2021年8月31日火曜日

自宅居酒屋 #39 ラム・チョップ


今回も洋風居酒屋メニュー。

いっけん面倒に思うかもしれませんが、材料さえあれば、これも超簡単レシピ。

骨付きラム肉を見つけたら買って帰る。

塩コショウして、少し寝かせておきます。たいてい専用のスパイス入り塩コショウが付属しているので、これを使わない手はない。

あとは、オーブンで200゜で30分くらい火を通すだけ。

食べる。うまい。要ビール。以上。

2021年8月30日月曜日

アナイアレイション -全滅領域- (2018)

ナタリー・ポートマンの最新のSF主演映画がこれ。ナタリー・ポートマンはハーバード大学卒業の才媛で、身長160cmは欧米人に混ざると小柄でこどもっぽいイメージ。とはいっても、もう今年で40歳ということで、この映画でもかなり大人の女性になりました。


映画の原作はジェフ・ヴァンダミアが2014年に発表した小説「全滅領域」で、「サザン・リーチ」シリーズとなる3部作の1作目。企画段階では残りが出版されていなかったため、ある程度映画として独自の解釈をしてストーリーを完結しているようです。監督は2015年の「エクス・マキナ」で一躍注目されるようになったアレックス・ガーランド。

大学で生物学を教えるレナ(ナタリー・ポートマン)の夫ケインは、軍の秘密任務に就いて行方不明となって1年たっていました。ある日、いきなりケインが家に帰ってきますが、記憶はほとんど無い。ケインは、急に体調を悪くし救急車を呼んで搬送する途中で、二人は軍によってサザンリーチにある研究施設に強制的に連行されてしまいます。

心理学者のヴェントレス(ジェニファー・ジェイソン・リー)の説明によると、3年前に岬の灯台に何かの光が落ちてきて、以来次第に周辺地域にこのシマーと呼ばれるようになった不思議な光が拡大しているというのです。何度も送り込まれた調査隊は、誰一人として戻ってこず、最初の生還者がケインですが、今や多臓器不全で重体です。

ケインを救うにはシマーの中に行くしかないと考えたレナは、数日後に予定されているヴェントレスの女性だけの調査隊に参加を志願します。メンバーは、救急隊員のアニャ・ソレンセン(ジーナ・ロドリゲス)、物理学者のジョシー・ラデック(テッサ・トンプソン)、地形学者のキャシー・シェパード(ツヴァ・ノヴォトニー)です。

シマーの中に進んだ5人は、携帯した食料の減り具合から数日はたっているのに、寝て起きると昨夜までの記憶が思い出せないのでした。外界との通信手段は一切機能せず、コンパスも頼りになりません。

そして、奥に行くと、動物・植物の変異が強くなっていることがわかりました。シマーの拡大で廃棄された基地では前回の調査隊が残したビデオがあり、そこにはケインが別の隊員の腹部をナイフで割くと、中でうごめく物体が映っており、施設内でその隊員と思われる変異した遺体を発見します。

夜になって巨大な動物が襲ってきてシェパードが連れ去られ、先に進むと食い殺されたような変わり果てた姿を発見します。アニャは、レナのかけていたロケットの中にケインの写真を発見し、混乱して3人を縛り上げました。しかし、また熊のような動物が襲ってきてアニャは嚙み殺されます。ヴェントレスは自分がわからなくなる前に灯台にたどり着くと言って、暗いうちに一人で出ていきました。

翌朝、ジョシーは「ヴェントレスは事実を、あなたは戦いを求めている。私はどちらもいらない」と言って人間の姿の木に変容してしまいます。一人、灯台にたどり着いたレナは、「俺は誰だ」と言いながらケインが白リン弾で自害すると同時に、それを見守ったもう一人のケインが移っているろビデオを発見するのでした。奥にはヴェントレスが・・・


何で? どうして? の連続で、真実は最後までよくわからない映画。意図的に説明しないようにしているのかもしれませんが、わからないことだけで観終わってもスッキリした気分とはだいぶかけ離れています。これは、映画の中で、救出されたレナがいろいろと質問される映像が断片的に何度も出てくるのですが、レナの答えもほぼ「わからない」だけです。

ただ、間違いなさそうなことは、レナがシマーの中に行くのはケインを助けるためではなかったということ。危険が大きすぎるこの任務に参加したケインは、自己破壊を望んでいた・・・簡単に言えば、レナの浮気に気が付いて消えてしまうことを望んだということ。そしてレナは、そんなケインに対する贖罪の気持ちから志願したのだということです。

全編にわたり、幻想的な美しい背景であり、美しいオブジェが随所に見られ、特殊効果の凄さと美術担当の努力はひしひしと伝わってきます。批評家からの評判は悪くないのですが、一般向けしにくいと考えた制作したパラマウントは映画の配給権をNetflixに売却したといういわくつきで、確かに好き嫌いが分かれるところかなと思います。

2021年8月29日日曜日

V・フォー・ヴェンデッタ (2006)

突然ですが、英語で「ナイス・ガイ (nice guy)」とか言いますよね。ガイというのは、「奴」という意味で使われますが、これは16世紀のイギリスに実在したガイ・フォークスという人物が由来で、国王暗殺のための火薬陰謀事件と犯人の一人とされています。逮捕された11月5日は、今でも記念日としてガイ・フォークス・ナイトと呼ばれています。

この記念日の式典で18世紀から、ガイ・フォークスの顔を模した仮面が使われるようになり、現在でも社会的な抗議運動のシンボルとして知られています。特に、ハッカー集団アノニマスのメンバーが、顔を隠すためにしばしば使用しているのが有名です。

話は変わりますが、ナタリー・ポートマンと言えば、リュック・ベンソンの「レオン」でデヴューし、「ブラック・スワン(2010)」でアカデミー主演女優賞に輝きました。でも、一般に知られるようになったのは「スター・ウォーズ」のアミダラ役からで、意外とSF映画との相性は悪くない。というわけで、「スター・ウォーズ」の仕事が一段落して出演したのがこの映画。

もともとはDCコミックの成人向け作品が原作。タイトルは「Vは復讐のV」という意味。製作・脚本は「マトリックス」シリーズのウォシャウスキー兄弟で、監督は「マトリックス」で助監督だったジェームズ・マクティーグ。近未来のイギリス・・・ここも独裁的な政治により市民が抑圧されていて、自由と解放に立ち上がる人々のディストピア・ストーリーです。

