2014年10月5日日曜日

三位一体節後第16主日


バッハの時代の宗教観からすれば、教会で演奏する曲というのは、音楽としては最も気高いものであったでしょう。バッハが生涯を通じてこだわった「整った教会音楽」を用意することは、強い宗教的信念があってできる、大変根気がいる苦労の多い作業だと思います。
 
ですから、バッハのパロディ技法を考えるときに、大原則となるのは世俗曲から宗教曲へのパロディは、曲の価値を高めることになるということです。逆に宗教曲を世俗曲に改編することは、曲の価値、さらには信仰を見下す行為であっただろうということです。
 
ただし、バッハは確かに敬虔なプロテスタントであったことは間違いないのですが、音楽家として自分の作品をしっかり残すことも、重要な課題としていた部分も否定できません。

つまり、整った教会音楽であれば再演の機会に恵まれ、せっかく作った音楽はずっと生き続けることになります。音楽を記録して、簡単に再生するような技術がなかった時代ですから、音楽家としての名声を確立するためには、再演されることは重要です。

世俗カンタータは、そのほとんどは一定の目的のために作られたもので、基本的には再演されることはなく、かけ捨てでおわってしまうものです。それらの音楽の中から、バッハが後に教会カンタータへパロディとして取り入れる行為は、曲の価値を継続させることにつながりました。

世俗から宗教へパロディとして取り入れることは、より高めることであり、宗教的にも音楽的にも合理的なものでしたが、実は逆の例外も見つかっています。

宗教から世俗という、特殊な例外は教会カンタータの中には数例指摘されていて、このことから宗教家としての葛藤はあったかもしれませんが、バッハは音楽家としての立場を優先することを決断することもあったということです。

世俗曲は通常依頼主がいて、その報酬はバッハの教会からの少ない給料を補うことに大変役に立っていました。ですから、バッハは世俗曲に対しても、依頼者の希望に沿ってオリジナルに力を入れたことは間違いありません。

世俗曲にパロディがほとんど無いというのは、そういう現実的な事情もあったと考えられています。時には、バッハをより人間的に考えることも重要なんだろうということでしょうか。

さて、三位一体節後第16主日です。4つのカンタータが残っています。

BWV161 来たれ、汝甘き死の時よ (1716)
BWV95 キリストこそ わが生命(1723)
BWV8 いと尊き御神よ、いつわれは死なん (1724)
BWV27 たれぞ知らん、わが終りの近づけるを (1726)

これらは、単独で収録されたCDはなさそうで、全集録音でのみ聴けるもの。比較的、地味な存在ということになります。

いずれも、瞬間的にはいいのですが、全体を通すとおとなしくて印象が薄い。タイトルは、「死」に関連したもので、派手さはない。
楽器の中では、リコーダーの活躍が目立ちますが、これが天上の世界の雰囲気を醸し出しています。