2008年4月12日土曜日

とーちゃん・かーちゃん・クリニック

あざみ野棒屋先生にいわれてしまいそうですが、うちもとーちゃん・かーちゃん・クリニックを爆進中なのであります。

今日はうちの長女がバイトスタッフデビューでした。4月から大学生になりまして、時間を作ってもらいました。これから時々クリニックを手伝ってもらいます。

それにしても、それなりのトレーニングを少しはしましたけれど、気が気じゃない。とはいえ、診察室中心のこっちと、リハビリ室中心のあっちでは、忙しい時間帯は逆なんです。

こっちがヒマなときはリハビリ室で、一緒に説明しながら患者さんとのトークを楽しむ余裕があります。しかし、診察の患者さんが立て込んでくると、もうアップアップでリハビリ室を気にする余裕はありません。

今日は、午前は最後の1時間に診察が集中し、こっちは過換気状態です。午後も終了前1時間に患者さんが立て込みました。こうなってくると、とてもリハビリ室で新米スタッフがどんな風に活躍しているかどころではありません。

特に午後はうちの社長が長男の学校の父兄会に出かけてしまったため、採血や点滴なども自分がしないといけないので大変です。幸い、なれている患者さんばかりだったので、逆にいろいろあーして、こーしてという具合に教えてもらえたようで、何とかこなしていました。

終わってからの感想は、「たいしたことないじゃん」とくれば、もう怖いものなしです。とにかくこれからも、ちょくちょく登場することになりますのでかわいがっていただければ幸いです。

2008年4月11日金曜日

大学助手生活 2回目

4年間、外の病院に出向していると大学に戻っても病棟などはほとんど知らないスタッフばかりになっています。大学の看護師さんは平均的には3年程度でやめてしまうそうです。病棟に行っても、まったく知らない病院にいるようなもので、これには困った。

何かを頼もうにも、何かとても雰囲気が固い。こりゃ、何とかしないと仕事がスムースには進まないぞ。どうしようかと思っていた、ちょうどその時、たまたま病棟で一人の看護師さんがマイクを向ける振りをして「ハイっ、どうぞ1曲お願いします」

あまりにとっさのことで、ついつい口から出てきたのは「カラスなぜ鳴くの、カラスは山に・・・」
周りにいた看護師さん達は、一瞬呆然としたようですが、次の瞬間爆笑。「なんだ、面白い奴じゃん」ということになって、やっと軽口が叩けるようになったというわけです。

それでわかったのは、同期の医者が「今度帰ってくる奴は、大変怖い奴で、とにかくちゃんとやらないとすぐに怒鳴り出すから気をつけるように」と触れ回っていたということだったんです。なるほど、どうりで固いはずです。でも、それからは雰囲気が和らいで、楽しく仕事ができるようになりました。

さて、出向している間に考えていた大学に戻ってやりたいことがあったわけですが、それは手関節鏡というものでした。関節鏡というのは関節の中をのぞける細い棒で、膝のような大きな関節に対しては普通に行われていました。

しかし、手関節に対しては、やっと学会で話題になり始めたところだったのです。自分が手の外科のいろいろを教わった先生は、主に末梢神経や腱が専門で、場所では肘を得意にしていました。手関節を中心にしている先生は、全国的にもまだ多くはありませんでした。

ということは、手関節でがんばれば少なくとも自分のいた大学では一番になれると考えたわけです。当時、手関節鏡をやっているところは大変少なく、自分の大学にはとにかく道具も無ければ、どうやっていいかもわかりません。そこで上の先生に1週間でもいいから、国内留学させて欲しいと頼んでみたのですが、即却下。

しかたがなく、手術室の倉庫に行って、何か使えそうな道具はないかあさることにしました。おや、こんなのがある。使えそうじゃん。おー、これもいいかも。ところが肝腎の関節鏡は膝関節用のものと、それより少し細めの足関節用のものしかない。

通常手関節用は太さが2mm程度で、とても膝関節や足関節用では太くて隙間に入りそうにありません。とはいっても、1本30万円くらいするものをおいそれと買ってもらえるわけもなく、しかたがなく足関節用のものを無理矢理使うことにしました。今だから正直に告白しますが、随分無茶なことをしたと思います。

外来で手首が痛いという人が来ると、それは蜘蛛の巣にかかった虫のようなものです。検査をして、手関節鏡の適応があるとわかると入院予約です。そんなこんなで、だんだんいろいろなことができるようになってきました。