第三次世界大戦の後アメリカを植民地としたイギリスは、国中に蔓延したウイルス感染症を撲滅したサトラーが独裁者として、自由を大きく制限した社会となっていました。夜間外出禁止令の中、国営放送局に勤めるイヴィ(ナタリー・ポートマン)は、デートのために外出したところを秘密警察に見つかりますが、ガイ・フォークスのマスクを付けた謎の男Vに助けられ、彼が裁判所を爆破するのを間近に目撃します。それは、まさに11月5日のことでした。

監視カメラの映像からフィンチ警視は、両親が収容所で亡くなっているイヴィの身元を割り出し放送局に向かいます。しかし、Vが爆薬を持ち込んで放送局を占拠し、犯行声明と共に、政府に対して異を唱えたいものは、来年の11月5日に国会議事堂に集まるように話す映像を流すのです。

イヴィは成り行きでVと行動を共にすることになってしまいます。Vは、政府にとっても重要な役目を担っているプロパガンダ番組に出演するプロセロ、英国国教会のリリアン司教、検視官のサリッジ医師らを次々に殺害していきます。

フィンチ警視は、サリッジの日記から、彼らが今では記録がほとんど削除された強制収容所の関係者であったこと、反体制運動をした人々は、収容所でウイルスについての人体実験によりことごとく死亡しVは唯一の生存者であること、かつてのウイルス蔓延と収束は、権力を掌握するためのサトラーの自作自演であったことを知ります。

過激化するVの元を去ったイヴィは、上司のディートリッヒに匿われますが、ディートリッヒがVに触発されて反サトラーの番組を作ったことで、公安のクリーディに粛清されました。その場から逃げたイヴィは逮捕され、「Vの居場所を言えば命は助ける」と言われ拷問されます。

イヴィは、独房の隙間に見つけた処刑された女性の自由を切望する手紙を拠り所に、耐え抜き最終的な質問にも「NO」と答えます。実はこの拷問を仕組んだのはVであり、イヴィを恐怖から解放することが目的でした。Vはクリーディを襲い、サトラーに信用されず捨てられるのが嫌ならサトラーの身柄を引き渡すよう脅迫します。

11月5日まで数週間に迫り、Vはガイ・フォークス・マスクを国中に送り付け、次第に混乱が始まりました。そして、マスクをつけていた少女を警察が射殺したことから暴動へ発展します。そして、前夜、再びVを訪ねたイヴィは、この後は君たち新しい世代に託すと国会議事堂への爆弾を搭載した地下鉄の発車を頼まれます。

サトラーを捕えたクリーディは、Vの目の前でサトラーを射殺し、Vも多数の銃弾を浴びますが反撃され倒されます。しかし、Vはイヴィのもとに戻ったところで力尽き、5日になった鐘と共に、イヴィは彼の遺体と爆弾を載せた地下鉄を発車させるのでした。

近未来というよりは、冷戦時代に本当に第三次世界大戦が起こっていた場合のパラレル・ワールドを描いたものという方が正しいかもしれません。ただし、最初に書いたガイ・フォークスの逸話を知らないと、映画の中では冒頭で知っている人はわかる程度に紹介されているだけなので、なんだかよくわからない状態になってしまうのは惜しい。

マトリックス組によるアクションも多少はありますが、どちらかというと全体主義的な強権政治に対する批判的なダーク・スリラーという風合いが強調されているようです。原作のコミックは、鉄の女、マーガレット・サッチャー時代に発表されています。

ナタリー・ポートマンは、拷問の前に丸刈りにされてしまうのを承知の上で出演を希望したらしい。それだけの覚悟を十分に伝えられる熱演だと思いますが、この後のウェス・アンダーソン監督の「ダージリン急行(2007)」で超短髪の理由がわかりました。

仮面の男Vは、最初から最後まで素顔は見せません。よくぞ、こんな役を引き受けた俳優がいるもんだと思いますが、演じたのは「マトリックス」のエージェント・スミス役のヒューゴ・ウィーヴィングとわっかって納得。実は最初、別の俳優で撮影が始まったのですが、ストレスで降板しちゃったらしい。それでも、一切表情が無い仮面なのに、演技になっているところは感心します。

最後でラスボスのはずのサトラーがいとも簡単に、しかもV以外の人物に殺されるのは、ちょっと肩透かし気味な感じですが、それなりにまとめきった内容で、まぁまぁ楽しめました。

2021年8月28日土曜日

トロン・レガシー (2010)

元祖「トロン」から28年、何とその続編が制作されたました。このため1982年の第1作は「トロン・オリジナル」との別名で呼ばれるようになりました。

監督はジョセフ・コシンスキー。この後「オブビリオン」を監督し、さらに今年は「トップ・ガン」の続編「マーヴェリック」が控えています。

前作でエンコム社のトップについたフリン(ジェフ・ブリッジス)と盟友アラン(ブルース・ボックスライトナー)。さらに会社を大きくしたにもかかわらず、フリンは7年後、息子のサムを残して謎の失踪をします。

さらに20年が経って、アランは、サム(ギャレット・ヘドランド)にフリンからメッセージが来たと伝え、かつてフリンが経営していたゲーム・センターの鍵を渡しました。サムはゲームセンターで、フリンの研究設備を発見し、システムを起動します。その結果、デジタル化レーザーによってサムはコンピュータの世界「グリッド」に移動してしまうのでした。

ただちにサムははぐれプログラム狩りにより捕獲され、戦闘ゲームをさせられます。何とかしのいだサムは、グリッドのリーダー、まるで若かったころのフリンにそっくりなクルーのもとに連れ出されます。クルーは自らサムを処刑するためグリッド・ゲームを行いますが、突然現れたクオラ(オリヴィア・ワイルド)に助けられます。

クオラはサムを、クルーから身を隠している本物のフリンのもとに連れていきます。フリンは、グリッドの世界に頻繁に入り込んで、この世界を完璧な物にするためにクルーというプログラムを書いたのです。そこへ自然発生したのがアイソと呼プログラムで、フリンはアイソこそが世界を変えるものと考えますが、クルーは不完全と判断しアイソを虐殺しフリンすら排除しようとしたのです。

クオラはフリンに助けられた最後のアイソでした。サムとフリン、そしてクオラは何とか現世界へのポータルから脱出を図ろうとしますが、クルーがその前に立ちふさがります。フリンは自らクルーを抑え込み消滅し、サムとクオラをポータルに送り込みます。現実世界に戻ったサムはバイクにクオラを乗せて、まだ見たことが無い日の出を見せるのでした。

