2021年5月14日金曜日

ヒトラー ~最後の12日間~ (2004)

第二次世界大戦におけるヨーロッパの情勢を振り返ってみると、結局、アドルフ・ヒトラーという人物に集約されます。たった一人によって、ドイツという国が異常な方向に向かってしまったことは疑いようがない。ヒトラーを狂人として扱うことは簡単ですが、彼を前面に押し出して、さらに独断専行を許した多くの国民の総意があったことも間違いはありません。

ヒトラー自身は言うに及ばず、ドイツの国としての破滅がすべてを物語っているわけで、それがあまりにも大きな過ちだったことは歴史が証明しています。しかし、ヒトラーといえども一人の人間ですから、何故彼をここまで狂気に走らせたのかは総括されるべきものだと思います。

当然、それらを論ずる本はこれまでにたくさんあるわけで、ここで自分があえて述べるまでもありません。ただ、その生い立ちについて簡単に整理してみます。

アドルフ・ヒトラーは、オーストリアのブラウナウ・アム・インにて1889年4月20日に生まれました。ブラウナウ・アム・インは、リンツの西80km、ザルツブルクの北60km、ドイツとの国境沿いの町です。

ハプスブルク君主国を絶対視する強権的な父親のもと、1899年に日本でいう小学校を卒業しますが、すでに父親との対立や学校での問題行動があり「手を焼く」こどもであったようです。1903年に父親が脳溢血で急逝しますが、無理やり入れられた「中学校」も留年を繰り返し退学。正式な最終学歴は小学校止まりです。

父親への対抗心から、この頃にヒトラーは各君主国やオーストリアを含めて全体を統一する「大ドイツ主義」への傾倒が始まったようです。1907年、画家になることを目指してウィーンに出て美術アカデミーを受験しますが失敗。12月に、理解者とは言えないにしても唯一の味方だった母が乳癌で亡くなり、ヒトラー自身その時以来泣いたことがないと語っています。

父母の遺産などで食いつないでいたヒトラーは、この後数年は画家として暮らしたようですが、ますます民族主義的な思想を強めていった時期になりました。しかし1913年、徴兵されることを避けるため、隣国ドイツのミュンヘンに移住します。しかし、1918年1月に逮捕され送還されますが、結局適性検査で不合格になり兵役免除になっています。

にもかかわらず、8月に第一次世界大戦がはじまると、バイエルン王国の義勇兵として主として伝令任務にあたり多くの勲功を上げていますが、階級は「伍長(ゲフライター)」止まりで、部下を持つそれ以上の階級は無理と判断されていた節があります。

1919年大戦終結後、ヒトラーは政界に転身するとドイツ労働者党に入党、あっという間に力をつけ、1920年2月24日、国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP、ナチ党)に改名し実権を握りました。1923年11月8日、ナチ党を含むドイツ闘争連盟を率いて、ベルリン進軍を意図した「ミュンヘン一揆」事件を引き起こしますが失敗し逮捕されています。

裁判を経て5年間の禁固刑になるものの、ヒトラーの裁判を通した演説は「失われたドイツ国民の自信を回復させるもの」として各方面から支持が広がり8カ月で釈放、1925年2月にはナチ党を再建しています。1928年5月、初めて国会議員選挙に臨みますが、この時は12人の当選させるにとどまりました。

しかし、1929年、世界中に広がった世界大恐慌が事態を一変させます。ドイツ国内の不安をうまく利用してのし上がったヒトラーは、1932年大統領選挙に立候補します。現職ヒンデンブルグに次ぐ票を獲得し、政界内での無視できない勢力となったナチ党は同年の国会議員選挙では230議席で第一党に躍進するのです。

1933年1月、ヒトラーは首相に就任。2月に共産主義者による国会議事堂放火事件が発生し、ヒトラーは強権を得て共産党などをおさえこみます。8月にヒンデンブルク大統領死去により、ほぼすべての権限を手中にしたヒトラーは、その年の末までに独裁体制を完成させます。

こうやって、ヒトラーの生い立ちを追いかけてみると、父親により抑圧されたこども時代が父親への対抗心を越えて、自分を認めない社会全体への不信感みたいなものを培ったことがわかります。基本的に他人を信じることができず、保身のためにはいくらでも嘘をつくことをためらいません。歪んだ自分の正義がすべてで、おそらく主観的な見方しかできない人物です。

そして、ちょうどカリスマ的な指導者を求める時代の潮流が一致してしまったことは、ドイツ国民のみならず世界中の不幸だったのかもしれません。多少胡散臭い話でも、強力に物事を遂行すると思わせる演説のうまさも、ヒトラーの大きな力になりました。

