夏季臨時休診のお知らせ

8月15日(金)~8月20日(水)は臨時休診となります ご迷惑をおかけしますが、お間違いないようにご注意ください

2025年7月21日月曜日

ボクは坊さん。 (2015)

高野山真言宗の開祖、空海が若い時に四国を巡って修行した足跡を、お遍路としてたどるのが四国八十八か所巡りで、その第五十七番札所にあたるのが愛媛県今治市にある栄福寺です。現住職は白川密生(1977年生まれ)という方で、高野山大学にて密教を習得し、書店員の仕事に就いていましたが、24歳で先代住職の遷化(高僧が亡くなること)により栄福寺住職となりました。

その年から糸井重里が主宰するインターネット上の「ほぼ日刊イトイ新聞」に、寺の生活をつづるエッセイを2008年まで連載し、2010年にそれらをまとめた書籍が出版されると大変話題になりました。この映画はそのエッセイ本を原作として、ドラマとしてのフィクションを加えて作られました。監督は真壁幸紀、脚本は平田研也が担当しています。

高野山大学で学んだ白方進(伊藤淳史)は、自分の進むべき道がはっきりせず書店で働いていました。祖父で住職の端円(品川徹)はそんな進を温かく見守っていましたが、檀家総代の長老、新居田(イッセー尾形)は気が気でありません。

しかし、住職が病に倒れてしまい、進は寺を継ぐ決心をするのです。剃髪し名を光円と改めたことを報告すると住職は静かに息を引き取りました。光円は新しい住職になったものの知らないことばかりで、長老からも叱責を受けることばかり。それでも、毎日のやるべきことに向き合い、少しずつ慣れていくのでした。

光円には高野山大学での友人で広太(濱田岳)と孝典(渡辺大知)がいましたが、孝典はすぐに実家の寺に入ったものの、広太は会社勤めを選びます。しかし、広太はしだいに自分がわからなくなり、退社して引きこもってしまうのでした。光円は孝典と話しているうちに酔った勢いで、広太の家に押しかけ「お前は高野山を忘れている。お山で顔を洗って来い」と言って、広太を連れ出すのでした。

一方、光円には幼馴染で仲の良い京子(山本美月)と真治(溝端淳平)という友人もいました。ところが結婚した京子が出産する際に、脳出血を起こし植物状態になってしまうのです。京子のために何もできない自分を責めていましたが、初めて長老が光円の気持ちを察する言葉をかけてくれるのでした。そして、京子の夫は離婚手続きをしてしまったため、光円は京子のこどもを引き取る決心をします。

真治は意識が無い状態が続く京子は生きていると言えるのだろうか、と光円に尋ねます。光円は仏教の教えにのっとって納得しようとしますが、真治の言葉は重く心に響いて、ついに心が折れてしまうのでした。

一見、寺の生活を面白可笑しく紹介する「お寺あるある」みたいなコメディかと思って見始めたら、それは最初の方の一部であって、実際は大学の友人、幼馴染の友人らを通していかに生きていくかを仏門の立場から考えるヒューマン・ドラマという感じの作品でした。

お寺さんというと葬式だけで関わる人が多いし、自分もそういう一人なんですが、本来は生まれてから死ぬまでの人生の様々な局面と繋がっていることが映画で示されます。その中で、僧侶がどこまで関わるかはいろいろです。ほとんど仏門の実務を知らずに住職になってしまった主人公は、なおさら自身の方向性を決めかねるのです。

奥深い所では「生と死」が究極的なテーマになっていて、生と死にからんだいろいろな経験を積むことで、主人公は僧侶として成長していく姿が浮かび上がってきます。さすがに京子のエピソードは映画用のフィクションだろうとは思いますが、生と死を効果的に演出する部分として盛り込まれています。

また学生時代の友人という3人、幼馴染という3人、あるいは新旧住職と檀家という3人のような人物の対比がうまく取り入れられていることも映画としての面白さを出しているポイントになっているようです。3人集まると一人が仲間外れになりやすいのですが、それぞれをうまく解決して後味を悪くしていないのも嬉しい感じがしました。