・・・ってな話で、前作と比べて格段とCG技術が進歩したことはよくわかる仕上がりです。ストーリーとしても悪くはないとは思います・・・が、正直、プログラムにあまりに人格が形成されすぎているところがややピンとこない。

CGも壮大なグリッドの世界の景色などを見せてくれて、それはそれで壮観ですけど、かえってデジタルの世界という観点からは何か別物という印象です。コンピュータの中の0か1のデジタルの世界は、安っぽいかもしれませんが前作の方がしっくりきました。

だいいち、プログラムであるクオラが現実世界にやってきて、そのまま人間の姿というのはどうなのという感じもしますし、突っ込み所は山ほどあります。どこかの異次元の世界に飛ばされてしまったという話なら、違和感はあまりない。

若いジェフ・ブリッジスであるクルーは、顔は完全CGのはめ込みだそうですが、よくぞここまでできるもんだと感心します。ただし、逆に言えば、そこまで嘘を真実らしく見せられると、やはり何でもありみたいなもので、もう俳優さんそのものが不要かと思ってしまう。CG技術は、さりげなく使ってくれた方が映画としての面白みがあると思うのは古い人間だということでしょうかね。

2021年8月27日金曜日

トロン (1982)

公開当時・・・って、もう40年前ですか。う~ん、時が経つのは恐ろしい。リアルタイムには、なんだかずいぶんとぶっ飛んだ世界の話だなと思っただけで、ちょっと変わったSF映画の一つくらいの印象でした。

何故かというと、まだ身近にコンピュータがなかったから。何しろNECのパソコンPC-8000で、一般人でもコンピュータなるものをいじるようになったのは、この映画の数年後からです。作ったのがミッキーのディズニー、監督はスティーブン・リズバーカーという人で、映画界的には「トロン」関連の仕事だけしている。

当時最も話題になったのは、世界初のCGを映画に持ち込んだということ。とは言っても、96分間の映画のうち降るCGは15分程度で、後は基本的にアニメーションです。アニメーションでも、CGよりも当然手間はかかったでしょうけど、出来栄えは今のCGとほとんど変わりません。

そういうトピックを度外視しても、バーチャル・リアリティの先駆的な作品ですし、コンピュータに支配される一種のディストピアを描いている点では、かなり時代を先取りした先見の明がある内容の映画といえそうです。

エンコム社の筆頭重役デリンジャー(デビッド・ワーナー)は、自身が作ったオペレーティング・システムであるMCP(マスター・コントロール・プログラム)によって、様々な会社のデータを不正ハッキングして取得し、どんどん地位を強固にしていました。

フリン(ジェフ・ブリッジス)は、エンコムの優秀なプログラマーで、爆発的ヒットになりエンコムが大きくなるきっかけとなったゲームをプログラムしたのですがデリンジャーに盗まれ、今や場末のゲーム・センターを経営しつつ、何とかデリンジャーの不正の証拠をつかもうとエンコムにハッキングを繰り返しています。

MCPの世界では、不要になったプログラムやハッキングしてきて捕獲したプログラムを消去するだけでなく、闘牛のように戦わせて見せしめにするゲームが行われているのです。情報量が肥大化して増長したMCPはしだいに、デリンジャーすら言うとおりにしないと数々の不正を暴くと脅迫するようになっていました。

現役のプログラマーのアラン(ブルース・ボックスライトナー)は、MCPを含む多くのコンピュータを監視して不正を摘発するトロンと呼ぶプログラムを作っていました。アランと研究員であり、ガールフレンドのローラ(シンディ・モーガン)は、フリンと共にMCPの不正を発見することにします。

外部からでは無理なので、フリンは二人の協力によって社内からMCPにアクセスします。あわてたMCPは、研究中の物質を分子レベルでデジタル化するレーザーを起動し、フリンをMCPの内部データとして取り込んでしまうのでした。

戦闘ゲームでアランの作ったトロンと出会ったフリンは協力して、MCPに戦いを挑みます。トロンは、外界のアランと交信し、MCP破壊プログラムを受け取ります。MCPの中枢に何とかたどりついて、ついにMCPを破壊することに成功します。フリンのデジタル・データはアナログに復元され、デリンジャーの不正の証拠も取得したフリンは新たなエンコムの経営者になりました。

かなり、簡素化した線と面の世界は、アニメーションでも、CGでもあまり差がわかりません。もっともそれが本来のデジタルの世界ですから、このシンプルさはいかにもコンピューターの中という感じがします。すでにバグという概念も含まれていることには驚きます。

主演のジェフ・ブリッジスは、クリント・イーストウッドの「サンダーボルト(1974)」で、イーストウッドのやんちゃな弟分として日本で知られるようになった人。この映画の前に話題作の「天国の門(1980)」に出演しましたが、あと一歩活躍しきれない感じ。ここでも、ブリッジスが演じているのはタイトルのトロンではありません。

まぁ、40年前ということを考えれば、それなりによくできた映画で、新たなSF映画の土台の先駆者として一定の評価はされるべき作品だと思いました。

2021年8月26日木曜日

自宅居酒屋 #38 トマトのカプレーゼ


今回は洋風居酒屋。

これも食材さえあれば簡単。

カプレーゼはイタリア南部、カプリ島のサラダという意味で、正式にはインサラータ・カプレーゼと言います。

美味しそうなトマトとモッツェレラ・チーズを見つけたら、薄くスライスして並べるだけです。

ドレッシングは、オリーブオイルに塩と胡椒、レモン汁(無ければお酢)、できればバジル・ペーストなどなど・・・

上にバジルの葉をみじん切りにしてパラパラとすれば雰囲気は完璧。今回はオニオン・スライスを下敷きにしています。

ワインのお供にどうぞ。


2021年8月25日水曜日

鏡 (1975)

すでに諸外国からも認められる存在になった、旧ソビエト連邦のアンドレイ・タルコフスキー監督の5作目であり、自伝的な内容は過去と現代を自由に行き来することで難解さを増したものになっています。

ネット社会の今日でも旧ソビエト連邦にいた時間が長いタルコフスキーの情報は多いとは言えません。また、いくつかの評論は、タルコフスキーの画一化した年譜を紹介するだけで、タルコフスキ個人的な紹介はほとんど見つけられません。