もう一つ積極的に取り組んでいたのが腫瘍。整形外科で腫瘍と言えば骨肉腫です。主に10代前半のこどもに発生し、しかもよくて足を切断。高率に数年以内に死亡するという怖い病気です。それでも患肢温存という考え方が発達してきて、抗ガン剤を使った治療方法が広がってきました。

関節リウマチの治療薬に抗ガン剤であるメソトレキセートというのがあるのですが、リウマチの方には1週間で6mgを投与するのが標準ですが、骨肉腫の治療では1週間に10数グラムを使用します。この量は使った後に何もしなければ、まちがいなく次の週には患者さんは副作用で死んでいるという量なのです。

ですから、使う方も使われる方も大変です。もう、これは骨肉腫に勝つか負けるかの戦いなのです。とにかく毛は無くなるし、薬で吐き続けるし、楽なことは一つもありません。こどもにそれを理解させ、逃げ出さないようにすることは本当に大変なのです。

しかし、なぜか骨肉腫になってしまうこどもたちはとても素直でいい子ばかりなんです。みんな本当にがんばる。どうして、このような不幸を背負わなければならないのか、神様がいるなら恨みたくなるのです。

それでも抗ガン剤が効けばいいのですが、効かないために予定を繰り上げて患肢の切断手術をする時ほど情けないことはありませんでした。命を助けるためにしかたがないことだと思ってみても、整形外科医としては切断というのは敗北を意味します。最も最低の手術だと思っています。

そんなことをしているうちに2年間が過ぎ、また出向するようにいわれました。今度はすでに大学から人を数人出している一般病院の医長です。まぁ、人事は命令ですからしょうがありません。2回目の大学助手生活が終わることになりました。

2008年4月10日木曜日

迷走する五輪

自分は中国のチベット問題について意見を言えるほど勉強をしていません。ダライ・ラマ14世についても、テレビで報道されている以上のことは知りません。ただ、最近の聖火リレーのニュースはいろいろ考えるところがあります。

建前としてはオリンピックはスポーツの祭典であり、スポーツと政治を混同することはよくありません。しかし、スポーツはもともと戦争をシミュレートしたものであり、過去のオリンピックが国の威信を賭けたものであったことは誰にも否定できません。

当然、政治的な思惑が入り込むことは、当然のことだと思います。しかし、今回のチベット問題は基本的には中国の国内問題であり、どうしても抗議をしたい人は、直接的な中国への非難行動を取るべきなのではないかと思います。オリンピックを利用することは、方向性が違うのではないでしょうか。

今日もサンフランシスコでのリレーが、急遽予定を変更して、誰にも見えないところを走って、いつ終わったかもわからないように行われたというニュースがありました。なんなんでしょうか。

そんな聖火リレーにどんな意味があるんでしょうか。だったら、最初からアテネから中国に火を直送すればいいわけで、世界中をまわる必要はもともとありません。

ここで、見えてくるもう一つの問題は、オリンピックの商業化ということでしょう。オリンピックが大きな経済的効果があるから、各国は必死で招聘したがるわけで、もともと聖火リレーのショー化も大きな利益を得ている人がいるんでしょうね。

もともと開会式なども華やかでしたが、今のように一大イベントとなったのはいつからでしょうか。たぶん、ロサンジェルスからではないでしょうか。オリンピックがショーと化すに従って、真の実力は各種の競技のワールドカップで競われるようになってしまいました。ますます、スポーツ競技としてのオリンピックの価値が無くなっていることはまちがいありません。

今回の問題が、ますますオリンピックの価値の低下に火をそそぐことになるのでしょうか。純粋にスポーツとして参加する大多数の選手達の気持ちを考えると、今年の北京オリンピックが無事に開催されることを願ってやみません。

2008年4月9日水曜日

何で野球は国民的スポーツから陥落したのか

まぁ、そんな大袈裟なことではないのですが、まずスポーツに限らずレジャーの多様化ということでしょうかね。自分が子供の時は、はっきり言って野球しかありませんでした。こどもは誰もが黒い野球帽をかぶり、オレンジ色のYGのロゴがついていたのです。

昔は、東京に住んでいると、テレビやラジオの中継は巨人VSどっかしかやってません。8時54分で終了すると、急いでラジオに切り替えるのでした。さぁ、実物を見れると言うときでも、父親に連れて行ってもらえるのは後楽園球場か神宮球場です。後楽園はなかなかチケットが手には入れませんから、たいていは歩いても行ける神宮。

