黒人ピアニストは、確かに自分よりうまいことを認めざるをえなかった上に、ボスから拳銃を突き付けられて「今日からお前は太鼓でも叩いていろ」と言われた日には、黙って引き下がるしかない。
この悔しさをバネにして、猛特訓した黒人元ピアニストは、ついに世界中に知らぬ者がいないくらい有名なジャズ・ドラマー、アート・ブレイキーとして生涯活躍したのでした。
・・・なんて話は、ジャズの世界ではゴロゴロ転がっていたりします。確かにそんなこともあるかもと思ってしまうところが、妙に楽しい。
メンバーはどんどん変わりましたが、40年近くジャズ・メッセンジャースというコンボを率いて、第一線で活躍し続けたことは、ジャズ界で一二を争う功績です。
これは、ほぼ同時代に生きたマイルスと共通する部分ですが、バンド・リーダーとして新人の発掘する眼力が優れていたこと、そして一度門下に入れるとしっかりとした役割を与え、バンド自体にも新鮮な空気を入れ続けたことが大きいようです。
結成当初は、ピアニストのホレス・シルバーの色が濃く出ていましたが、大傑作「モーニン」ではベニー・ゴルソンが活躍しました。ゴルソン退団後の60年代以降は二管から三管編成となり、マイルスに引き抜かれるまではウェイン・ショーターが音楽監督を務めます。
マイルスが中心となって始めたモード奏法は、演奏者の自由度が広がり、瞬く間にいろいろなミュージシャンが取り入れるようになりました。ショーターもその一人で、ファンキーでファイト一発的なジャズ・メッセンジャースにモーダルな響きを導入しました。
ハードバップの神様みたいなブレイキーも、すぐに反応してちゃんとモード奏法に対応していくところがさすがです。このトランペット(フレディ・ハバート)、テナーサックス(ウェイン・ショーター)、トロンボーン(カーティス・テラー)の三管編成のモーダルなジャズ・メッセンジャースは、Blue Noteの「Mosaic」で世に初登場しますが、わずか数か月後のこのライブ盤ですでにこの時期の代表作と呼べる出来栄えを示しています。
ファンキーを極めた「モーニン」はここにはありませんが、全員が新しいジャズを具現化しつつ、スイングするジャズの本質を忘れない快演をしています。
この組み合わせは、このあとRiversideレコードで3枚のアルバムを作りさらにグループとして成熟した後、再びBlu Noteに戻って「Free for All」で完結します。