前年の初めての東京公演を成功させたTEAM NACSが、ついに2005年4月から9月にかけて初の全国公演を行った作品です。脚本・演出は森崎博之ですが、演劇のプロ集団としての自覚に目覚めたのか、舞台装置やご道具、衣装など美術などもスケールアップし、さらにこの後多くのTEAM NACS作品に関わるNAOTO(高橋直之)を初めて音楽監督に迎え、本格的な劇中演奏を組み込んでいます。
有名作曲家が登場するので、クラシック音楽の知識があればより楽しめるのですが、誰もが聞いたことがある有名曲をうまく配置して、知らないことがあってもストーリーに入り込める工夫が随所にされています。
メインで登場するのはルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(大泉洋)で、亡霊となって登場するのがヴォルフガンク・アマデウス・モーツァルト(安田顕)。ベートーヴェンに対して嫉妬をしたためモーツァルトにつけこまれるのがフランツ・シューベルト(戸次重幸)、そしてモーツァルトに嫉妬し、その後音楽教師としてシューベルトにかかわるアントニオ・サリエリ(森崎博之)が登場します。
ここで、この舞台の最大のテーマである「家族」を象徴しているのが、ベートーヴェンの甥にあたるカール・ヴァン・ベートーヴェン(音尾琢真)です。事実としては、ルードヴィヒの弟、カスパール・カールと妻のヨハンナの間に生まれましたが、カスパールが結核で早死したことで、ルードヴィヒは不道徳なヨハンナからカールの親権を半ば強引に取り上げ、泥沼の裁判までになりました。カールはそのような複雑な環境で育ち、音楽家にしたいルードヴィヒの意に反して軍人を目指したため二人の関係は最悪なものになり、二十歳の時に拳銃自殺未遂を起こし、結局ルードヴィヒの葬儀には参列しませんでした。
ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは、父親から厳格な音楽教育を受けて育ちました。父親が亡くなって、弟のカスパールはヨハンナと結婚して音楽家にはならないと言ったため、兄と喧嘩になり家を出てしまいます。しばらくして、カスパールは兄の元を訪れ、自分は結核でもうじき死ぬので、一人息子のカールを抱いてほしいと懇願します。カスパールの死後、ルードヴィヒはヨハンナと一緒にカールを育ててほしいという遺言状を破り捨て、カールを強引に引き取るのでした。
15歳になったカールは、サリエリの音楽教室でシューベルトと知り合います。シューベルトは、ナポレオンの侵攻によって母親を亡くしたため、音楽家としてルードヴィヒを尊敬すると同時にナポレオンを讃える交響曲を作ったことで複雑な感情を持っていました。そこにモーツァルトの亡霊が現れ、シューベルトの嫉妬心を巧みに操りルードヴィヒに対する悪意を膨らませるのです。
モーツァルトは死の間際に挫折感と絶望の中で、最後の作曲「レクイエム」を完成できなかったことが心残りで亡霊と化し、世の中の音楽家に絶望を味あわせようとしていたのです。しかし、ルードヴィヒには悪念が通じないのか、さらなる名曲をうみだしていました。モーツァルトはシューベルトをたきつけ、カールとルードヴィヒの関係をさらに悪化させます。そしてカールはルードヴィヒが実父ではないことを知り、ヨハンナの元に去ってしまうのでした。ついに絶望したルードヴィヒは体調を崩し耳が聞こえなくなってしまうのでした。
シューベルトは実際にベートーヴェンと会うのは、死の直前なので当然このような関わり方はフィクションです。映画「アマデウス」で悪役だったサリエリは、ここでは面倒見の良いおじさんというキャラになっていますが、これは「アマデウス」のサリエリがあまりに可哀そうと云う理由で森崎が改変したようです。
ルードヴィヒ、カール、シューベルトの三人は、それぞれ違った理由で親からの愛情に飢えていたわけで、その屈折した心情から立ち直るというよりは克服することがストーリーの核心にあります。モーツァルトは、その思惑通りではなく意図せずに三人の触媒として絡んでいくのはなかなか素晴らしいアイデアだと感じました。
前作で「客を呼べるアマチュア演劇」を卒業できたTEAM NACSは、半年に及ぶ全国公演で、「金を取れるプロフェッショナル演劇」の領域に明らかにステップアップしています。堂々とした演技や台詞回しは明らかに前作と比べ物にならないくらい進歩していると思います。脚本も、楽屋ネタ的な笑いは減り、直球勝負しているようなところも好感が持てました。
とは言え、おそらく目の肥えた演劇ファンからすれば、まだまだ多くの穴は見つかるのだろうと思いますし、一人一人の人気にあやかっているところがあるのは否定できません。しかし、彼等の進歩の過程として見れば、十分に納得できる楽しめる舞台であることも間違いないと思います。