こどもの時に実際に見た試合といえば、巨人VSサンケイアトムズ(今のヤクルト)しかありません。当時は神宮球場は外野が芝生で、寝転がったりできました。ミットを持って行って父親とキャッチボールしながら観戦したこともあります。

当時のサンケイは、最下位の常連でエラーばかりで、はっきり言ってへたくそでした。クラスのほとんどの男の子は地域の野球チームに入っていました。

サッカー? ありましたよ。

今と違って実業団の地味なスポーツで、走り回っているだけで疲れるし、だいたい点が入らないので、見ていてもやっても面白くない。平成5年5月、出向していた病院でテレビを見ていて、まるでこのオリンピック開会式のような派手なパフォーマンスに驚いて見たのがJリーグの開幕でした。

そこからサッカーの爆進が始まりましたよね。プロ野球は気がついたときは、こどもの心から離れてしまいました。長島や王が少年雑誌の表紙を飾っていたのは過去のこと。自分も男の子ができたらキャッチボールをしたいなんていう、普通の夢がありましたが、いざそうなってみると、こどもはサッカーしか興味がありません。

野球のテレビ中継は縮少。良くも悪くも巨人という絶対的な球団があったのは過去のことで、いくら張本が「喝っ!!」と言っても、スター選手が大リーグにどんどん流出してしまうので、ますます貧弱な国内事情です。

さて今シーズン・・・終わりました。金本は今日こそは2000本安打を打ったのでしょうか、えっ? 出なかった、そうですか。まあ、いいでしょう。その程度の話題でつないでください。おっと中日、がんばってますね。完封負けでもいいじゃないですか、金本を抑えたんですから。まぁ、中日と阪神だけで今シーズンは続けてください。

お願い

最近、コメントに変なのがつくようになりました。
他の方のブログを見ていても、増えている感じですよね。
そこで、大変面倒ですが、確認入力をするようにしました。
申し訳ありませんが、かわらず楽しいコメントをいただけるように書き続けますので、ヨロシクお願いいたします。

2008年4月8日火曜日

医長生活

医者になって8年目になって、助手として出向した先は横浜新緑総合病院、当時は総合はついていませんでした。前年の平成4年4月から週に1回バイトで行っていました。もともと横浜緑病院という名前で、いわゆる老人病院だったのを平成3年10月から別の医療法人が買い取り、女子医科大学の外科教室が中心になったてこ入れを始めたのでした。

バイトで行っていたときは、他に2人のバイトの先生が慶応大学から来ていて、3人が1日おきに整形外科外来と手術をやっていたわけです。その間を取り持つお年を召した先生がいまして、この先生が入院患者さんのマネージメントと手術の手伝いをしてくれていたわけです。

でも、さすがに常勤がいないとなかなかはかどりません。さて、いわゆる一人医長ということで、常勤にはいったわけですが、初日に驚いた。これが整形外科の入院患者さん、つまりあなたの担当です、といわれて紹介されたのは50人をこえるお年寄り。まだ旧横浜緑病院時代の雰囲気が色濃く残り、救急をどんどんやりますという状態ではありませんでした。

これはしんどい。いくら「老人病院」的で患者さん一人あたりの仕事量が少ないとはいえ、外来・救急はどんどん急性期を受け入れていくという方針ですから。ふつうなら整形外科の場合、一人の医者が見れる入院患者数は10~20人です。しかもほとんど患者さんが亡くなることの少ない整形外科で、肺炎とかで毎月数人は亡くなるわけです。涙ちょちょぎれもんです。

バイトの時に非常勤整形外科の連絡を担当してくれていた先生は、手術だけは手伝ってくれるのですが、ただこれが問題。手術をしていると、「はぁ~、こうやって手術するんですかぁ。なるほどぉ~」という具合で、助手ではなくギャラリーになってしまうのです。年を取っている方なので、あーして、こーしてと命令するわけにもいかないので、ずいぶん困りました。

でも、こういう条件下での手術は鍛えられましたよ。あれがない、これがないは当たり前ですし、贅沢はいっていられません。とにかくあるもので何とかしなければいけません。さらにギャラリーに解説をしながら手術をしなければいけません。

とにかく、最初の1年間で200例くらいの手術をして、急性期の患者さん中心にだいたい30人くらいの入院患者数に整理されていきました。おかげで、次の年はもう一人人員を増やしてくれることになりました。

