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2021年5月6日木曜日

父親たちの星条旗 (2006)

ヨーロッパではドイツの敗色がしだいに濃くなっていく中で、太平洋戦争もまた日本は追い詰められていました。中国、東南アジア、そして太平洋の島々はことごとく奪還され、1944年秋以降は、もはや戦う武器もひっ迫する状況でした。

国内では、本土決戦を想定して一般市民も動員し竹槍を持たせた訓練が行われ、戦地では自爆攻撃 - いわゆる神風特攻が始まっていました。降伏せず死ぬことを恐れない日本兵に対して、アメリカ軍は恐怖を感じたものの、冷静に考えてそれで形勢を逆転できるはずがない。

1945年3月9日から10日にかけて東京大空襲が実施され、軍だけでなく民間人にも甚大な被害が出ても、日本の指導者は敗北を認める気配を示しませんでした。

硫黄島は、現在、東京都小笠原村に属し、東京から1200km南方にある離島です。周囲20km程度で、南西端には標高170mの摺鉢山と呼ばれる高台があります。戦前までは民間人の居住がありましたが、戦後は自衛隊関係者のみが生活しています。

1944年10月のフィリピン、レイテ沖海戦で、海軍はほぼ壊滅した日本軍にとって、硫黄島は沖縄より遠い最後の防衛拠点の一つで、マリアナ諸島から本土爆撃に飛来するアメリカ軍爆撃機の情報などを収集していました。

硫黄島守備隊は、栗林忠道陸軍中将を筆頭に約2万1千人の兵士が駐屯していました。栗林中将は、海岸線での守備を主張する海軍に反発し、ゲリラ活動による持久戦のための島の要所を結ぶ地下坑道を作り、徹底抗戦に備えました。周囲の島々の残総兵力・兵器を集結したものの、戦闘になれば本土からの補給・増援はまったく期待できません。

2月19日、アメリカ軍はデタッチメント作戦と呼ばれる3万人の兵による硫黄島上陸を敢行しました。23日に摺鉢山頂上へ到達し、星条旗を掲げるところをAP通信の写真家・ジョー・ローゼンタールが撮影した写真が、ピューリッツァー賞を受賞する有名なものです。その後も必死の抵抗は続き、3月26日に栗林以下最後の将兵400名が突撃し「玉砕」したのです。

アメリカ軍との間の激戦により生存した日本兵は、わずかに数百名でした。アメリカ軍の戦死者は約7千人ですが、負傷者を加えると上陸したほぼ全員が無事に作戦を終えることができませんでした。

さて、この映画はクリント・イーストウッドとスティーブン・スピルバーグというハリウッドを代表する二人の巨匠がタッグを組んだ、「硫黄島プロジェクト」の一つ。

問題となるのは、あの有名な星条旗を掲げる写真についてです。この写真は、リアルタイムにアメリカ国内であっという間に(なんと撮影から18時間後)全国に配信され、「勝利の星条旗掲揚」として写っている6名の兵士は英雄に祭り上げられていくのです。

摺鉢山頂上で掲げられた星条旗は、初めに鉄パイプに約71×137cmの者が使われましたが、すぐにもっと大きな約152×244cmの物にかけ替えられました有名な写真となったのは、あとから使用された旗であり、掲げている6名は顔が写っていないのです。

当事者と考えられた6名のうち、3名は戦死し、残りの3名がアメリカに呼び戻され、戦費捻出のための国債を購入してもらうための宣伝活動を余儀なくされます。英雄は仲間全員であり、旗を立てだけの彼らは、それぞれが心に重荷を背負った人生を歩むのでした。

映画では、掲揚した一人衛生兵の「ドク」の人生を息子が調べていく形をとっています。実際に、その後の検証で人違いなどもはっきりしていて、彼らを戦争の被害者の一人として映画では責めることはしません。でも、それが現実だということもしっかりと描いているのだと思います。

戦闘シーンがメインの映画ではありませんが、「プライベート・ライアン」であれほどリアルな激しいシーンを作り上げたスピルバーグが絡んでいますから、硫黄島の回想シーンは生半可なものではありません。ノルマンディと正反対に、上陸はいとも簡単に行われたかのように見えますが、そこからの日本軍の怒涛の攻撃は凄まじい。

イーストウッドは、いつもの流儀でほぼワンテイクでこれらのシーンを収めたとのことですが、戦争もやり直しができるものではありませんから、全体は彩度を抑え爆発だけが赤く色づく撮影は見事としか言いようがない。

このプロジェクトは、同時進行した日本側からの視点による「硫黄島からの手紙」に続きます。