2025年2月10日月曜日

さびしんぼう (1985)

大林宜彦監督は、広島県尾道出身で、多くの作品で舞台を尾道にしています。この作品は、「転校生(1982)」、「時をかける少女(1983)」に続く、「尾道三部作」と呼ばれ、山中亘原作の「なんだかへんてこ子」をもとに自叙伝的要素が強い最高傑作といわれています。主演の富田靖子にとっても、名実ともに最高傑作かもしれません。

寺の長男である高校生の井上ヒロキ(尾身としのり)は、カメラが趣味ですがフィルムを買うお金が無いので、望遠レンズで近くの女子高ばかりを覗いています。そして、放課後になるとピアノを弾くある一人の女学生(富田靖子)をファインダー越しに追いかけ、彼女のことを勝手に「さびしんぼう」と呼んでいました。

ヒロキには、彼女が弾いているのは、音は聞こえなくてもショパンの「別れの曲」であることがわかるのです。何故なら、母親のタツ子(藤田弓子)はうるさく「勉強しろ」しか言わないのですが、どうしたわけかピアノも練習もさせられ、しかも「別れの曲」を弾けるようになれといつも言うのでした。

ヒロキは友人たちとにぎやかに、時にはテキトーに楽しくすごしていました。彼らには寺の大掃除も毎回手伝ってもらっていましたが、掃除中にタツ子の古い写真をばらまいてしまうのです。その夜、ヒロキの部屋に急に女の子(富田靖子)が現れます。ピエロのように顔を白塗りにして、だぶついた服を着ていて、そして急に消えてしまいます。それ以来、ちょくちょく現れるようになった女の子は、「さびしんぼう」と名乗ります。

ある日、偶然ピアノの女の子がヒロキの家の前で、自転車が故障して困っていました。ヒロキは、橘百合子と名乗った彼女を送っていきます。でも百合子は、その日以来ヒロキを見かけても無視するようになりました。現れたさびしんぼうは、ヒロキを慰めます。

この映画は、いかにも大林流のめちゃファンタジーです。高校生くらいの男の子にいかにもありそうな現実の女性への憧れ、そして女の子の男性への憧れみたいなものをヒロキと母親との場合を対比させていきます。携帯はおろかパソコンも普及していない時代ですから、今の目からは違和感を感じるかもしれませんが、だからこそアナログの関係にはノスタルジーと温かさを思い出します。

二役を演じる富田靖子は、片や実態のよくわからない不思議な女の子で、片や手が届きそうもない憧れの清純派乙女を見事に演じ分けています。どちらも「さびしんぼう」ですが、早々にわかるように実は白塗りの「さびしんぼう」は、せつない思いを持った16歳の母親の姿で、当時好きだった相手が「別れの曲」を上手に弾く男の子だったのです。

一方、現実のヒロキは「別れの曲」を弾く「さびしんぼう」に密かに恋をしていて、彼女にとって「別れの曲」をうまく弾ける男の子になろうとしているのですが、そこはなかなか簡単にはいかない。大林は、自身が生まれ育った尾道で、おそらく自身の初恋を投影しているのかもしれません。

写真から飛び出てきた16歳の「さびしんぼう」は、17歳になると消えてしまいます。雨に打たれながら、メイクの白塗りや黒いマスカラが流れる涙となり消えていくところは名シーンです。大林作品が好きならば、ベストに上げたくなる作品になっていることは間違いなさそうです。