そういうわけで、平成6年4月に2年後輩が来ることになりました。これはもう鬼に金棒です。すでに出来上がっていますから、ほっといても問題がありませんので、仕事を分担してはかどります。手術件数も300件弱に伸びました。

平成7年4月からは、今度はもっと下の学年の後輩が出向してきたのですが、これがまいった。本人の名誉もあるので詳しくは書きませんが、とにかくほとんど教えないといけないのです。しかも、かなり意地っ張りの性格なのか、なかなか「はい」といってくれない。でも、仕事は減りませんから、自分の負担が急増。

そして、平成8年4月。今度は、とても熱心な後輩がやってきました。これは教え甲斐がある。自分でもどんどん勉強するし、患者さんへの対応もやさしい。病院職員との関係もうまくこなし、いうことなし。いろいろやらせても、どんどん覚えてくれるので、こっちも楽しい。しかし、残念なことに彼についてはすでに書いたとおりです。

一方、自分の方で、しだいに考えるようになりました。つまり出向して1年目は無我夢中、2年目は拡大して充実、3年目でやりたいことはだいたいやった、そして4年目は新しいことがほとんどありませんでした。だんだん知識を切り売りしているような感じがしてきたんですよね。そろそろ大学に戻ってさらに新しいことに挑戦したくなってきたのです。

いつまでも居心地の良い外の病院でぬくぬくしていてはいけないなぁ、思うようになり、次の年は大学に戻してくれるようにお願いしました。自分の専門性というものを考えて、やりたいことがいろいろあったのです。

2008年4月7日月曜日

鶏塩ラーメン

今日はラーメン。とはいっても、3食198円の麺たけ使います。単独の麺を買うより安上がりだし、スープの素はあとで他の中華風料理につかえます。

でもって、今夜の味は鶏塩です。お湯を沸かして、鶏むね肉をうすく切った物をいれて煮ます。本当はガラでしっかりスープをとりたいところですが、時間がないので鶏ガラスープの素を使ってしまいます。塩とニンニク、一味唐辛子、ごま油で味を調えます。

上にのせるトッピングは、煮卵、メンマ、万能ネギ、チャーシュー、水菜(生で使います)、ワンタンのかわりの余っていた餃子の皮、そして海苔といったところです。

鶏ガラベースはラーメンの基本ですよね。いろいろ濃いめの味が話題を呼ぶラーメン業界ですが、たまには基本を思い出してみると、意外にそのうまさにびっくり。特に水菜を煮ないで乗せるのは、なかなかいい感じです。満足度の高い自前ラーメンでした!!

2008年4月6日日曜日

大学助手生活 1回目

さてさて、3月の後半で昔話のシリーズとして自分の研修医時代(80年代)を振り返りましたが、その後はどうなったの? という質問はどこからもきません。来ませんが、勝手に話を進めることにします。

5年間の研修医が終わると、いったん退職し改めて助手採用試験を受けます。助手というのは大学の教職員の最低ランクの役職ですが、正職員であることがパート労働者の研修医とは根本的に違います。各教室の教授の直接の配下に入るところも、病院長の配下であった研修医とは違うところです。

まぁ、あまり形式はどうでもいいのですが、医学部というところと他の学部との大きな違いを説明しましょう。医学部には通常付属病院があって、ここでの診療を通して直接収益が出るのです。一般的には利益が出るお店を持っている学部・教室というのはありません。つまり。普通は大学の教室は研究と教育という二つの柱があるわけですが、医学部職員の場合はさらに診療という、ある意味もっと大きな柱が加わるのです。

基本的には診療が時間を制約する一番大きなポイントで、通常の勤務時間は診療だけでほとんど占められ、研究はそれ以外の時間を使うしかありません。教育は、当然診療時間の中から、何とか絞り出したところで行うことになります。

医学の情報量は前後に数百倍になっていると言われていますが、特にその増加のスピードは加速度的に増えているので、一人の人間がすべてをこなしていくことは基本的に無理になっています。専門的な部分で深く追求するか、全体的な部分を浅く広くこなしていくかという二つの選択肢が用意されていくことは必然といえるでしょう。

ちょっと説明が長くなってしまいましたが、当時の東海大の整形外科教授の基本方針は、「何でもこなせる整形外科医」になることでした。これは東海大学医学部の教育の基本方針である「名医より良医を」にも通じるところです。