できるだけ先入観なしに鑑賞したいものですが、この映画ではタルコフスキーの生い立ちと強い関連性があるといわれている・・・にもかかわらず、その生い立ちについの議論がされず、それを確かめる情報もごく限られたものしかないのは不思議です。

父親であるウクライナで有名な詩人、アルセニー・タルコフスキーと、母親であるマリヤ・イワーノブナ・ヴィシュニャコーヴァの子として1932年4月4日にアンドレイは生まれました。両親とも文学大学の出身です。父親のアルセニーは、アンドレイの幼少期(3歳頃)に家を出てしまったため、印刷工場に勤める母親の手によって育てられ、作曲家に成りたいと思う少年でした。

生まれ育った場所は、ヴォルガ川流域のザブラジェと呼ばれる町、育ったのはモスクワ川流域のイグナーチェヴォ村となっていますが、ロシアは地名がしばしば変わりますしよくわからない。モスクワの東北約400km弱、ヴォルガ川岸のユリエヴェツの川をはさんだ対岸にあるザブラジエという小さな町が見つかりますが、Google Mapで確認してみると、高そうな建物は教会くらいで、民家はまばらで畑に囲まれた農村という趣です。

映画大学の仲間であったイルマ・タルコフスカヤと結婚し、1964年にラリサ・キジロワと再婚しています。ラリサは女優として、後期作品の助監督としてタルコフスキーの映画を支えました。

映画の冒頭は、吃音症の青年が女医の治療を受けているシーンから始まります。女医は精神的な緊張を別のことに移したあと、「僕は話せます、と言って」というと、青年はすらすらと「僕は話せます」と話したとたんに、黒地にシンプルな白い文字でタイトル(鏡)が示されます。

のどかの田園風景の中、煙草を吸いながら木の柵に腰掛けた女。主人公アレクセイのナレーションがかぶさってきて、やって来るのは父親くらい・・・だか、父はもう戻らない、と語ります。遠くから近づいてきた男は医者(タルコフスキーの映画ではお馴染みになったアナトーリー・ソロニーツィン)だと言い道を尋ね、「木は動かない。人が動き回るのは自然を信じていないからだ」と語り去っていきますが、突然強い風が吹き、周囲全体の草が大きく揺れ、タルコフスキー自身による父アレクセイの詩が朗読されます。

納屋から激しい炎があがり、鏡にふたりのこどもがそれを見ているところが映っています。女はたらいで髪の毛を洗い垂れた髪の毛が揺れる(まるで貞子!)、髪の毛を拭いていると部屋中に水が滴り落ちて空間が崩れていきます。髪の毛を拭いていた女はいつの間にか老女になっています。ここまで約20分間は、おそらくアレクセイの回想、または夢であり、女はアレクセイ(監督自身の投影)の母親。

母親マリヤからの電話でアレクセイは目を覚まします。アレクセイは、父が出ていった年、納屋が燃えた年を聞きます。母親の用件は、印刷所で一緒だったリーザが今朝亡くなったという知らせでした。ここから印刷所でのマリヤとリーザの仕事が回想され、リーザはマリヤにドフトエフスキーの「悪霊」の登場人物のように夫やこどもを支配しようとして不幸にしたと言われます。再びアレクセイの詩が朗読されます。

離婚した妻ナタリアとの会話。若い頃のマリヤとナタリアを一人二役で演じるのはマルガリータ・テレホワ。君は母に似ているというアレクセイに対して、ナタリアは、「だから別れたのね。息子のイグナートはあなたに似て怖いわ。お母さんと和解しなさい」と言い、スペイン内戦のニュース映画映像が挿入されます。

ここからはイグナートとアレクセイの少年時代が交錯する映像が続きます。二人を演じるのもイグナート・ダニルツェフ一人なのでややこしい。ニュース映像は、ナチスの終焉、原子爆弾投下、中国文化大革命などが続きます。

アレクセイはイグナートに「父さんと暮らそう」と言ってみますが、必要ないと断られてしまいます。戦争中はマリヤとアレクセイは、モスクワから以前の田舎の家に疎開しました。隣家を訪れたマリヤは、生活費のためイヤリングを買ってもらいますが、お礼にあげる鶏の首を自分ではねてと頼まれますが気分が悪くなります。

聞こえてくるのはバッハのヨハネ受難曲の冒頭コーラス。「主よ」を繰り返す中で、若かったころの両親がこれから作るこどもは男がいいか、女がいいかと話している。次にまだこどものアレクセイと妹を、年老いた母が手を引いて歩いていくのでした。

全編にわたって、カラーだったり白黒だったりが混在し、説明がないままにいろいろな人物が登場します。また、母と妻、小児期の自分と今の自分のこどもを同じ役者が演じ、どこが現代でどこが過去なのかとてもわかりにくい。明確なストーリーは無いので、あらすじを書くことすら困難です。

大人になったアレクセイは、この映画の中でセリフとしての声は何度も登場しますが、その姿は一度も現さない。一方のこどものアレクセイとアレクセイの息子イグナートは、セリフはほとんどなくひたすら母親を見つめるような視線を画面にのこしています。

しかし、一つ一つのシーンが絵画のように美しく、ニュース映像の挿入により、ロシアの詩的な美しさと揺れ動いた現代史が、この映画の中に封じ込められていることがわかります。こどもを守りたいだけの母親は、裏を返すと束縛につながる。それを嫌った息子は、母親と疎遠になりますが、自分もまた父親と同じように妻とこどもを置き去りにしてしまいました。

タルコフスキーの映画の特徴は、水・土・火・空気という4つの要素の映像化にあるということが言われています。この映画は、まさにそれらをタルコフスキーの記憶の断片を元に完璧なまでに視覚化してみせたものなんだろうと感じます。難しく考えだせばキリが無いし、またその答えも見つけられない作品です。ただし、そこにタルコフスキー映画の本質があるのだとすれば、見る者にとって踏み絵のような作品なのかもしれません。

 

2021年8月24日火曜日

惑星ソラリス (1972)

SF映画のBEST3を選べと言われたら、もちろん主観的な好みの問題ですからいろいろな意見はあってもいいわけですが、「2001年宇宙の旅」、「ブレード・ランナー」を外す人はほとんどいない。そして3番目に何を選ぶかは意見が分かれるところですが、「惑星ソラリス」は有力候補の一つです。

