2017年10月21日土曜日

日本古代史を学びなおす


昨年、建国記念日をあらためて考えてみたら、日本人として日本の国はそもそもどうやって成立してきたのか興味を持ちました。

「自分探し」というのは、しばしば話題になるテーマですが、当然すべての日本人の原点を突き詰めていけば、すべて同じ方向に向かっていくはずですから、日本の古代史は究極の自分探しであると言えます。

その流れがあって、昨年は伊勢神宮、今年は出雲大社に出かけてみた・・・と言うと大袈裟ですが、現代に残る歴史に埋もれた場所に実際行ってみると、その場所の空気感みたいなものがあって、その意味を知りたくなるというのは自然の成り行きです。

本来は、行く前にしっかりと勉強して行けば、より意味深い旅ができるのですが、行ってみて初めて何を知るべきなのかわかるところが多い。
ですから、もう一度勉強をし直してから、もう一度訪問した時は得るものも多くなると思います。

日本の古代史のスタートとして、基本的な文献として認知されているのは古事記・日本書紀です。この二つの書をまとめて記紀と呼ぶようですが、いずれも天武天皇(第40代、在位673年~686年)のアイデアで編纂が始まったことが知られています。

古事記は成立が712年、日本書紀は720年に成立していて、自分の印象としては古代史を語るにはわりと新しいと感じます。

もっとも、文字があって初めて歴史が記録されていくわけで、日本に文字が普及しはじめたのは5世紀頃といわれていますので、記紀の成立は遅れること数百年は長すぎないかということです。

あ~、ここで昔々高校で習った歴史を思い出すことになります。

622年、聖徳太子が無くなると蘇我氏は増長します。天皇さえ凌駕する勢いのため、645年に中大兄皇子(後の天智天皇)、中臣鎌足(後の藤原鎌足)らによって蘇我入鹿が暗殺されるクーデターが乙巳(おっし)の変。

この時に、入鹿の父親の蘇我蝦夷は邸宅に火を放ち自害するのですが、それまでの朝廷の歴史書を保管する書庫も同時に焼け落ちてしまいました。

焼失した多く歴史を記載した書物を暗記していた稗田阿礼(ひえだあれ)の語りをもとに太安万侶(おおのやすまろ)が編集し、日本人向けに刊行されたのが古事記であり、一方対外的な国史書として作られたのが日本書紀です。

なるほど。だから、成立時期が新しいわけです。しかも、歴史は勝者の記録ですから、伝承の上に都合の良い創作も加わり、さらに一人の記憶に頼って再編集という作業の結果、たくさんの謎が生まれることになりました。

古事記全三巻の中で、特に面白いのが初めの神話部分。そのまま読めば、ほとんどファンタジーの世界で、しかもかなりエロっぽい話がてんこもり。

しかし、まったく無からの創作というのは、かえって難しく、それらのエピソードの元となる事実は何かしらあった可能性は否定できません。歴史的には旧石器時代~縄文時代~弥生時代前半あたりのことでしょうか。

また記紀を通して、ほぼ抜け落ちているのが欠史八代と呼ばれる初代の神武天皇後の第2~第9代天皇の時代。これらの8人の天皇については、名前の記載はあっても実質的な内容が無く、実在そのものについても諸説が混沌としています。

弥生時代後期を中心とした西暦で1~5世紀くらいにあたる時期だろうと思いますが、実はこの時期に外国の資料から実在したと考えられているのが3世紀ごろの卑弥呼で有名な邪馬台国。

おそらく各地方にあった強権勢力の一つですが、記紀にはまったく出てこないため、謎は謎を呼ぶ存在です。

古墳時代に群雄割拠した勢力の中から、4世紀以降にヤマト王権が飛びぬけて日本を統一していくのが飛鳥時代であり、日本という国名が使われ始めるのは701年の大宝律令以後でここから奈良時代。

というわけで、この辺りまでの歴史が知的好奇心を大いにくすぐるわけです。特にファンタジー色濃厚な神代の世界を学びなおすことは、事実を確認する資料がほぼ無いために、大いにロマンがあるところ。

そして、これらの摩訶不思議な世界と現代をつなぐことができるのが神社です。神話の中の八百万の神々を祀り、それぞれの由来を知ることは古代史に秘められたミステリーを紐解くきっかけになりそうです。

最近は御朱印集めという、ちよっとしたブームがあって、神社仏閣で参拝した記録となる「スタンプラリー」みたいなもので、パワースポット巡りという側面もあります。

いろいろな神社を訪れてみるモチベーションになりますから、合わせて楽しみながら御朱印をこつこつと集めてみるのは良い方法だと思います。