ですから、助手になって、研修医を数人単位であずかってチームを作り入院してくる患者さんの主治医になっていきました。基本的にはチームの患者数が平均化するように振り分けされていたので、内容はいろいろ。

脊椎(首や腰)や骨盤、肩・肘・手といった上肢、股・膝・足といった下肢、なんでもありです。おかげで手術もなんでもやることができました。三次元的なセンスが要求される整形外科手術では、一度でも中を見たことがあるかないかは大変重要なポイントになります。

とはいっても、やはり大学にいるからにはある程度の専門性というものも無視はできません。たまたま症例が多かったので腫瘍についてだいぶ勉強することが多くなりましたが、それと同時に手の手術をすることが次第に増えてきました。

ただし、教授が専門性より広域性を重視している以上「自分は××が専門です」と表明するわけにはいきません。なんとなく手が多い、というような雰囲気のまま毎日をこなしていたのです。

ごく一般的な生活は、だいたい7時半くらいに病院に到着、病棟に行って自分の担当の患者さんを回診、チームで打ち合わせをしておきます。9時からは外来または病棟全体回診、あるいは手術ということになります。午後はたいてい手術室で過ごすことがほとんどで、週に1回くらいは自分のことをすることができます。夕方からはカンファレンスなどが無いときは回診して終了。当直でなければ7時くらいには帰れます。

他にもいろいろ雑用がありましたけど、標準的にはそんな生活。助手になって2年目に週に1日バイトで行っていた病院から常勤の整形外科医を出して欲しいという依頼があって、助手としての大学生活は2年間でいったん終了することになりました。

さて出向ということで、出向いていった病院とは? 話は次回へ続きます。

青山テルマ / Diary

たぶん今年のJPOP界で最も話題性の高い新人は(ジェロを除けば)青山テルマでしょう。

先日も渋谷の街頭でのプロモーションに普通のバスに乗って登場。集まった人たちはアルバムジャケットの写真のような白いヘッドフォンをみんな持っていたとか・・・

ちょっと黒人っぽい顔でソウル感ある歌い方、だけどわりと癒し系の声色で、今時の流行が嫌み無く詰め込まれている感じがしますね。

もともとSoulJaの「ここにいるよ」のラップの後ろでコーラス部のボーカルを担当していたわけで、ラップは遠距離恋愛をけっこう日本語的につぶやいているところが面白かったわけです。そこでコーラス部分をふくらませてアンサーソングとして「そばにいるね」を出したところ大ヒットになりました。めでたし、めでたし。

って、それだけでは終わりません。ヒップホップ系のDS455や田中ロウマ、さらにMAKAIといったアーティストにぞくぞくとfeaturingされ、どどど~んと大活躍。そしてついに1st Albumリリースという大お祭り騒ぎ状態になっているわけです。

SingleとしてはONE WAYとそばにいるねの2つしか出していない新人としては八面六臂の活躍といってよいと思いますが、逆にせっかくのいい感じの歌手なので、一気に燃え尽きないか心配。

いろいろ各人に事情があるのでしょうけど、この数年消えていった実力派シンガーが少なくありません。メディアは話題のところに一気に群がらないで、ゆっくり育ててもらいたいもんだと思います。

2008年4月5日土曜日

社会派ブログで疲労度アップ

4月1日に始まった後期高齢者医療制度については、都筑区ドクターブログでもたびたび話題に上っています。制度がスタートしてからフクダ総理の「名前を変えましょう」発言など、もうボロボロで、いったいどうしたいのか訳わからん状態です。

Dr.Mは昭和の日本医師会町武見太郎のような強い発言力の必要性を書いていました。もちろん、武見太郎氏については賛否両論あるでしょうし、医者だけが暴走してもしょうがないのですが、もう少し医師会としてのしっかりとした意見を表に出すべきであろうことは容易に感じることができるのです。

そういう意味で、今日のニュースの中で、茨城県医師会が都道府県レベルの医師会で初めて、制度撤回を求める声明を発表したということは、医者としては多いに注目すべきことだったのではないでしょうか。

今の政治に対して明らかなNOを突きつけることは、大変な勇気が必要だと思います。たぶん茨城県医師会内でも、いろいろな意見が出ていることと思います。

総理大臣の発言からして結局政治は始めに医療費を抑制ありきで、実際の国民のことを考えていないことは火を見るより明らかになっています。現場の患者としての国民の混乱などは、始めから予想されていたことで、実際に始まってからあたふたしている様子は何を今さらという感じです。

