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2010年8月23日月曜日

解剖学者の夢

では、ベサリウス以後の解剖学の歴史はどうだったか。昨日からのつづきを考えてみます。

16世紀のなかばにベサリウスによって、自らが解剖をして、見えた物、観察できた物をそのまま受け入れるという環境が整備されました。さらに1628年にハーヴェイの血液循環説が発表され、体中の体液の流れが解明されたのです。医学は、ガレヌスからの長い呪縛からやっと解放されました。

解剖図譜の出版もいろいろ行われていましたが、ベサリウスが使ったような絵画的な手法が使われ続けていました。屍体は様々なポーズを取り、生きていて生活をしているかのようなものが多い。

その中で、見えたままに図を書いたものも多く採用し、傑出した解剖学書を発行したのがビドロー(1649-1713)です。その姿勢は(養老先生も指摘していましたが)、なんと屍体に止まっているハエまでも書き込んでしまうというところに現れています。

ビドローの人体解剖図は評判になり、多くの海賊版を生み出すことになりました。日本人としてはちょっとショックだったのは、日本の医学の礎となった杉田玄白の「解体新書(1774)」もじつはそういう海賊版のひとつであるということです。

もっとも解体新書が西洋の知見を翻訳し紹介するものであったわけですから、当然と言えば当然なのですが、なんとなく寂しい気分になってしまいます。

1830年に画期的な発明があり、ここまでの解剖学に変革をせまることになります。カメラの発明です。さらに19世紀後半になるとフィルムが開発され、「見たまま」を美しい図としてのこすことは写真に取って代わられることになっていくわけです。

さらに同じ頃にホルマリンが一般に使えるようになったことが、解剖学を大きくかえることになります。つまり屍体の保存が可能になったということです。腐敗との戦いから解放され、研究材料としての屍体を手に入れやすくなったと言うことです。

マクロスコーピックな人体解剖学はここにきて完成したといえるでしょう。絵画的表現や見たままの表現は必要なくなり、理解を深めるための図式的表現が主流となっていきます。1858年に発表されたグレイの解剖学図譜は現在も版を重ねる原題解剖学と原点と言えるかも知れません。

19世紀末にレントゲン写真が開発され、人体の解明は生体に向かっていきます。一方、16世紀に発明された顕微鏡でしたが、フックによってコルクの観察から「細胞」と言う言葉が使われたのが1665年。

それから、植物も動物もすべて生物の基本単位が細胞であることが確立したのは1858年。ミクロの世界の解剖学の始まりとなりました。顕微鏡発明から時間がかかっているのは、結局腐敗の問題があったからではないでしょうか。

今や、人間の最後の秘境といえる遺伝子すら全解明が終わろうとしているという時代です。19世紀半ばから発達してきた分子生物学は、いまや医学研究の主流であり、今世紀の早いうちに人体探求という知的プロジェクトは完全に終了するでしょう。

そのあと研究者の興味はどこに行くのでしょうか。