2009年1月5日月曜日

悪魔の手毬唄

今夜は、SMAPの悟郎ちゃんの金田一耕介シリーズが放映されました・・・というか、今やっているんですけどね、自分にとっては金田一耕介はなんと言っても石坂浩二。

1970年代半ばに角川映画第1弾として製作された「犬神家の一族」が最初でしたね。今では当たり前になったメディアミックスの元祖といえます。強烈な個性をもった主役級の俳優さんを大量に配役して、話題性もたっぷり。

しかし、もともと「犬神家」は横溝正史作品としては、けして評判のいいほうではありません。なんでこれにしたのか・・・それは内容として、仮面の主人公、不気味な三人の老姉妹などの設定に華やかさがあって映像的だったんでしょう。

しかし、監督を務めた市川崑はシリーズを立て続けに担当して、監督としてのキャリアを積み上げました。「悪魔の手毬唄」は角川映画ではなく東宝で作られた第2弾。映画としての完成度は、遥かに上だと思います。

これは、もともと原作が横溝作品の「おどろおどろしい」雰囲気を持ちつつも、最も事件の背景・動機がロマンチックなのです。しかし、全編に広がる色彩は灰色。けして総天然色的な派手さはない。横溝が創作した手毬唄をモチーフに、悲しみが最初から最後まで貫いているのです。

このあたりの映画的処理は、さすがは市川監督です。岸恵子の演じたヒロインも見事でしたし、最後のシーンでの加藤武演じる警部に金田一がかける言葉も素晴らしい余韻を作り上げているのです。

そんなわけで、本当にファンの方には申し訳有りませんが、金田一悟郎はだめです。このシリーズは市川シリーズの雰囲気のリメイクになっていて、はじめからオリジナルの金田一ではないと思います。やはりアイドルのイメージをひきずっていては、「かっこ悪さ」を出し切ることはできない。

石坂金田一が成功したのは、それまでの片岡知恵蔵や岡譲二のダンディ金田一を捨てて、原作に忠実な風采の上がらない人間的な探偵像を実体化したからなのです。同じ頃にテレビシリーズでは古谷一行が演じていましたが、外見は原作に近いもののテレビという媒体の影響か、しゃべりすぎ。決めセリフ的な演出も鼻につきました。

横溝正史は戦争が終わって、「さぁこれから探偵小説をかける」と喜んだといいます。そして、本格的謎解きを本筋にもってきた「本陣殺人事件」で1946年に金田一をデヴューさせました。続いて発表された「獄門島」はその独創的なトリックとともに、横溝世界を初めて構築することができた最大の傑作でした。

戦前からの探偵小説作家は、いずれも谷川潤一郎の耽美的世界観の影響を受けているわけですが、横溝はその代表といっても過言ではありません。江戸川乱歩も初期の作品では、その影をひきずっていましたが、しだいにエンターテイメント方向に向かってしまいました。

横溝は、戦前に書き続けた谷川風の犯罪小説の雰囲気を、戦後に初めて探偵小説の世界に結実させたと言えます。しかし、その後逆にその自分の作った世界に縛られ、「八つ墓村」「犬神家の人々」「悪魔が来たりて笛を吹く」「女王蜂」という具合に金太郎飴的な作品を書き続けます。

そして金田一が登場して10年。「悪魔の手毬唄」はついにそれまでの横溝ワールドの総集編ともいうべき作品として、小説としてのロマンが結実した「獄門島」以来の傑作となったわけです。その後の金田一シリーズは、一度読めばいいような、あえていうならテレビの2時間サスペンスみたいなものです。