2021年1月20日水曜日

リンカーン (2012)

スティーブン・スピルバーグ監督の、アメリカ奴隷制度が関連してくるテーマを持った映画としては、「カラー・バープル」、「アミスタッド」に続く3作品目。タイトル通り、世界的な偉人であるリンカーンを題材にしたもの。

・・・ですが、日本人としては、リンカーンについてどれだけ知っているか。昔、世界史で教わったのは、アメリカの昔の大統領の一人で「人民の人民による人民のための政治( government of the people, by the people, for the people)」を目指すという演説をし、南北戦争を乗り越えて奴隷解放を実現させた人・・・というのがほぼすべてかもしれません。

アメリカの国民にとってはどうなんでしょうか。我々が、例えば伊藤博文について知っていることと言えば、恥ずかしながら、松下村塾の出身で以前の千円札に描かれた政治家。そして満州で暗殺された人というくらいかもしれません。

ほとんどその程度の知識で映画を見ても、もちろん楽しめるとは思いますが、おそらくアメリカ人にとっても、やはり前後の状況を予備知識として知っておくことが大変重要です。ですから、この映画では大変珍しいことに、一番最初に黒のスーツ姿のスピルバーグが自ら登場し、最小限の歴史的背景を話すことから始まるのです。

1809年にケンタッキーで比較的裕福な農場主の家に生まれたエイブラハム・リンカーンは、元々奴隷制に反対する父親とともに、奴隷制度が無かったインディアナ州に移り住みます。20代後半から優秀な弁護士として名を上げ、1942年、メアリー・トッドと結婚します。

1843年に長男ロバート、1846年に次男のエドワード、1850年ら三男のウィリアム、そして1953年に四男タッドをもうけています。しかし、エディは1850年2月に結核で、同年12月にはウィリアムもチフスで失っています。

1846年に国政に進出し下院議員に当選し、その後共和党に入党。当初より奴隷制度に反対する運動を行い、1860年に共和党からの始めての第16代大統領に選出されます。これに対して奴隷制維持を考える南部諸州は連邦からの離脱することになり、1861年4月、ついに南北戦争が始まりました。

1862年9月、リンカーンは奴隷解放宣言を行い、南部地域の奴隷たちの解放を命じたが、それに従うことはほとんどなく、またこの宣言も戦時下の臨時的なものにすぎないことはリンカーン自ら自覚していました。しかし、この宣言によって、奴隷を開放する国民的な議論が大きく進んだことは間違いありません。

北軍が戦いを有利に進める中で、1863年7月のゲティスバーグ(ペンシルバニア州)で行われた有名な演説が、まさに「人民の人民による人民のための政治」です。1964年に大統領に再選されると、奴隷解放を永続的な物とするため憲法の改正を目指すことになりました。

リンカーンが目指した憲法修正第13条は「奴隷制もしくは自発的でない隷属は、アメリカ合衆国内およびその法が及ぶ如何なる場所でも、存在してはならない」というものでした。この修正条項が批准されれば、南北戦争を終結させる力があると考えられていました。

しかし、先に南北の和平が成立させようとすると、南部の奴隷制維持に妥協することになりかねず、また平和になるならわざわざ憲法を修正するまでも無いと考えられていました。リンカーンは憲法改正を急ぎましたが、和平より優先することでより多くの兵士が死ぬかもしれないというジレンマの中にいたのです。

さて、最低限このくらいの歴史的な事実を把握しておいて、いよいよ映画で扱うリンカーン最後の4か月間のストーリーが始まります。しかし、それでもいきなり共和党保守派、共和党急進派、民主党、南部連合、そしてリンカーンの家族を含む近い人々がどんどん出て来ますし、またセリフの多さにはある程度の忍耐が必要です。

ここでリンカーンを演じるのは、名優中の名優、ダニエル・デイ=ルイス。何しろ「マイ・レフト・フット(1989)」、「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド(2007)」で2度のアカデミー主演男優賞を獲得し、この「リンカーン」で何と3度目の受賞をすることになります。リンカーンは193cmの長身でしたが、デイ=ルイスは187cm。6cmの差を感じさせない大柄な感じと、長身から来る軽度の猫背などの雰囲気作りはさすがです。

妻のメアリーは「ノーマ・レイ(1979)」、「プレイス・イン・ザ・ハート(1984)」で2度のアカデミー主演女優賞に輝くサリー・フィールドです。こどもを立て続けに二人亡くしたことや、この映画のエピソードが始まる数カ月前に目の前で夫が暗殺未遂に遭っていることなどから、精神的に不安定なところをさらりと演じています。

多くの登場人物の中で、特に注目は共和党内の保守派重鎮を演じるハル・ホルブルックと急進派リーダーを演じるトミー・リー・ジョーンズです。二人とも、リンカーンとの駆け引きで自分の理想を実現させようとしますが、まさにこれらの立場の違いの人々とうまく渡り合うことができるのが大統領としての資質なのかもしれません(時には嘘もつきますが)。異なる立場の人々を切り捨てていくようでは、長く支持されません。

なかなか賛成票を集めきれない状況で、投票日が刻々と迫ってきます。ロビーイストらによる反対勢力の懐柔策を進めてきましたが、リンカーンは、ついに自ら反対の立場をとる人々を一人一人説得して回るのでした。そして、1865年1月31日下院での投票でついに批准されることが決定し、リンカーンの奴隷解放の理念が永続的に維持されることになったのです。

4月1日、北軍のグラント将軍は、南軍のリー将軍の部隊を壊滅に追い込み、4月9日に降伏、ついに南北戦争は終結をみます。そして、4月15日に妻らと観劇中のリンカーンは後ろから銃撃され56歳でこの世を去ることになりました。映画で語られるのはここまで。

21世紀になってから、スビルバーグは政治的発言・活動が増えており、民主党支持者であることは周知の事実です。この政治色の強い映画では、リンカーンの最後の4か月間に絞り、リンカーンの伝記ではなく憲法修正第13条にまつわる政治ドラマを、共和党・民主党・南部連合のそれぞれの立場を比較的公平に描いているとように思います。

現代にも通じるような政治決定がなされるまでのプロセスを、リンカーンを主軸に描いたことで、実は奴隷制度に対する議論そのものはほとんど横に置かれている。もちろん、スピルバーグが奴隷制度を肯定していることはないわけですが、そこはアメリカ人が触れて欲しくない過去なのだと思います。

奴隷制度が無くなっても、搾取される人々の裾野が黒人だけから白人も含んで広がっただけという側面もある。現に、今現在でも黒人に対する不当な扱い方が頻繁にニュースになっていて、すべてを受け入れる自由で民主的なアメリカというイメージとはかなりかけ離れた現実が見えてきます。

単純に名優たちの名演技を見るだけでも良しとしますが、スピルバーグにはあと少し踏み込んだ映画を期待したい。また、それらを公平に評価するだけの器をもった賞があると素晴らしいと思います。アカデミー賞では、12部門にノミネートされ、主演男優賞と美術賞を獲得しています。