旧ソビエト連邦の国営映画制作会社であったモス・フィルムは、第二次世界大戦前から連邦が崩壊する1991年まで、連邦政府の厳しい検閲のもとに映画作りが行われていたと言われています。スタジオから製作開始許可が下りるのに最初の苦労があり、始まってもいつでも作業経過はチェックされていました。映画が完成しても、最終的に国家映画委員会による検閲が待っています。

アンドレイ・タルコフスキー監督にとっても、自身の映画作りは検閲との闘いであったことは容易に想像できます。特に第3作目となった「アンドレイ・ルブリョフ」では、宗教的テーマであったため1967年完成にもかかわらず、検閲に通るようにシーンを削除した版が一般に公開されたのは1971年でした。

つまり、この間タルコフスキーは仕事をさせてもらえなかったということ。そして「アンドレイ・ルブリョフ」の公開が許可されると同時に、満を持して取りかかったのが「惑星ソラリス」でした。

ポーランドのSF作家、スタニスワフ・レムの1961年の小説「ソラリス(ソラリスの陽のもとに)」を原作としていますが、映画独自の解釈が目立つ内容にタルコフスキーと原作者とレムが罵り合いの喧嘩をしたというのは有名。それでも1972年のカンヌ国際映画祭審査員特別賞受賞により、タルコフスキーの名前を世界中に知らしめる記念碑的な作品となりました。

ただの小川であり、ただの水草がたなびているだけ。ただの川岸の雑草にもかかわらず、いきなり最初に見せられる光景の美しさはいったい何だろう。霧が漂うその場所にたたずむのは、鮮やかな青いジャケットを着た心理学者クリス・ケルヴィン(ドナタス・バニオニス)です。急な雷鳴と雨の中、クリスは濡れるにまかせていました。

かつて惑星ソラリスの調査隊の行方不明者を捜索に向かったバートン飛行士は、クリスに彼の委員会での報告ビデオを見せます。バートンはソラリスの海が沸き立ち、粘着質の霧が機体を包み、海には赤ん坊が裸で立っていたという話をしますが、委員会は信用せず幻覚だと決めつけてしまいます。

クリスは明朝、ソラリスに向けて出発することになっていたのです。彼は、ソラリス研究の終了の可否を決定する任務のため、非道徳的であってもソラリスの海に放射線を浴びせるぐらいの思い切った変化を起こさないと意味が無いと考えている。バートンは目撃した赤ん坊が、行方不明者の生まれたばかりのこどもに似ていたことを伝えます。

惑星ソラリスは、その表面のほとんどが海に覆われており、海そのものが特殊な頭脳であり、惑星全体が生命体と考えられていました。現在、ソラリスの軌道上にある宇宙ステーションにいるのは、生物学者サルトリウス、電子工学の専門家スナウト、生理学者ギバリャンの三人。クリスは到着するなり、散乱したステーション内に不信を抱き、スナウトからギバリャンは錯乱して自殺し、サルトリウスは実験室に閉じこもったきりだと聞かされます。

ギバリャンが自殺前に残したビデオ・メッセージには女性が一緒に映っており、サルトリウスの部屋にもこどものような誰かがいます。そして、クリスにも、いつのまにか部屋の中に、自殺した妻ハリー(ナタリア・ボンダルチュク)が現れました。混乱したクリスは、ハリーを探査用宇宙船に乗せて射出します。

ところが、いつのまにか再びハリーはそばにいて、クリスも存在を受け入れてしまうのでした。スタウトは、これらの現象は海に大量の放射線を放射してから始まり、ソラリスの海は我々の記憶の一部を物質化するのだと説明します。サルトリウスはニュートリノを安定化させて実像化していると考えていました。

記憶の断片から形成されたハリーは、自らの記憶は曖昧です。クリスの良心から生まれた自分が本物のハリーでは無いことを知っていて、彼女のことを教えてほしいといいます。クリスは、喧嘩して家を飛び出したこと、戻ったらハリーは毒を飲んで死んでいたことを話します。

ハリーは発作的に液体酸素を飲んで、凍って死んでしまう。しかし、スナウトがもうじき生き返ると言う通り、蘇生したハリーにクリスは、科学を捨ててここで一緒に暮らそうと言います。体調を崩したクリスは何人ものハリーや母親の幻覚みるのですが、気が付くとハリーはいない。

ハリーの希望で、スナウトがクリスの脳波を海に送ったためクリスの苦しみを理解した海がハリーを消したのでした。ソラリスの海には島ができていて、クリスは島にある実家に戻り、父親に許しを請うのでした。

確かにSF映画と言える、宇宙での不思議な現象についての話なんですが、ステーションのセットを除くと、衣装も含めて未来的な部分はほとんどありません。もっとも、バートンが自分の過去から現在までの時の経過を示す都会の中の高速道路を走り続ける長いシーンは、当時としては十分に未来的だったかもしれません。実は、これは日本の首都高速で撮影されたもので、タルコフスキーもご満悦だったらしい。

登場人物は少なくて、中心となるのは地上では両親、バートン、そして宇宙ステーションではクリス、ハリー、スナウト、サルトリウスの4人だけ。サルトリウスは「アンドレイ・ルブリョフ」で主役を張ったアナトリー・ソロニーツィンが演じています。

彼らの中での会話劇というには、あまりに少ない台詞によってこの不思議なストーリーが進行します。しかし、考えてみれば、通常の生活でいちいち物事を説明しながら会話することはないし、ましてや家族の間では暗黙の了解は山ほどあります。

タルコフスキーは、そこをいろいろなイメージによって見る者の想像力をかきたてるわけで、そのための道具として「水」、「鏡」、「土」、「空気(浮遊)」などをいたるところで使っているようです。また、夢やビデオを利用して過去と現在を行き来したり、長回しのシーンの多用による視覚的な連続性なども我々が考える時間を与えてくれる効果があるかもしれません。

しばしば、西側の「2001年宇宙の旅(1968)」に対する東側からの返答という評価を見受けますが、確かにSF映画を作る以上はそれ以上に物を作れと言う上からのプレッシャーはあったかもしれない。観客の無限の思考力を試される点では共通点を見出せますが、根底にあるテーマは違います。「2001年」が科学の先にある人間性を描いているとするなら、「ソラリス」は科学のもとでの人間性に焦点を当てているようです。

もともと科学のもとでは客観論者であったクリスは、「自分が自殺に追いやった」と信じているハリーの出現により、ハリーを出現させた自分の良心、つまり隠していた贖罪の心を認めます。ハリーもそういうクリスを、人間的と認めるようになり、自分の存在がクリスを苦しめていることを自覚し自ら消滅する道を選ぶのです。

そして、ただの美しい光景と思っていたクリスの実家は、ラストで美しいソラリスの海に浮かぶ島の一つにすぎなかったことに衝撃を受けるとともに、何故かは説明できませんがそのことを素直に受け入れてしまえる流れを作ったところは、タルコフスキーの映画作家としての力量の凄さなんだろうと思います。

2021年8月23日月曜日

横浜市の市長は誰だ!?


