夏季臨時休診
夏季臨時休診のお知らせ
8月14日(金)~8月19日(水)臨時休診します。
2026年8月14日金曜日
Around DYLAN - Joni Mitchell
ボブ・ディランのことを、ポピュラー音楽界に変革をもたらし続け、今なお多くの音楽家に影響を及ぼし続ける偉大な人物である・・・と考えることは容易く、そして誰もがその意見に異を唱えることはありません。
しかし、公然とディランを否定した人物が一人います。それがジョニ・ミッチェルです。2010年にLAタイムスのインタヴューで「ボブは全く本物じゃない(not authentic)。彼は盗作野郎(plagiarist)だし、名前も声も偽物だ。ボブに関することは全て偽り(deception)だ。彼と私はまるで正反対だ」と話しています。
当然、この発言はいろいろと取り沙汰されることになるわけで、2013年にカナダ放送のインタビューでは、さらに「音楽的には彼はあまり才能がない。彼は声を昔のヒルビリー(hillbillies、田舎の人々に対する差別的な呼び名)から借りているし、彼はギターが上手いわけじゃない。歌を歌うためにキャラクターを作り出した」とまで発言しています。
ディランが、ある意味「労働者階級の星」であったウッディ・ガスリーの模倣から始まったことはおそらく事実ですし、自分から率先してギタープレイを聞かせることはありません。自らの内面をテーマに主観的な曲作りをするミッチェルと比べて、ディランはいろいろなものからヒントを得たり引用・流用したりすることは間違いありません。
確かにミッチェルは卓越したギター奏者であることは間違いなく、特に多彩なオープン・チューニングによる演奏は他の追随を許しません。とは言え、ディランもギター奏者としては一定水準以上のテクニックを持っていることはすでに証明されていると思います。
それぞれのファンからすれば、いろいろと思うところはあるのですが、少なくともミッチェルの発言によってディランの成し遂げてきた成果が否定されることはありませんでした。どこか感情論的な側面があり、少なくともミッチェルにとってプラスになる発言ではなかったように思います。
ジョニ・ミッチェルは1943年、カナダのアメリカとの国境のすぐ近くの町で生まれました。1965年に未婚のまま妊娠・出産するも、経済的な理由からこどもは養子に出してしまいます。これが、曲を作り歌う動機付けとなり、フォーク・シンガーとしてアメリカで自作曲を中心にしだいに知名度が上がっていきました。1968年にメジャー・デヴューしますが、その前から多くの曲が他のアーティストによってカバーされていました。
初期のフォーク期の名曲は多数ありますが、「サボテンの木」、「青春の光と影」、「サークル・ゲーム」などは日本でもヒットしました。特に「サークル・ゲーム」は1970年の映画「いちご白書」でバフィー・セント=マリーが歌ったものが挿入され、とても大きな話題となりました。
特に1971年の4枚目のアルバム「ブルー」は高い評価を得て、ミッチェルのアーティストとしての足場を固める作品となりました。以後は次第にバンド演奏が導入され、フォーク・ロックに変貌していった1975年、ボブ・ディランの「Rolling Thunder Revue」に参加することになりました。
その経緯がたいへんユニークです。ツアーが始まって2週間ほどした頃に、ミッチェルは飛び入りゲストとして登場したのですが、自由な和気あいあいとしたキャラバンを気に入り、そのままツアーバスに同乗して第1期終了まで参加してしまったのです。
この時は、ディランとミッチェルの関係は、互いに音楽的な敬意を払うようなものでしたが、ミッチェルはツアーの狂乱に流されまいと強く意識していたといいます。またディランとの関係を深めたかったミッチェルでしたが、ジョーン・バエズが間に割って入ることが多く不満を残す結果だったようです。
翌1976年にニュー・アルバムでジャズ・フュージョン系の多くのミュージシャンを登用して、ミッチェルは新しい領域を目指しました。特にこの時のジャコ・パストリアスとの出会いによって、ミッチェルは新たにジャズ期に突入し、話題作を連発することになりました。実は、この頃は自分はロックからジャズに好みが変わった頃なので、ミッチェルがジャズにしゃしゃり出てくるのは面白くなかった覚えがあります。
その後、順調にキャリアを重ねていくと思われましたが、1997年にかつて養子に出したこどもと再会したことで、音楽を創作していく意味を失ったミッチェルは急速に音楽活動を縮小していきます。そして2015年に脳出血で倒れてからは、ほぼ引退状態でしたが、2022年のニューポート・フォーク・フェスティバルにサプライズ出演したことは記憶に新しい話題です。
ディランとは音楽への向き合い方が対極にあったからこそ、ミッチェルから辛辣な言葉が生まれたのかもしれません。しかし、表現スタイルは大きく異なれど、二人がポピュラー音楽史に残した偉大な功績はこれからも色褪せることはありません。
