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2010年8月22日日曜日

Leonaldo DaVinci as Anatomist

医学の歴史というのは、たぶん掘り出し始めたらとことん深みにはまっていきそうなジャンル。一般の歴史書に比べると資料も多くはありませんし、なかなか調べるのも大変。ですから、興味は当然あるものの、探求はその中のごく限られた部分だけにしておいた方がよさそうです。

そこで特に絞り込んだテーマが解剖学というわけで、その中でも骨学・筋肉学というのは体表から近いために古くから注目されてきた部分です。となると、整形外科を専門にしている医者としても興味を持たないわけにはいきません。

近代医学の分岐点として金字塔的な解剖学書「ファブリカ」を著したベサリウス(1514-1564)については、先に書いてしまいました。そこで、今回はベサリウス以前についての話。

古代エジプトではイムホテフ、古代ギリシャではアポロンが医学のスターということになります。もとはといえば病気は神・悪魔の仕業と考えられていたわけで、そのため医学はまじないや占い、あるいは呪いの対象としてはじまりました。

それをヒポクラテス(BC460-BC375)が、魔術的要素を排除して経験科学としての医学を独立させたわけです。そしてガレヌス(130-200)は実験生理学を導入して、より科学的な確証を持った医学を完成させました。

しかし、人体の解剖が正式に行われるようになるのは12世紀に入ってからのことで、初めての解剖学書がルッチィによって発行されたのは14世紀のことでした。それから1500年ごろまでの間に、いくつかの解剖学書が作られているわけですが、いずれも本当の人体の構造を示していないのです。


図は平面的で、ちゃんと観察していたら間違いと気がつくような点が数多く書かれています。これは、ガレヌスの(今となっては)誤っていた考え方が1000年以上にわたって医学を支配していたことも多いに関係しています。

解剖学の教授はガレヌスの説を紹介することが仕事で、実際の人体解剖は助手がたまに行うだけでした。ガレヌスの説からつじつまの合わないことがあっても、それはたまたまその屍体がそうだったと考えていたのです。

しかし、現実の人体の構造を見てガレヌスに疑問を持ったのがベサリウスだったわけですが、実は彼よりも50年早く、積極的に人体解剖を行い精密な構造を解き明かそうとしていた人物がいたのです。

それが万能の天才、レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)でした。ダ・ヴィンチは基本的には画家ですが、完璧主義者で、完成された絵画はわずかに10数点しかありません。しかし、手稿と呼ばれる走り書き的なノートに、厖大な資料を残しています。


これは日記的なものから、発明の思いつき、創作活動の記録など多岐にわたる内容となっていますが、この中に大量の解剖の図譜が書き込まれています。完璧な人物画を書くためには、人体の構造を熟知する必要があるという発想から始まったものだったのです。

ですから、医学としての解剖学とは一線を画する物であることは否定できません。しかし、本来体表面の形だけ知っていれば、画家としては十分であるにもかかわらず、ダ・ヴィンチの絵の人体の奥深くまで入り込み、原題の知識で見てもその精巧さには舌を巻くしかありません。


これは、ダ・ヴィンチが自分で実際の解剖を行った、それも何度も何度も行ったことを意味しています。当然、法律すれすれ、あるいは時には逸脱していたことも容易に想像できることです。

ダ・ヴィンチの解剖図は、それまでの解剖図と比べて正確さが桁違いであるだけでなく、彼自身が完成させたさまざまな遠近法による描画技術によって、かなり立体的な奥行きを持ったものです。

当然、芸術家としての視点から書かれているわけですから、時には現実の形状を無視して、構造的美しさに重点を置いていることもしばしばあります。しかし、それが芸術としての素晴らしさとともに、かえって構造の理解をわかりやすくしていることもあるわけです。

中には現代のCT検査の発想につながる、人体の連続的な輪切りのスライスの図もあったりして、まさに驚きを禁じ得ません。もちろん、一部には誤りである記載もありますが、医学から入らなかっただけにガレヌスの呪縛に縛られなかったことが成果につながったのでしょう。

もしも、この図譜集が発表されていたら、天才ダ・ヴィンチは近代医学の父という代名詞をも手に入れていたかもしれません。しかし、実際は弟子によって死後も厳重に保管され、公になったのは100年以上たってからのことでした。