2014年6月11日水曜日

バッハの音楽隊

実際のところ、300年近く前にライプチィヒの聖トーマス教会のカントルの職にあったヨハン・セバスチャン・バッハの手兵といえる、合唱隊と楽団はどんなものだったのか。実に興味深いですよね。タイムマシンがあったら、是非バッハが指揮をしてカンタータを演奏しているところを見てみたいものです。

1730年にバッハ自身が、自分の理想とする音楽を教会で奏でるための要望書をライプチィヒ市に提出しています。この中に、具体的な音楽隊の内容が記されているのが参考になります。

声楽パートは、ソプラノ、アルト、テノール、バスの4声。それぞれに独唱者と合唱者が必要で、独唱者は合唱者も兼ねるとしています。最低それぞれの声部の一人ずつの4人の独唱者でいいわけですが、時には最大で二人ずつ必要になることがあると書いています。

合唱者は各声部に二人ずつが必要で、独唱者と合わせると合唱隊は最低で12名、最大で16名になるわけです。このメンバーは、聖トーマス教会付属の学校の寄宿舎の生徒たちにより構成されました。約60人いる生徒をレギュラーチームAとB、そしてやや予備的なCチーム、あまり使い物にならないDチームの4つにグループ分けしていました。

リフキンという人が90年代に''One Voice Per Part(OVPP)''という考え方を提唱し、これは各声部一人ずつというもので、バッハの時代はこうだったと主張しました。アンドリュー・パロットなども賛同して、それを実践し、時には楽器奏者すらそれぞれの楽器について一人というものまで登場しました。

基本的にバッハの実際の合唱隊は、12~16人であったことがわかっているわけですから、OVPPの根拠というのがはっきりしないわけで、あまりこれを支持する古楽器アンサンブルは多くはありません。ただし、ものによっては人数が少ないことで、風通しの良い清涼感のある演奏になり、それはそれでよしとするみたいなところてしょうか。

楽団は、オルガンについては教会の常任奏者があたり、市の任命するプロ楽師は10名に満たない状況でした。バッハは、理想としては各楽器に2名程度で最低でも20人程度の楽団が必要としています。実際には不足していて、重要な祝日などでは、寄宿舎の生徒の一部が楽器の演奏にも回っていたようです。

ですから、バッハは音楽的素養のある生徒の数が足りないことを訴え、学校が音楽的感性の不足する学生を受け入れすぎているとまで言わせています。おそらく、寄宿舎の生徒よりも数の多い通学組の生徒たちの中からも、ある程度の人数は使っていた可能性はあります。

現実的にはプロの楽器奏者は10人足らずで、もちろん曲によっては他の楽器も演奏したことでしょう。楽器奏者が足りないからといって、有能な合唱メンバーをいつでも回すわけにも行かないというジレンマがカントルにはありました。

そこで、市中から楽器演奏ができる何人かを、必要なときには身銭を切って臨時に雇うということもあったはずです。それで最低でも15人程度の楽団は使えるようにしていたのでしょうから、合唱隊と楽団を合わせて30人程度がステージの上で毎週カンタータを演奏していたと考えるのが妥当のようです。

現代のトーマスカントルの職にあるのはクリストフ・ビラーで、彼は現代のトーマス学校の合唱隊を用いたカンタータの演奏を行い、CDも主要なイベント用のものを集めて10枚ほどだしています。ここでの演奏は、実際にバッハが演奏していた音に近いもの、特に合唱について聴くことができます。

何しろ、合唱隊は全員男性。ソプラノはボーイソプラノ、アルトもカンウターテナーにより歌われるというのは、まさに300年前と同じ状況。当然、女性のプロの歌い手に比べて、どうしても非力になるのはしょうがない。しかし、透き通るような、癖の無いボーイソプラノの響きや、合唱の軽やかさは、なかなか新鮮なものです。

アーノンクール&レオンハルトの全集では、アーノンクールが少年合唱団を起用しているそうですが、バッハの本家、聖トーマス教会の合唱団のアルバムは、それだけで格別の思いがあります。

毎週、日曜日の朝に教会に集う善男善女、老若男女、紳士淑女が、じっと聞き耳をたてて、そしてコラールが出てくると一緒に歌うものもいるという光景が、眼前に広がってくる気がします。