これからの高齢者が増加し続ける日本で、よりお金のかかる高度な医療を提供していくことを考えれば、より無駄を省くことは必要ですが、医療費はむしろ増やしていくことは必要最低限の政治サービスではないのでしょうか。国民に向いていない今の政治は、何に向いているのでしょうか。

そういうやり方に迎合するだけの医師会であれば、会を作っている目的の多くは無いも同然なのかもしれません。茨城県医師会の行動は、医師会の今のあり方に対して一つの問題提起として大きな意味があります。

ただの政治圧力団体であってはならないのですが、実際に地域の多くの健康維持事業に協力をしているからには、もっと医師会の存在を一般の方に知ってもらい、医療を良い方向に持って行くための行動を取ってもらいたい物だと思ってしまいます。自分たちも明日の高齢者なのです。

あざみ野棒屋先生もいうように、こういう政治ネタは落としどころが難しいので、あまりくどくど書きたくないという気持ちもあるのですが、まじめにやればやるほど苦しい今の医療って、一体何? という本音をどこかで出さないと息がつまりそうです。

2008年4月4日金曜日

鶏ネック鍋

いつものお肉屋さん・・・青葉区すすき野の某所・・・で鶏ネック(118円/100g)を大量に買い込みました。と、いっても残っているの全部でいいや、と言って1.2kgほど。

ネックというのは、もちろん首の肉。よーく動くところなんで、筋肉がしっかりしていて歯ごたえがいい。味も濃い。ちょっと塩を振って炭火で焼くと最高なんですが、今夜は違います。

鍋です。冬への決別を込めて、そして長女の大学生活ゼロ日目を記念して、というわけで鶏ネック鍋なのです。他に入れる物は、絶対にはずせないのがニラともやし。

今回はあとは椎茸、豆腐、水菜、うどん。とにかくネックから味がでるので最高に旨い。味付けは白だしだけです。500mlで300円程度で売っていますけど、ちょっと待った!! ネック以外はほとんど金がかかっていないので、白だしだけは贅沢しましょう。

萬藤の白だしです。1000円/900mlくらいです。やはり安い物とは格がが違います。ちょろちょろ出てくる箸をはじいて、やや鍋としては長めに煮込んで味を染みこませましょう。翌朝雑炊にしようなんてことは不可能なくらい、汁まで無くなってしまいます。

う~、食った、食ったぁ。

2008年4月3日木曜日

家族の会話

その1

長男がどこからかおみやげで沖縄名物のちんすこうをいただいてきました。ちんすこうは金楚糕と書きます。小麦粉と砂糖以外にラードが入っているのが特徴で、濃厚な味は愛好家にはたまらないようです。

母「ちんすこう好き!!」
長女・長男「ちんすこうだ」
父「うーん、あまり好きじゃないんだよね」
次男「ちんすこう・・・って食べ物なの?」
全員「????」
次男「中国の川じゃないの?」
全員「それは揚子江(ようすこう)だぁ!!」

その2

ノンちゃん雲に乗るの作者の石井桃子さんが亡くなりました。誰もがお世話になった童話ですよね。
次男「漫画家の石井ひさいちはノンちゃんのモデルなんだってよ」
父「えーっ、石井ひさいちは石井桃子さんの息子なんか?」
次男「だって新聞の漫画に書いているじゃん」
全員「それはののちゃんだぁ!!(朝日新聞)」

2008年4月2日水曜日

センター南宣伝だぁ!!

都筑区に続々とできるショッピングビルはどれをとっても同じ、金太郎飴の街という評判もちらほら。さて、われらが期待のコーナンのビルが開店して1ヶ月、全館が揃いました。

ちなみに事情を知らない人のために、ちょっとだけ解説をすると、自分のクリニックのあるベルヴィル茅ヶ崎ビルというのは、横浜市営地下鉄のセンター南駅北側のバスロータリーに面しているわけで、地の利はいいはずなんですが、これまでは港北東急のある南側への人の流れが中心で、北側はいまいちだったわけです。ビルのすぐ後ろ側にできたホームセンターコーナンのビルは北側に人の流れを作るエースとして期待が大きかったわけです。

さらに3月30日に市営地下鉄グリーンラインが開業したことで、センター南は緑区の中山、青葉区のあざみ野、港北区の日吉、そして横浜の4方向への乗り換え拠点となったわけです。

