2009年1月7日水曜日

Glenn Gould / Well-tempered Claviere

ピアニストにとって・・・もちろん、自分はピアニストじゃ、ありませんが、ベートーヴェンの32のピアノソナタは「新約聖書」。そして、J.S.バッハの平均律クラーヴィア全2巻が「旧約聖書」に例えられるわけです。

ベートーヴェンについては、すでに何度か書いていますので、今回はバッハの話。

平均律というのは音程の決め方。例えばドからはじめて、れ・ミ・ファ・ソ・ラ・シときて次のドまでを1オクターブというわけですが、この1オクターブの周波数を12等分したものが平均律。

すべての音程の変化が均等なので、調が変わったりしても均等な音程を確保できるわけです。しかし、ハンパがでてしまうので、すっきりと割り切った比率にはならない。

音程の周波数の比率がきれいな数字に収まるほど和音がきれいに共鳴するので、そのようにしたものが純正律(違っていたら、だれか指摘してください)。この場合、音は美しく響きますが、転調したりすると比率の関係がずれてしまうわけです。

バッハは半音ずつ調をずらした鍵盤曲集を作曲したわけで、どんどん弾きこなしていくためには、楽器の調律が平均律である必要があるわけです。クラーヴィアは鍵盤楽器のことで、バッハの時代であればチェンバロかオルガンということになります。

チェンバロは弦を引っ掻いて音をだします。オルガンは空気を振動させて演奏します。いずれも、強弱をつけるには不利な楽器。テンポの変化と、いろいろな装飾音を追加することでいろいろな曲調を表現していくわけです。

現代のピアノは弦をハンマーで叩くので強弱をつけることができ、響きの程度をペダルで調節することができるわけです。そのくらいの知識の整理をした上で、あらためていろいろな奏者の演奏を聴いてみました。

さて、フリードリッヒ・グルダからいきましょう。これは、ジャズの世界にも手を出して、クラシックファンからはいろいろ物議をかもしたグルダらしい演奏。ピアノ独奏ですが、うしろで甘いストリングスが伴奏をしているかのような雰囲気があります。パーシー・フェイスやレイモンド・ルフェーブルのようなスタイル、あるいはリチャード・クレイダーマン。曲の中でも、かなりテンポを意識的に可変的に操っているようです。それがポップス的な楽しさを出しているので、自分は嫌いじゃありませんが、こちこちのクラシックファンには受け入れられないようです。

さて、ロザリン・チュレックの演奏は、ある意味教科書的。たぶん、楽譜に書かれた一つ一つの音を正確に再現しているのではないかと思います。堅実ですが、面白みにはかける。

アンドラース・シフもピアノでのバッハ弾きの成功者とされていていますが、シフの平均律はつまらない(激!)。きびきびした演奏ですが、一本調子さはにぐえません。

タチアナ・ニコラーエワはロシアの女流で、ショスタコービッチのピアノ曲の演奏が有名です。大変に気持ちが安らぐ、落ち着いた演奏で、最初に聴くのにもオススメの一品です。

ウラジミール・アシュケナージはやはりロマン派ムード族のピアニストです。和音が使われない、対位法のバロックは向いていません。美しい和音を響かせるショパン(か、ぎりぎりシューマン)に特化した演奏家じゃないでしょうか。

スヴァトスラフ・リヒテルの演奏はHMVでもベストセラーの名盤といわれていますか、自分は風呂場で演奏しているような過度の残響でもうダメです。音符が団子になって、バッハの本来の味を聞き取ることができません。

あくまでも作曲家の時代の音にこだわる古学派の代表がグスタフ・レオンハルト。もちろんチェンバロでの演奏は、おそらく最も評価された一枚と言えるかも知れません。

そして、最後がグレン・グールド。もう、ピアノによるバッハ演奏については、もう何もいうことはありません。グールドがいなければ、これほどにピアノでバッハが弾かれることは無かったはずです。ペダルをほとんど使わず、指の押さえ方だけで音の響きをコントロールしていき、一つ一つの音符を際立たせた演奏は誰にも真似のできるものではありません。

と、いうわけで、名のあるピアニストなら、たいてい録音があるので聞き比べていたらきりがありません。ピアノで聴くなら、絶対のオススメはグールド。バッハにこだわらず、聴いて楽しいのならグルダ。チェンバロならレオンハルトにつきるというところでしょうか。