、ここに2861社が記載されています。
これらを式内社(しきないしゃ)と呼び、格式の高い重要な神社とされました。一方、リストにのらなかった神社は式外社(しきげしゃ)と呼ばれます。
式内社の中で、朝廷の直接の管轄下にある神社は官弊社、地方の行政単位である「国」ごとの管轄にあるものを国弊社と呼びました。それぞれ大小があり、官弊大社、官弊小社、国弊大社、国弊小社に分けられます。
さらに、それぞれの国で、最も有力な神社から順に、一宮、二宮、三宮・・・という順位が付けられました。国府(今で言う県庁所在地)の近くにこれらをまとめたものが総社です。11世紀初めに、特に重要とされる神社が選出され「二十二社」と呼ばれるようになります。
明治政府は新たに神社の格付けを行い、社格の対象外である(伊勢)神宮と官国弊社として218社、諸社(民社)として約5万社、無格社として約6万社を規定しました。
現在、社格制度は廃止され、伊勢神宮以外は同格となっていますが、
神社本庁は別表神社という制度を設けており、旧官国弊社に加えて、一定の基準を満たす重要な神社(約350社)を厳選しています。
意外なことに、有名な京都・伏見稲荷大社、石川県・気多大社、東京・靖国神社などは神社本庁組織には加入していません。
2017年11月9日木曜日
神様がいるところ
そもそも、神社って何? という話。
う~ん、端的に言えば、神様を祀って、神道にそっていろいろな祀り事を行う宗教的な場所・・・ということですかね。
あまり意識していなくても、こどもの時から夏祭、秋祭、そして縁日、神輿など、ずいぶんと関連行事では楽しませてもらったはず。
こどもが生まれて100日目には、お食い初めをして、たいてい神社で元気に育つように祈祷をしてもらう。七五三も神社。結婚式というと、神主さんに祝詞を上げてもらう神前だったりします。
宗教、とくに神道というと、何か思想的なことを考えてしまいますが、日本人の生活の中には、文化として深く定着しています。右だ左だと言わなくても、日本人は独自の神仏混合文化によって、日々の生活を動かしている。
神社で祀る神様の定義というのも、わかったようでわからない。
たぶん、神様は3種類に分類できそう。一番は、記紀に登場する「~神」、「~命」、「~尊」などがつく人(?)で、これはわかりやすい。記紀の中で日本の国の創建に関わったということ。
西洋的な神(god)というのは、万物の創造主ですから、これらを超えたその上の存在。キリストも、基本的には「神の子」であり、記紀に登場する日本の神も同じレベルなのかなと思います。
ギリシャ神話では、一番の大元にゼウスがいて、その下にたくさんの神が登場します。記紀神話では、大元については言及されていなくて、いきなり「神の子」的な神様が次々と登場する。
2番は、各地の伝承・伝説などで語られる神様。いわゆる民間信仰の対象になるもので、 実質的な存在としてはよくわからない。
3番は、実際に存在して、偉人として崇め奉られた人。亡くなって神様に昇格して、人々の心に残っている場合。今どきの表現では、生前「神ってた人」というところ。
実際に祀っていて、礼拝の対象になる物はご神体と呼ばれる神が宿ったもの。これも様々。
皇室の印である三種の神器(鏡、剣、勾玉)にあやかったものをご神体としている場合が多く、中でも丸い鏡はよく見かけることができます。これはほとんどの神社では天照大御神(アマテラスオオミカノカミ)が祀られていることに関係しているようです。
鏡は、天岩屋戸で、隠れた天照大御神を引っ張り出すのに用いられ、天孫降臨の際に日子番能邇邇芸命(ヒコホノニニギノミコト)に授けられたもの。高天原の中心である天照大御神と、天皇家の始祖となる邇邇芸命を象徴します。
ただし、ご神体は物質的なものに限りません。大国主命(オオクニヌシノミコト)が国造り推進のために大物主神(オオモノヌシノカミ)を三輪山に祀ったことが由緒される奈良県・大神(おおみわ)神社は、山ぜんたいがご神体とします。4か所に拝殿を持つ信州・諏訪大社も、それぞれが山や木をご神体としています。
少し話はずれますが、大相撲は神事とされており、最も優秀な大関は生き神様としてご神体の扱いを受けます。ですから注連縄(しめなわ)をつけることができるわけで、横綱と呼ばれるようになりました。
2017年11月8日水曜日
青葉餃子 @ 青葉台
餃子です。
店の名前からしても、いかにも餃子専門店。田園都市線 青葉台駅前を北へ5分くらい、桜台交差点の近くにあります。
店としてはあまり大きくなく、縦長の鰻の寝床みたいな店内は、レトロな昭和のディスプレイがたくさんあって、昭和のおじさんには居心地のよい雰囲気です。
さすがに餃子のメニューはたくさんあって、どちらかというと夜にお酒を飲みながらというのが似合うかもしれません。
今回は開店の時間を目標にお昼に行ったのですが、すでに何組かが行列を作っていました。店は狭いので、開店と同時に満席です。
一番の餃子へのこだわりは、たぶん注文を受けた分だけ調理する直前に皮に包むことみたいです。ラーメン店なら、先に包んで用意しておくところです。
できるだけフレッシュなものをという・・・ことなんだと思います。そのせいか、皮の美味しさと餡の美味しさが生き生きとしていて、何種類かたべましたが、どれも大変素晴らしい。
そのかわり、たかが餃子と思っていると、出てくるのにけっこう時間がかかります。お店の回転は良好とは言えないかも。余計なお世話ですが、経営的にちよっと心配してしまいました。
ちなみに・・・というのも何ですが、担々麺も美味しかったです。
