2008年4月29日火曜日

内科小児科 宗定医院

昭和34年に渋谷区南青山、青山通りを挟んで青山学院大学の正門のはす向かいにそういう名前の診療所がありました。当時は青葉町と言っていたと思います。借家で、大家さんは隣の家の方だったと思います。確か平屋だったのではないでしょうか。

青山通りには都電が走っていた頃です。渋谷川という「どぶ川」が渋谷駅の近くに流れていて(今は、上をふさいで遊歩道と称しています)、駅のところには東横デパートがあり、なぜかロープウェイがありました。デパートの屋上は遊園地、いろいろな乗り物があって楽しく過ごせます。お腹がすいたら、屋上の1階下には大食堂があり、ここでお子様ランチを食べるのです。

確かその頃は少年マガジンが50円くらいで、厚さは1cm以下でした。「黒い秘密兵器」「サブマリン707」「伊賀の忍者影丸」などが人気だったように思います。そして、少年月刊誌といえば、鉄人28号と鉄腕アトムを擁した「少年」の一人勝ちでした。「冒険王」とか「ぼくら」なんていうのもありました。

5大付録付きなんていうのが、必ず毎月ついていて、探偵セットとか忍者セット、人気キャラのペーパークラフトなどが楽しくてしょうがない。話がどんどん三丁目の夕日状態ですが、宗定医院に戻りましょう。

九州から出てきた若い医者が院長です。まだ34才。なんで、いきなり東京に出てきたんでしょうかね。院長の未亡人によると、どうもこどもの教育のためらしい。そりゃ、こどもとしては責任重大ですね。それから数年して、東京オリンピックの年に、そこから原宿側に数百メートルほど離れた場所に家を買いました。表参道まですぐの場所です。

その頃は、参道ですから静かなもんです。明治通りとの交差点付近に多少はビルがありましたが、平屋か2階建てくらいのお店が数えるくらいしかありません。GAPのところはセントラル・アパート、ロッテリアのところの八角ビルの前は八角館という2階建ての焼き肉屋さんでした。その隣は自転車屋さん、その隣は薬屋さん、その隣は・・・駄菓子屋さんもあって、やさしいおばあさんが店番をしていました。

平屋建ての宗定医院は、たぶん順調だったんでしょう。数年後には、建て直しをしました。とはいえ、診療を休むわけにはいかないので、家の半分を壊して、半分作って、出来上がったらそっちで診療を行いながら、残りを立て直すというかなり強引な方法だったと思います。

院長の両親は杉並区の高井戸に住んでいましたが、父親の具合が悪くなってきたようで、立て直してから両親を呼び寄せて同居しました。でも、数年後に父親が亡くなり、さらに数年後に母親も亡くなりました。二人とも、自宅で自分で看取ったのです。まぁ、医者だからできたようなもので、今では考えられませんよね。

母親の時は、倒れてから長かったので、家族、特に院長夫人は看病で相当大変だったようです。院長は自分が死ぬときは、少しだけ家族に看病させてからすぐに死ぬのがいいと言っていました。

それからは、多少息子が大学浪人をしたりはしましたが、渋谷区の医師会でも理事をやったりして、それなりにいい仕事をしたみたいです。ただ、自宅で診療所をやっているので、ずっと家にいるのと息がつまってしまうのか、夜になるといつもいなくなってしまいました。遅くに寿司折りや焼き鳥をぶら下げて帰ってくることが度々ありました。

幸い息子が医者になれたのですが、その息子は整形外科をやりたいと言い出します。院長はたぶん診療所を継いでくれることを期待していたでしょう。でも、その頃になると原宿はどんどん若者の街として栄え、住民はどんどんいなくなっていたのです。いくら継ぎたくても患者さんがいなくてはしょうがないので、院長は好きにして良いよと言っていました。

息子は整形外科医としてキャリアを積み、病院の医長なんかもやって医者らしくなった頃に、院長は倒れました。手足がうまく効かないようで、明らかに脳血管障害でした。でも自分で何とかすると言って聞きません。1週間位して、いよいよ自分でトイレにいけなくなり、院長夫人から息子にSOSが来ました。

息子は夜中に自分の大学の病院へ院長を運びました。CT検査で脳幹部硬塞というもっとも重篤な状態で、心不全も併発していたのでした。そして数日後に息を引き取りました。しっかり家族に看病をさせて、家族が疲れる前にさっと幕を引いてしまったのです。なかなか、いい人生だったのではないかと思います。

宗定医院は40年くらいの歴史を刻んで閉院しましたが、ちょっと名前は変わっているかもしれませんが、横浜のどこかで息子が心を引き継いでいるはずです。