しかし、歴史が証明したように独裁政治、しかも周囲諸国に侵略を広げる手法が長続きするはずがありません。特に、ナチス・ドイツは占領地を治めるのではなく、抑えつけることしかしなかったために、それぞれの場所に対抗分子を生み出すだけでした。あくまで最優秀たる自民族の生存のためだけの目的であり、あえて言えばそれはヒトラーの個人的な野望でしかなかった。

この映画は、ソビエト軍がベルリンに迫り、敗北は誰の目にも確定的となった1945年4月半ばからのヒトラーの動静を秘書の回顧録から描くドイツ製作の映画です。映画の原題は「Der Untergang (失脚)」で、冒頭と最後ににヒトラーの個人秘書官だったトラウドゥル・ユンゲ本人の後悔の証言が挿入されています。

ヒトラー(ブルーノ・ガンツ)は迫りくるソビエト軍の攻撃で、退避を要請する部下たちに耳をかさずにいました。また、ほとんどの部隊が壊滅状態にも関わらず、ベルリンが最前線であり、「戦時に市民など存在しない」と言い放ち、残存兵力を集めるように指示します。

4月20日総統官邸では、ヒトラーの誕生日を祝う宴会が催されました。ヒトラーの長年の愛人エヴァ・ブラウンを筆頭に大騒ぎをする中、容赦ない砲撃が襲います。ベルリン北方を守護するシュタイナー隊が、市街に戻ることに一縷の望みをかけていたヒトラーは、シュタイナー隊も壊滅状態と聞き怒りを爆発させますが、「戦争は負けだ。皆好きにしろ」と言うのでした。

ミュンヘン一機以来、ヒトラーに従っていたゲーリングは、4月23日、総指揮権の移譲を求める電報をヒトラーに送ります。官房長のボルマンは、これはクーデターだとヒトラーをたきつけたため、ゲーリングの全権を剥奪しました。軍需相シュペーアは、ヒトラーから命令されたベルリンの市街インフラの破壊をできなかったことを告白し、去っていきました。

さらに忠実な配下の一人だったヒムラーが、西側と降伏の交渉を行っているという知らせが入り激怒します。ヒットラーはヒムラーの副官、フェーゲラインの逮捕を命じます。フェーゲラインはエヴァの妹の夫で、エヴァは助命を嘆願しますが裏切りはゆるされず処刑されます。

4月29日、ヒトラーはユンゲに遺書を口述筆記させ、ゲッペルスも遺書のタイプを依頼してきます。ユンゲがタイプしている外では、1929年以来愛人であったエヴァと正式に結婚するのでした。

4月30日、亡骸を完全に消去することを命じて、ヒトラーは拳銃、エヴァは服毒自殺します。遺体は官邸の中庭でただちに、大量のガソリンがかけられ焼却されます。ゲッペルスは後継首相に指名されますが、翌日、地下壕に退避していた妻と6人のこどもと共に自害しました。

まず、映画として最も注目されたのはドイツ製であること、そして初めてドイツ語を話す俳優によりヒトラーが演じられた点にあります。これまで見てきた映画に登場するヒトラーは、たいていエキセントリックで高圧的なステレオタイプとして描かれてきたのに対して、この作品では「総統」としてのまさにそういう面と、女性・こどもに対して優し気な人間的な面の両方を見せています。

人間的な面を描くことは、ヒトラー擁護につながりかねないのですが、ここではひたすら弱さを強調していることで批判を受けることを回避しているのかもしれません。総統官邸地下壕に立てこもる人々は、誰もが現実を知らず、知ろうともせず、総統がいれば何とかなると考えている人ばかり。ところが、頼りのヒトラーは、自分が頼りにしていた者が、次々と去って行ったり裏切ったりすることで、完全に思考が停止している。

また、映画の中でヒトラーが最終的に目指していた第三帝国の首都模型が登場するのも興味深い。都市としての機能のさることながら、ヒトラーはこれを芸術と文化の拠点とすべく夢見ていたらしい・・・結局、見果てぬ夢に終わるわけですが。

第二次世界大戦を始めた、一人の独裁者の末路を知るための映画としては、一見の価値がある仕上がりです。ただ、20世紀を代表する人物の一人であるアドルフ・ヒトラーは、簡単に底を見せてはくれません。映画というわかりやすいメディアは、その一部だけでも伝える力があるように思いました。

似たようなものとしては「アドルフ・ヒトラー 最後の10日間(1973)」がありますが、こちらは4月20日に着任し遺書の写しを託された青年士官ゲルハルト・ボルトによる回想録がもとになっており、ヒトラーは名優アレック・ギネスが演じました。