ヨハン・セバスチャン・バッハの時代・・・つまり、17世紀末から18世紀前半のドイツということになりますが、当然ネットなんてものは無い。テレビも無い、ラジオも無い、映画も無い。
人々が情報を集める手段は限られていて、基本的には教会における礼拝に集い四方山話に花を咲かせることが重要なイベントであったことは想像に難くない。
そこで奏でられるカンタータは、当然教義を伝えると共に、市民に与える娯楽としての意味もあったはずです。音楽は文化として、現代よりもより密接に市民生活の中にありました。
当然、教会を離れて、市民のいろいろなイベントでも音楽は、場を盛り上げる重要な道具として使われていたわけです。バッハとしても、教会以外の場における作曲以来や演奏の機会を持つことは、多いとは言えない収入を補填する意味でも重要でした。
誕生日や結婚式などの祝賀行事、あるいは葬儀などのために作られたカンタータは、数多くあったものと考えられていますが、残念ながら基本的に一度きりの演奏機会のためのもので、楽譜や資料の散逸がほとんどで、現代に残された資料は僅かです。
当時は、録音という技術も当然無いわけですから、一度演奏してしまうと、楽譜通りにもう一度演奏する以外に、後でまた楽しむ術はありません。バッハは、そこで多くのこれらのカンタータを教会用のカンタータへ改作を行うわけです。
つまり、せっかく作った曲をお蔵入りにするのはもったいないというわけで、曲の一部や歌詞を変えることで、恒久的に演奏機会を得られる教会用に改作することは、ごく自然な流れだったと思います。また、毎週新たな曲を作り続ける激務を和らげる効果もありました。
もちろん、これらの改作行為は「使いまわし」であり、時には他人のメロディを借用したりもしますが、一度発せられた音は、その瞬間から消えていく時代では、批判の対象にはなりません。
これらを総称して、現代では「パロディ」と呼んでいるわけで、改作・改変によりバッハらしさを取り入れ、曲の音楽的寿命を延長することに成功したといえます。
19世紀になって、バッハの再認識がされた後に、教会用のカンタータに対して、これらの一般用途のものを世俗カンタータと呼ぶようになりましたが、教会カンタータが主で、世俗用は従という価値観が出来上がってしまい、残されている作品が少ないことも影響して、やや下に見られる傾向があることは残念です。
多くの世俗カンタータのパロディは、別の世俗カンタータに取り込まれるか、新たな教会カンタータへと改変されています。唯一、例外として教会から世俗へ転用されたものとして知られているのが、ケーテン侯葬送のための音楽です。
1727年に作られた、最も重要なバッハの教会音楽である「マタイ受難曲 BWV244」の中の多くの楽章が、1729年に若くして亡くなったケーテン侯レオポルトの葬送の音楽として使われているのです。
葬儀も教会儀式の一つと考えると、それほど特殊性はないともいえますが、自分を引き立ててくれたケーテン候に対して、バッハが強い恩義を感じていたことの表れなのかもしれません。
これは、BWV244aとして一部の楽譜が残されています。当時、葬儀で使われた歌詞などから、ある程度は復元が可能で、アンドリュー・パロットによる独自の研究による「完成版」のCDで確認できます。
確かにマタイ受難曲の印象的なメロディが、どんどん出てきます。 パロットの少ない人数での演奏のせいもあってか、派手さは無く、まさに葬列がゆっくりと移動していくような、深い悲しみにあふれているかのようです。YouTubeでは、確定的に残された部分について、ラファエル・ピションによる演奏を動画としてみることができます。