2017年11月7日火曜日
立冬
いよいよ暦の上で冬。立冬です。
ちょっと、そこのあなた。扇風機がまだ出ていませんか? いいかげん、しまいましょうよ。
・・・って、自分の事じゃん!! 何故か(って、掃除が面倒だから気がつかないふりをしているだけなんですが)、いまだに扇風機が室内にあり、ヒーターがいつのまにか登場している。
本格的に寒くなるにはもう少し時間がかかりますから、立冬の合図で忘れていた夏物はいっせいに片付けましょう。
去っていく季節はゆっくりですが、近づく季節の足並みは早いものです。灯油の準備はOKですか? 温かい布団は出してありますか? 降ってから買いに行くのは大変ですから、雪かきの準備も・・・
まぁ、そこまでしなくてもいいんですが、寒さが厳しくなってきますので、体調を崩さないようにしたいものです。
2017年11月6日月曜日
記紀のおすすめ本
古事記、日本書紀の原典については、現代語訳も含めて直接読みたい方には、岩波書店版が一番普及しているようです。
似たような主旨であれば、小学館版もあります。
原典だけを見たい、読みたい場合は、ネットでは全文検索が可能なサイトが見つかります。制作者の詳細は不明ですが、よくぞ作ってくれましたという感じ。
古事記全文サイト(http://www.seisaku.bz/kojiki_index.html)
日本書紀全文サイト(http://www.seisaku.bz/shoki_index.html)
全部載っている物は内容量が膨大で、分厚く重たい。文庫版は紙面の都合上見にくいし、当然文字が小さくて(老眼には)読みにくい。それに分冊になると、持ち歩いて時間があるときに行きつ戻りつ的な読み方をするには不便。
特に、日本書紀は長大ですし、事実らしきことの羅列みたいなところがあるので、原典にはあまりこだわらなくてもいいように思います。
そこで、原典はネットの世話になることにして、読み下しと現代語訳が一冊にまとまっているものがおすすめかと。これは、山ほど見つかりますが、前に書きましたが現代語訳は訳者の主観が入りやすい。
古事記で一番手に入れやすく、売れ筋なのは、天皇の親戚筋である竹田恒泰のもの。そして、三浦祐之版「口語訳」というのもあります。竹田版は読みやすいのですが、その分主観的。三浦版は、「・・・でした」がすべて「・・・だったのじゃ」という語りことばになっていて、余計な文字が多すぎて「じゃ」がじゃま。
自分が用意したのは、マイナーなんですが、雑誌の歴史読本の特集を単行本にした「古事記 ~ 神話と天皇を読み解く」というもの。10年くらい前のものですが、評論集もセットでかなりお買い得。
そして、そもそも最初に古事記が面白いと思わせてくれたのが、「愛と涙と勇気の神様ものがたり まんが古事記」です。まんが版は数あれど、中途半端な挿絵程度のものが多い。これは、絵も楽しくて、文字数も適量で入門には最適です。
そして、おそらく次のベストセラーになっているのが「ラノベ古事記 日本の神様とはじまりの物語」で、もう神様たちのキャラが抱腹絶倒に立ちまくっています。しかも、素晴らしいことにネットでも公開していて、さらにラジオドラマ版の音声データまで公開している。
日本書紀については、まだまだ探したりないかもしれませんが、古事記に比べるとあまり本の数はない。コンパクトにまとまったものを探すと、本当に項目の羅列だけになってしまって、古典文学的な雰囲気がまったく無いただの歴史ノートみたい。
でも、できれば一冊にまっとまったもの・・・と探したら今年7月の最新刊で、「解析 日本書紀」というがあった。書評が見つからないので不安だったのですが、取り寄せてみると、程よい解説と程よく整理された現代文で、なかなかの優れものでした。
解説書や研究書はたくさんありますから、気になるタイトルがあれば、それぞれの方の気の向くままどうぞ、という感じ。ただし、思想的な誘導が目的のものもありそうなので、ちよっと気にした方がいいかもしれません。
その中で、「あらすじとイラストでわかる古事記・日本書紀」はコンビニで売っている500円のワンコイン本ですが、紙質はよくありませんが、なかなかの優れもの。これ一冊で記紀すべてのあらすじがわかって、もう最低限の知っているとより深く理解しやすい解説がついています。
ちょっと注意したいのは、成立や内容について偽っている偽書というもの。そもそも古事記そのものさえ偽書論争があるわけですが、記紀については特に「竹内文書」、「ホツマツタエ」という2つのキーワードが深く関係してきます。いずれも記紀より前に作られた編纂資料であるとされたくさんの書籍が見つかりますが、基本的には多くの学者さんからは否定されているもの。
神代の話を、純粋なフィクションとしてだけ楽しみ、そこからスピンオフ作品が生まれれば、それも追いかけたい場合はかまいません。しかし、事実としての古代史を意識するからには、簡単に手を出すことは大変危険なことだろうと思います。
あと、記紀の世界に実際に出かけてみたいという方向けのガイドもいろいろあります。歴史物に強い洋泉社MOOKのシリーズがお勧め。昨年の「古事記 神話を旅する(完全版)」、「日本書紀 古代大和を旅する」が情報が新しくて、それぞれのあらすじも含みますし、写真も綺麗。文字だけ見ているより、こういう本を手元に置いてヴィジュアルに想像するのは楽しみを倍増させてくれます。
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