フランソワ・トリュフォー監督の、唯一のSF作品です。トリュフォーは、フランスのヌーヴェルヴァーグを代表する監督の一人であり、理論家としても有名。ヒッチコックとの対談は、映画製作者のバイブルになっています。また、スピルバーグの「未知との遭遇」では(SF嫌いにもかかわらず)俳優として重要な役どころを演じました。
原作はレイ・ブラッドリーによる1953年の小説で、タイトルは本(紙)が燃え始める温度(451゚F、あるいは233゚c)を示しています。思想統制がしかれた近未来社会が舞台なのでSFとして扱われますが、基本的に科学的・未来的小道具か大嫌いなトリュフォーは、多少の未来的な雰囲気はあるものの、ほとんど現代劇と言って良いような絵作りをしました。
本は社会体制に邪魔になるよけいな思想を産む温床だとされ、所持していることが判明するとファイヤーマンが急行しただちに焼却処分し、持ち主は逮捕されるという時代。本の所持者の密告も奨励されています。
文字が無い時代で、開始早々のタイトルやキャスト・スタッフも表示されず、声でのみ紹介されるのです。この時代、新聞も文字は無くコミックのような絵だけ。
優秀なファイヤーマンであるガイ・モンターグ(オスカー・ウェルナー)は、ある日通勤のモノレールで、妻のリンダ(ジュリー・クリスティ)にそっくりな教師をしているクラリス(ジュリー・クリスティ二役)という女性と知り合います。
クラリスは、単刀直入に何故本を焼くのか、本を読むことの何がいけないのか質問してきます。それまで当たり前だと何も思わなかったモンターグは、焼き捨てるはずの本を密かに持ち帰るようになりました。ちなみに最初の本は、ディケンズの「デイヴィッド・コバフィールド」でした(文字が無い生活なのに字が読めるのはちょっと不思議・・・)。
クラリスは、学校を首になったことためその理由を聞くためモンターグに一緒に行ってほしいと頼み、クラリスはリンダを騙り嘘の電話でモンターグを休ませます。しかし、この行動が同僚や隊長を怪しませるのでした。
次にモンターグが出動したのはクラリスが出入りしていた老女の家で、隊長が「秘密図書館」と呼ぶほど大量の本が見つかります。隊長は小説は無駄な想像を膨らませる、哲学書は自分だけが正しいと主張するだけ、自伝は自己満足などと言い放ちます。老女は、自ら火を放ち本と共に燃えていくのでした。
クラリスの家もファイアーマンの捜査を受け、クラリスは何とか逃亡します。次々に本を読み漁るモンターグに愛想が尽きたリンダは、モンターグを密告し家を出てます。モンターグは隊長に辞職を申し出ますが、最後の仕事だと連れていかれたのは自分の家でした。
火炎放射器を渡され自分で焼けと言われたモンターグは、家全体に火を放ち隊長をも焼き殺してしまいます。一番SF的なのは、空中を飛ぶ警察がモンターグを探しているところ。モンターグは森の奥深く逃げ、そこで一人一冊ずつ本を暗記し書名でお互いを呼び合う「本の人々」に出会います。先に到着していたクラリスは、すでに書名になっていました。モンターグは、唯一手元に残ったエドガー・アラン・ポーの「怪奇と幻想の物語」の暗記を始めるのでした。
トリュフォーにとっては、初めてのカラー作品。そして初めてで唯一の英語作品です。ヒッチコックとの交流を盛んにしていた後で、サスペンスの盛り上げ方などで随所にヒッチコック的な演出・撮影・編集が見て取れます。また本を焼くことは、ナチスの焚書を思い起こさせずにはいられません。
ちなみに「突然炎のごとく」でトリュフォー作品を経験済みだったオスカー・ウェルナーは、人気が出てトリュフォーを見下すようになり大きな確執が生じたことは有名な話。
全体主義的な思想統制の怖さを描くとともに、自分で考えなくなった人々の末路を示した映画です。作られた当時では、テレビの普及により直感的にわかりやすい視覚的な情報に頼りすぎるようになってきたことへの警鐘という意味があったかもしれません。
しかし、実は現在の状況の方が、より危機的なのかもしれない。全体主義というより、個人主義的な主張が多くなり、インターネットを介した安易な情報だけを鵜吞みにする時代です。本の売れ行きはどんどん下がり、書店はどんどんなくなっています。
人類の記憶・記録の宝庫である書物を軽んじて、自分なりに物事をしっかり考えるということが少なくなったことは否定できません。自らの思考を止めてしまえば、このストーリーのような未来が待っているかもしれないということなのかもしれません。