2008年4月8日火曜日

医長生活

医者になって8年目になって、助手として出向した先は横浜新緑総合病院、当時は総合はついていませんでした。前年の平成4年4月から週に1回バイトで行っていました。もともと横浜緑病院という名前で、いわゆる老人病院だったのを平成3年10月から別の医療法人が買い取り、女子医科大学の外科教室が中心になったてこ入れを始めたのでした。

バイトで行っていたときは、他に2人のバイトの先生が慶応大学から来ていて、3人が1日おきに整形外科外来と手術をやっていたわけです。その間を取り持つお年を召した先生がいまして、この先生が入院患者さんのマネージメントと手術の手伝いをしてくれていたわけです。

でも、さすがに常勤がいないとなかなかはかどりません。さて、いわゆる一人医長ということで、常勤にはいったわけですが、初日に驚いた。これが整形外科の入院患者さん、つまりあなたの担当です、といわれて紹介されたのは50人をこえるお年寄り。まだ旧横浜緑病院時代の雰囲気が色濃く残り、救急をどんどんやりますという状態ではありませんでした。

これはしんどい。いくら「老人病院」的で患者さん一人あたりの仕事量が少ないとはいえ、外来・救急はどんどん急性期を受け入れていくという方針ですから。ふつうなら整形外科の場合、一人の医者が見れる入院患者数は10~20人です。しかもほとんど患者さんが亡くなることの少ない整形外科で、肺炎とかで毎月数人は亡くなるわけです。涙ちょちょぎれもんです。

バイトの時に非常勤整形外科の連絡を担当してくれていた先生は、手術だけは手伝ってくれるのですが、ただこれが問題。手術をしていると、「はぁ~、こうやって手術するんですかぁ。なるほどぉ~」という具合で、助手ではなくギャラリーになってしまうのです。年を取っている方なので、あーして、こーしてと命令するわけにもいかないので、ずいぶん困りました。

でも、こういう条件下での手術は鍛えられましたよ。あれがない、これがないは当たり前ですし、贅沢はいっていられません。とにかくあるもので何とかしなければいけません。さらにギャラリーに解説をしながら手術をしなければいけません。

とにかく、最初の1年間で200例くらいの手術をして、急性期の患者さん中心にだいたい30人くらいの入院患者数に整理されていきました。おかげで、次の年はもう一人人員を増やしてくれることになりました。

そういうわけで、平成6年4月に2年後輩が来ることになりました。これはもう鬼に金棒です。すでに出来上がっていますから、ほっといても問題がありませんので、仕事を分担してはかどります。手術件数も300件弱に伸びました。

平成7年4月からは、今度はもっと下の学年の後輩が出向してきたのですが、これがまいった。本人の名誉もあるので詳しくは書きませんが、とにかくほとんど教えないといけないのです。しかも、かなり意地っ張りの性格なのか、なかなか「はい」といってくれない。でも、仕事は減りませんから、自分の負担が急増。

そして、平成8年4月。今度は、とても熱心な後輩がやってきました。これは教え甲斐がある。自分でもどんどん勉強するし、患者さんへの対応もやさしい。病院職員との関係もうまくこなし、いうことなし。いろいろやらせても、どんどん覚えてくれるので、こっちも楽しい。しかし、残念なことに彼についてはすでに書いたとおりです。

一方、自分の方で、しだいに考えるようになりました。つまり出向して1年目は無我夢中、2年目は拡大して充実、3年目でやりたいことはだいたいやった、そして4年目は新しいことがほとんどありませんでした。だんだん知識を切り売りしているような感じがしてきたんですよね。そろそろ大学に戻ってさらに新しいことに挑戦したくなってきたのです。

いつまでも居心地の良い外の病院でぬくぬくしていてはいけないなぁ、思うようになり、次の年は大学に戻してくれるようにお願いしました。自分の専門性というものを考えて、やりたいことがいろいろあったのです。