Gustav Mahler Emil Orlik 1902.jpg - Wikipedia |
音楽を聴くのに、音楽家の経歴を絶対に知らないといけないと思っているわけではありませんが、作曲家の人生がどんなだったのか知っていると聴いていて面白味が増すことはしばしば経験します。
グスタフ・マーラーの情報をいろいろネットで探していると、断片的にいろいろな逸話などを知ることになります。ブラームスに「嘆きの歌」を一蹴されたとか、ブルックナー門下でヴォルフとは下宿仲間だったとか、アルマに恋して結婚したとか、ウィーンでは辛いことが多くてアメリカに渡ったとか。長女が病死したとか・・・
この手の話は作られた音楽の奥行きを深めるために、後世の人が尾ひれをたくさんつけて波乱万丈化していることが多い。ですから、短い評伝ほど余計な話が入ってこないので、Wikipediaくらいを参照するにとどめておくのが無難。
とは言っても、重要なポイントだけまとめてみます。
1860年7月7日、現在のチェコ共和国のほぼど真ん中、カリシュト(カリシチェ)で生まれました。この場所はチェコの西半分である牧畜が盛んなボヘミアに接して、彼らもまたボヘミアン(流浪の民)という自覚があったようです。
6才からピアノを習い、1875年、ウィーン学友協会音楽院に入学し1876年には作曲を始めました。1877年、ウィーン大学に並行して入学、ブルックナーの講義に出席。1878年、音楽院を首席で卒業しピアニストになる。
1880年、二十歳で指揮者デヴュー、「嘆きの歌」初稿完成。ベートーヴェン賞(ウィーン市の作曲コンクール?)に応募するも、審査員だったブラームスらに酷評され落選。
1984年に歌手のヨハンナ・リヒターに失恋し「さすらう若人の歌」の作詞・作曲、交響曲第一番の作曲を開始します。1887年、ウェーバーの孫の依頼により未完のオペラ「三人のピント」を補筆完成(後に孫の奥さんと不倫関係)。また民謡集「少年の魔法の角笛」に没頭し始めるのもこの頃。
指揮者としては高い評価を受けるも、各地の劇場での仕事は長続せず転々としていました(指揮者としての厳しい要求や、同僚・先輩に対する強いライバル心の関係?)。また、作曲家としても、なかなか受容されませんでした。
1895年、弟オットーの自殺。1987年、ウィーン宮廷歌劇場楽長就任のためにユダヤ教からカトリックへ改宗。翌年にはウィーンフィルの常任指揮者に就任。しかし、立て続けに自ら改訂したベートーヴェンの交響曲を演奏し多くの非難を浴びます。楽団との関係も悪化し、1901年ウィーンフィルは辞任。アルマ・シントラーに出会い婚約、翌年には結婚、長女マリーア・アンナ誕生。
1904年、若いシェーンベルク、ツェムリンスキーらと「創造的音楽家協会」を設立し名誉会長となります。次女アンナ・ユスティーネ誕生。
1907年、長女が病死。自らも心疾患を発症。ウィーンではマーラー排除の動きがあり、自らアメリカに渡ることを決意します。翌年元旦にメトロポリタン歌劇場にデヴュー。しばらくは、アメリカ、ヨーロッパ各地で指揮活動、夏は作曲に専念という生活でした。
1910年、妻アルマと建築家グロピウスの不倫を疑い、精神分析医フロイトの診察を受けます。その結果、精神的に回復し活力が戻りますが、翌年2月に敗血症、アメリカから戻る船の中で重体になり1991年5月18日死去、51才でした。
ざっと、その履歴を眺めてみると、やはり間違いなく言えるのは敵が多い人だったんだろうなということ。自ら作った場合も、知らないうちに敵になっていた場合もあるんでしょうけど、それをマーラー自身の先進性・向上心として正当化しきれない部分はありそうです。
ただ、それだけ周囲にいろいろ影響するようなのエネルギーを発散していた、後世に残る典型的な文化人だったことはわかります。そして、早くにそのエネルギーを使い果たしてしまったのかなとも思いました。
なお、本来は、作曲年表を重ねて見るべきなんでしょうが、作曲開始時期、終了時期はなかなか特定しにくいのと、後の改訂作業などにより複雑化しているため、あえてあまり触れませんでした。どうせ、興味のある方は、自分で調べるでしょうからお許しを。