コーナンのビルの特徴は、なにしろ日常的な店がそろっていることでしょう。ららぽーと横浜、ノースポートモール、minamoなど次々と出来たショッピングモールはいずれも、ブランド性の高いモダンな店を取りそろえ毎日でかけるようなものとはちょっと違います。

コーナンはいわゆる日常雑貨、エディオンは家電、西松屋は赤ちゃんグッズ、ジャックは安いカジュアルファッション(キングサイズあり)、洋服の青山は通勤服、スポーツオーソリティはちょっとしたスポーツ用品という具合です。はっきり言って「かっこいい」お店はありません。そのかわり敷居は低く、普通に毎日でかけやすい店が揃っているというのが特徴でしょう。本当はこれにスーパーがあれは鬼に金棒だったんですけど、残念ながらはいりませんでした。

でも贅沢は言いますまい。今まで、ビルの裏の道は昼間でもほとんど人通りはありませんでした。それが、今ではわさわさと人が歩いているのです。我々センター南医療ヴィレッジとしては、これほど嬉しいことはありません。

さらにコーナンのフードコートの丸亀製麺のうどんと港北食堂の定食は昼ご飯に最適。なんだかんだ言って、自分と社長でこの1ヶ月間に10回近く利用させていただきました。さらに小さなつくりですが、本屋さんがオープンしたので、ちょっと雑誌程度はわざわざ港北東急のほうまで行かなくてもすむようになりました。

4月になって新たに都筑区にお出でになった皆さんにも、うちのクリニックが目にとまる可能性が増えたのではないでしょうか。今日もうどんを昼に食べましたが、少なくともフードコートは満席に近い状態で、おもわず食べている人たちに声を出さずに「よろしくお願いいたします」と念じてしまったわけです。

2008年4月1日火曜日

4月1日

・・・はエイプリル・フール。嘘を言っても許される日。とはいっても、節度のある、ユーモアたっぷりの嘘でないと、後に遺恨を残します。でも、実際気のきいたジョークは難しい物で、なかなか思いつきません。

それに4月1日は人が動いて初日であることが多いので、いきなり冗談を言う余裕は無いのであります。都筑区でブログをせっせと書いている四人衆。今朝はだれか一人は思いっきり冗談を書いてくれるかと思いきや、Dr.MもDr.Flickerも現代の医療問題に嘆き、あざみ野棒屋先生は過去に悔いたような内容です。

それにしても、この三人は朝アップ組なんですが、Dr.FlickerはAM5:50頃、Dr.MはAM6:05頃、棒屋先生はAM6:30頃ですよ。ということは何時に起きて書いているんでしょうか。自分も朝は強い方ですけど、時間制限のある朝にはあまり書きたくないのです。今朝も必死にエイプリル・フールのジョークを考えてみたのですが、やはり思いつきません。

特に今朝は、今日から変更になった診療報酬改訂通りに電子カルテが動くか心配でした。そして、ここからはちょっと暗い話になります。

出向していた病院で医長を四年間やって、その最後の年。自分にとっては、手取り足取り自分のわかることを可能に限り伝えてきた仲間がいました。4月1日からは自分は大学に戻るし、その後輩もやはり大学に戻ることになっていました。3月31日に最後の回診、そして、明日は大学で会おうといって別れました。

翌日、大学に行くと、気心の知れた仲間と朝からいろいろ歓談。こんなとこが変わったよ、とかいろいろ話をしていたのですが、昨日まで一緒だった彼が来ない。同級生が電話をしても出ないし、無断で休むようなやつではないことは誰もが知っています。そこで彼女に連絡して見に行ってもらいました。そしたら・・・奴は死んでいました。いわゆる突然死です。原因はわかりませんでした。

そんなことってあるかい。そりゃないでしょう。これからいくらでも人を助けることができたやつなんですよ。とても良い奴で、自分にとっても本当にいろいろ教え込んだつもりの仲間だったんです。それ以前も、それ以降もマンツーマンで1年間みっちり過ごした後輩はいません。自分の分身のようなものだったと思います。

いろいろ働かせすぎたのかもしれないと悩んだりもしましたが、彼がやった手術のリストを作って、ご両親に差し上げました。こんなにいろいろな手術をやったんですよ。こんなに医者らしくなったんですよ。そう伝えたかったんです。ですから、もう10年以上になりますが、いまだに4月1日は冗談は言えません。

暗い話ですみません。