昨日、8月22日は横浜市長選挙の投票日でした。朝、近くの地区センターの投票所に行って、投票をすませました。

今回の選挙は珍しく(!!)争点がありました。新型コロナ問題は当然のことながら、やはりカジノを含む統合リゾート施設建設(IR)問題が一番関心を集めたポイントであることは間違いありません。

現職の林文子氏は、前回選挙においてはIR問題には積極的な姿勢を示していなかった(ので投票しました)にもかかわらず、かなり強気でIR誘致を推進する動きを見せていました。であれば、横浜市民全体に今一度信を問う必要がある。

問題はIR反対を旗頭にした立候補者たちですが、市長選挙としては立候補者が多すぎて、しかもある程度の実績を持つ方も数人いることから、票割れによる再選挙の可能性も指摘されていました。

ところが、午後8時に投票が締め切られると、速攻で山中氏の当選確実が報道されてびっくりです。最終結果は午前1時29分で確定し公表されています。

山中 竹春(48) 506,392
小此木八郎(56) 325,947
林 文子 (75) 196,926
田中 康夫(65) 194,713
松沢 成文(63) 162,206
福田 峰之(57)  62,455
太田 正孝(75)  39,802
坪倉 良和(70)  19,113

全150万票のうち1/3を山中氏が獲得し当選を決定しました。IR反対を早くから表明したこと、医師であることからコロナ渦に対する効果的な対策を期待する部分が大きかったのだろうと考えますが、政治家としてはまったくの素人ですから、私たち横浜市民としては大きなリスクも同時に背負う覚悟が必要かもしれません。

IR賛成派は林氏と福田氏の二人で、合わせて25万票。思ったよりも賛成する人は少ない。市議会もこの結果を無視してIR誘致を推進することは難しいと思います。

思ったより票を伸ばせなかったのは、菅首相自ら応援した小此木氏。何しろ菅首相の地元を含む選挙で、これだけ差を付けられて敗れるということは、国政与党のショックも大きいでしょぅ。やはり、IR推進の菅首相のもとから急に反対をうたって立候補したことは、市民から疑いの眼で見られて当然で、事前に反対活動の実績がまったくなかったのは致命的。

得票率は50%ほどになったので、昨今の選挙としては注目度が高かった方だといえそうです。ただ、やはりネット社会での投票の仕組みをきちんと整備してもらいたいという気持ちは残ります。もっと投票率を上げて、多くの意見が反映できることが理想。もっとも、大きな政党ほど、支持政党が無い人々の票が増えると困るんでしょうね。

2021年8月22日日曜日

ゴースト・イン・ザ・シェル (2017)

スカヨハついでと言ったら失礼ですが、もう一つ北野武主演、桃井かおり助演のSF作を見ちゃいました・・・というのは冗談で、マニアが大好きな日本のSFマンガ、「攻殻機動隊」をハリウッドが実写化した話題作。監督は「スノーホワイト」のルパート・サンダース。

士郎正宗の1989年のマンガが元で、1995年に押井守がアニメ映画化したものが大ヒットして、一気に国内外に知名度を広げました。正直に言うと、この原作マンガも押井守の映画もまったく見たことがありません。なんですが、「攻殻機動隊」のファンにはこのハリウッド実写版は違和感があって、いろいろと突っ込み所があるらしい。そういうところで、元を知らないので、日本調を取り入れたSFサイバー・パンク・アクション映画として見ることができると言うものです。

電脳社会が高度に発達した近未来。人は体のほとんどをロボット=義体にして、あらゆるネットワークでつながっています。サイバー・テロ犯罪を取り締まる公安9課は、荒巻(北野武)をトップに、脳以外はすべてロボットの少佐(スカーレット・ヨハンソン)を中心に活動していました。少佐の義体化は、ロボット技術を推進するハンカ社で、オウレイ博士(ジュリエット・ビノシュ)のもとで行われたのです。

ハンカ社と組んだら破滅だと言う謎の男、クゼは2571計画の極秘情報を求めてハンカ社の研究員を次から次へと襲います。公安9課はクゼを追い、少佐はついにクゼを発見しますが、逆に2571計画で失敗作として捨てられたのが自分で、少佐は最初の成功例として彼らに都合の良い偽物の記憶を刷り込まれていると教えられます。

少佐はハンカ社に捕獲され、余計な知恵をつけたとして重役のカッターによって廃棄されそうになる。しかし、オウレイ博士は、少佐の本当の記憶を渡し逃がします。本当の記憶に従って、少佐はスラムのアパートで独り暮らしのハイリ(桃井かおり)に会います。

ハイリの娘、素子はこの電脳化した社会を嫌い仲間と逃げましたが、ある日役人が素子の遺灰を届けに来たと話します。ハイリは少佐に、「見つめる目が素子に似ている。あなたは誰?」と聞くのでした。

廃墟にやって来た少佐は、恋人のヒデオと共にハンカ社の実験用人間狩りにあったことを思い出します。そこへ、クゼ・・・ヒデオが現れ、「素子、一緒に戦おう」と言うのですが、カッターの操る多脚戦車はすぐそこに迫っていました!!

