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2019年12月11日水曜日

Simon Rattle BPO / Mahler Symphony #10 (1999)

マーラーのCDで、バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルの「復活」、アバド指揮シカゴ響の1・2・7番、ラトル指揮ボーンマス響の第10番に共通することは何?

・・・というなぞなぞ。答えられる人は、かなりマニア。そりゃそうでしょう。わからなくて当然です。

正解は、交響曲全集が作られたときに新録音があったためはずされ、忘れられた存在になったもの。

バーンスタインは後にロンドン響との演奏が出たため、しばらく消えた音源でしたが、ニューヨーク・フィルだけの全集があらためて編まれた時に「復活」しています。アバドは、亡くなってからシカゴ響ボックスとしてまとめられました。

ラトルのボーンマスの10番は、彼のキャリアのスタートみたいなもので、後にベルリンフィルとの決定盤が登場してしまったので、「ラトルの初マーラー」という点を除いて、ほとんど話題に上らない。ただし、単独のCDは中古で入手可能です。

そこで、定番となったラトルの第10番ですが、クック版の全楽章演奏です。当然、第10番については、マーラーが完成できたのは第1楽章のみですから、没後に残されたスケッチをもとにいろいろな人が「全曲」を完成させました。

デレク・クックの全曲版は1960年以降、一番「実用的」という評価のもとスタンダードの位置にあり、このラトル盤をはじめ最も演奏されているもの。ただし、多くの名だたる指揮者は、マーラーの自筆譜がある第1楽章のみの演奏に留めているのも現実です。

こういう時、いつも無理やり無いものを作ってもそれは原作者の物とは違う、いや遺志に従っていて作品として十分に成立している、という両者の論争が必ず起こる。

代表的なものとしては、モーツァルトの「レクイエム」があげられます。モーツァルトが遺したものだけでは、とても曲として成立しません。でも、今では弟子のジュースマイヤーが補筆完成させたものを中心に普通に受け入れられています。

マーラーは、ベートーヴェンにより完成された古典的な交響曲の枠組みを壊し続け、第8番でこれ以上崩せないくらいまでやりつくす。そして第9番で、ついに独自の世界観によるマーラー音楽が登場したと思います。となると、その次は? という期待が大きいだけに、これを補筆完成させるには、マーラーと同じくらいの思考・作曲能力が必要。

自分は「マーラーの生まれ変わり」だくらいのことを公言して、実際作曲活動も行っていたバーンスタインも第1楽章のみの演奏に終始しました。おそらく、ラトルが最初のマーラーとしてクック版全曲演奏を行ったのは、話題性を重視した部分が大きいのかもしれません。

その後のマーラー演奏では、比較的オリジナル性を重視しているように思うので、もう一度ベルリンフィルで再録音する意義は、前作に不満があったということしかないように思います。

確かにクック版はいかにも「マーラー」なのですが、やはり「本物」ではないという意識が働くので、第2楽章以降は「マーラーらしい」以上の物としては聞けません。モーツァルトの「レクイエム」のように一定の市民権を得られるには、まだ相当の時間が必要だろうと思います。