という話なんですが、北野武が話すのは日本語。桃井さんは英語です。北野武は、どう見てもアウトレージになっちゃう。どうせハリウッド版なんだから、そこはこだわらずにアメリカ人の俳優でよかったんじゃないかと思ってしまう。

桃井さんは少佐の自分探しの鍵となる重要な役回りで、それなりにいいんですけど、やっぱり娘がスカヨハじゃどうもピンと来ない。このあたりは、原作へのリスペクトと割り切るしかないようです。

スカーレット・ヨハンセンは、白い攻殻スーツを着ていると、遠目には全裸っぽくてエロいのですが、それほどナイスバディじゃないので(ゴメン!)かえって太って見えてしまうのがもったいない。黒い防弾アーマーを着ている方がスタイリッシュかもしれません。

全編に渡ってCGてんこ盛りなので、俳優がワイヤー・アクションで体を張ってアクションをしても、どうせ作り物みたいな感じがしてしまいます。特殊撮影は本来気が付かないくらいに使われているから効果的なんですが、CGの時代になってどんどん見せるようになって嘘が嘘を重ねているようなところがあります。

というわけで、原作によいしょしないで、まったくアメリカナイズした話に作り替えてたらもう少し評価が上がったかもしれないですね。

2021年8月21日土曜日

アンダー・ザ・スキン 種の捕食 (2013)

弦楽器の神経質な不協和音が響くなか、遠くに見える小さな光にゆっくりと近づいているのか、それとも光が大きくなっているのか、なんて思っていると急激に強い光に変わる。ドーナッツ状の物体が現れ、何かが中心の穴に接続していくと、意味のない断続的な女性の声がしてきます。円形の物はさらに眼球の虹彩に変化し、タイトルの「UNDER THE SKIN」がシンプルに表示されます。この冒頭のシークエンスだけでも、不思議感満載です。

一転して、夜。川沿いの道をバイクの光が動いています。バイクは停まっている白いバンのところで停車し、ライダーは川の土手を降りていったかと思うと、女性の死体を担いで戻ってきて、バンの中に放り込む。バンの中は真っ白な空間で、裸の女(スカーレット・ヨハンセン)が、死体から服を脱がせて身につけます。

女はバンを走らせ、、何人か通りがかりの男性に道を尋ねます。一人住まいの自営の男を見つけると声をかけ廃屋に連れ込みます。その中は真っ黒な闇に包まれた空間。服を脱ぎながら進む女を、男が服を脱ぎながらゆっくり追うと、男はしだいに黒い床の中に沈み込んで消えていきました。

女は海岸で海から上がってきたキャンプをしているという男に声をかけますが、ちょうどその時溺れている夫婦がいて男は助けに行きますが、彼も溺れてしまいます。女は倒れている男を石で殴りつけバンに引きづりこむ。バイクのライダーが男のキャンプ道具を片付けます。

クラブに現れた女は、一人きりだという男を誘う。この男もまた黒い闇に沈んでいく。闇の中に浮かぶ男の前方には海にいた男が漂っています。海にいた男は、急激に中身が吸い出されたようにしぼみ皮だけになってしまい、赤い液体状のものが流れ去っていきました。

ライダーが現れ、女の周囲を回って何かを入念にチェックして去っていきます。次に女が声をかけたのは、腫瘍で顔が変形している男でした。女性と付き合ったことが無いという男もまた黒い闇に沈んでいくのですが、その後、女は鏡に写っている自分を見つめる。そして沈んだはずの男は裸のまま廃屋の外に出ていくのです。しかし、ライダーがやってきて男を回収していきます。

霧の深い山道でバンを捨てた女はレストランでケーキを注文しますが、吐き出してしまいます。逆に、バス停で男に声をかけられ男の家に泊めてもらい、女は姿見の鏡に写る自分の裸体をしげしげと眺めます。そして4人になったライダーは、様々な方向に走り去っていく。女は男とベッドを共にするが、途中で飛び起きて自分の股間を確認するのです。

森林を彷徨う女に作業員の男が声をかけます。男は女を追いかけてきて捕まえ強引に服を脱がそうとする。しかし争っているうちに、女の肌が服のようにはがれて男は愕然として逃げ出します。女はウエットスーツを脱ぐように敗れた皮膚を脱ぐ、下から真っ黒な皮膚が現れます。戻ってきた男はガソリンをかけ火をつけ、女は燃え尽きます。

・・・というわけで、超異色のSFスリラーで、この年の話題をかなりさらったのは、スカーレット・ヨハンソンのヌード・シーンがあるから・・・だけではありません。監督はジョナサン・グレイザーで、2004年にはニコール・キッドマンを起用した「記憶の棘」という話題作を作った、主としてPVやCMの仕事をしている人。

ミッシェル・フェイバーという人が書いた原作小説があるので、エイリアンが人間を食用に捕獲している話だとわかりますが、映画では台詞らしい台詞は皆無なので、男を誘うヨハンセンと沈んでいく男をひたすらスタイリッシュな映像で見せられるだけ。とはいえ、毎回少しずつ趣向を変えてくるので、なかなか興味深く見続けることができます。

しかし、しだいに女は人間に対する情のようなものが芽生えてくるところが、この映画のすべてと言ってもよさそうです。ライダーは女の仲間であり、仕事をする環境を整え、ちゃんと捕獲しているかの監視役です。ライダー役は、イギリスでは有名なプロのライダーの方で俳優ではありません。同情という感情が芽生えるきっかけとなる顔の変形した男は、実際に病気がある人でメイクではありません。

その他の街中のシーンなども、演技ではなくドキュメンタリー的な撮影による物らしく、現実感を膨らませる役割をしています。音楽もほとんど無く、聞こえてもひたすら不協和感だけというのもなかなか思い切ったことをする監督です。

ヨハンセンのヌードが目的、あるいは「伏線の回収」と称してやたらと説明を求める方にはおそらく退屈な映画です。しかし、映画にイマジネーションの余地を残すことに期待するむきには平均点以上の出来となったのかもしれません。

ちなみに日本語版は高価なので、安いアメリカ版で視聴しました。会話はスコットランド訛りの強いもので、ほぼヒアリングできませんでしたけど、本当に大した台詞はないのでこれでも十分という感じです。

2021年8月20日金曜日

調子づく

カントリーマウムのチョコまみれ・・・どうも地味にヒットしたらしい。

不二家さんのお菓子。

それじゃ、ってんで、もう一つの不二家の代表的なお菓子であるホームパイもチョコだらけにしてしまいました。

でも、気が付いたら、このシリーズ・・・増殖していた。


もう、こうなると、いちいち紹介する気にならない。

どれでも気になるものをどうぞ。どれをとっても・・・カロリー高いぞぉ~

2021年8月19日木曜日

アンドレイ・ルブリョフ (1967)

アンドレイ・ルブリョフは、ロシアの著名なイコン画家です。と言っても、相当美術史に造詣が無いとわからない。イコンとは、聖書に出てくる人物や出来事のこと。ルブリョフは14世紀後半から15世紀初頭の人物とされ、ロシア正教会の修道士であり、現在は聖人として扱われています。

アンドレイ・タルコフスキーがこのイコン画家の生涯に着目して映画が完成したのは1966年ですが、当初の予算も途中で大幅に削減されたとはいえ、約3時間25分の大作でした。そこからモス・フィルム(国営)のスタジオ審査があり、続いてソビエト連邦国家による検閲により、非愛国的として多くのダメ出しがなされました。

そのため国内よりも海外で先に高い評価を受け、1969年のカンヌ映画祭で国際映画批評家賞を受賞。タルコフスキーは検閲の要請に屈し、1971年にやっと編集し直された186分版として国内で公開が許可されました。

10世紀の末にキリスト教(東方正教会)を国教と定め、ルブリョフが生きた時代のロシアは、東側のモンゴル(チンギス・ハンのこどもの時代)との間で政治的な軋轢があり、しだいにロシア帝国の前身ともいえるモスクワ大公国を形成していった時代。当然、ルブリョフについて詳細な記録が残されているわけではありません。映画は時系列に沿って細かい副題がついて分割されています。前2作と違って、ストーリーは抽象的で難解です。

第1部 プロローグ
熱気球を準備した男が、聖堂の上から空に飛び立つ。地表に見える人々を俯瞰しつつ、気球は上下してついに墜落する。その傍らで、一頭の馬が横に倒れ起き上がり去っていく。

旅芸人 1400年
アンドレイ・ルブリョフ(アナトリー・ソロニーツィン)、ダニール、キリールの3人の修道僧はイコン画家としてモスクワに向かっていました。途中、雨宿りのため通りがかりの小屋に入ると、男が貴族を笑い者にする歌と踊りを披露していました。そこへ兵士たちがやってきて男は連れ去られます。

フェオファン・グレク 1405年
3人はモスクワでの生活を始め、キリールは有名なイコン画家フェオファン・グレクの仕事場を訪れる。フェオファンはルブリョフの仲間だと知って、評判が伝わっていると言いますが、キリールは「絵はうまいが恐れの念が足りない。信仰が浅い」と話します。

キリールは助手に誘われますが、滞在している修道院に迎えに来て直接名前を指名すれば承諾すると言います。しかしやって来た使者が指名したのはルブリョフでした。ダニールは羨みますが、キリールは怒り仲間を侮辱したため修道院を追放されてしまいます。

アンドレイの苦悩 1407年
フェオファンは、「民衆は無知であり、それは自ら招いたものだ。私は神に仕え絵を描く」と言うのに対して、ルブリョフは民衆を擁護し彼らのために描くことを語ります。雪の積もった景色の中、町を抜け小高い丘の上でキリストの磔を再現する幻想シーンが続きます。

祭日 1408年
小舟で川を行くルブリョフらの一行は、休憩のため陸に上がります。そこで、裸で松明を持ち何かの儀式をしている異教徒の集団を目撃します。見つかったルブリョフは縛り付けられますが、裸の女の一人に助けられます。翌朝、異教徒狩りがあり、昨夜の女がルブリョフらの乗った船の横を泳いで逃げていくのでした。

最後の審判 1408年
大公の依頼である大聖堂の「最後の晩餐」の壁画を、暗いイメージを払拭できないルプリョフは描くことができないでいました。弟子の何人かは、そんなルブリョフに愛想をつかして出て行ってしまう。大公とその弟は反目していて、彼らは弟のところに向かったため、追いかけてきた大公の部下に目をえぐられてしまうのでした。

いまだ壁画のヒントを掴めないルブリョフが弟子に聖書を読ませていると、女の佯狂者(ようきょうしゃ、卑しい身なりだがキリストの真理を理解する聖人)が雨を避けて大聖堂に入ってきました。彼女をみたルブリョフは、ついに描きたいものがわかり喜ぶのです。

第2部 襲来 1408年
大公の弟が、タタール(モンゴル人、韃靼人)と組んで町を襲いました。彼らは残虐の限りを尽くし、大聖堂にも乱入してきます。ルブリョフは佯狂の女を助けようとして兵士を殺してしまいます。廃墟と化し死者が打ち捨てられた大聖堂の中で、ルブリョフはフェオファンの幻に、人殺しの罪を償うために筆を捨て話すことを自ら禁じますと語ります。

沈黙 1412年
ルブリョフは佯狂の女と共にモスクワの修道院に戻っていました。そこへ、ボロボロになったキリールが修道院にやってきて、聖書を15回書き写すことで許されます。タタール兵が修道院にやってきて、佯狂の女は彼らと一緒に去ってしまいます。

鐘 1423年
大公が教会に新しい鐘を寄進することになり、ボリースカは、鐘作りの名匠の亡くなった父から秘伝を伝えられてたと嘘をつきます。ボリースカは他の鐘職人からバカにされながらも、型を作るための最良の粘土を探すのです。ルブリョフは、精一杯虚勢を張って仕事をするボリースカを黙って見守ります。

キリールは、ルブリョフが筆を断ったと聞いて喜んだ時もあるが、自分は何も残せない、お前は絵を描くべきだと説得します。そして鐘が完成し、仮の鐘楼に引き上げられました。大公や大勢の客人が見守る中で、見事な鐘の音が鳴り響くのでした。倒れこんで泣きじゃくるボリースカを抱きながら。ルブリョフは沈黙の誓いを捨て、「お前は鐘を作り、私はイコンを描く。共に進もう」と言うのでした。

エピローグ
ここまでは白黒でしたが、ここからカラーとなり、ルブリョフが残した作品群を近接撮影で映し出していきます。そして最後に川辺にたたずむ4頭の馬のシーンとなり終了します。

タルコフスキーが描こうとしたのは、もちろんアンドレイ・ルブリョフという後世に名を遺す偉大なイコン画家の半生であることは間違いないのですが、単なる伝記映画を作る意図は微塵もなく、むしろルブリョフを題材にして15世紀初めのロシアの雰囲気を映像化することにありそうです。

そこにはロシアで発展を遂げた、ヨーロッパ諸国のキリスト教(カトリック、プロテスタント)と一線を画する東方正教会における信仰心が主題の一つになっています。イコンを描くための信仰に自信が無いルブリョフは、苦悩し、過ちを犯したことで罪を背負います。しかし、一途に鐘を作るボリースカらを見ているうちに、もう一度自らの信仰に自信をもてるようになっていく。

タルコフスキーは、ここでシーンを構成する要素として、水と土に重点を置いていて、時に場面転換のきっかけとして、時に時間の流れの表現として、いろいろな形で登場します。そして、会話中心のシーンでの長回しのカメラワークは、タルコフスキーの好む手法だと言うことがタルコフスキー初心者にも理解できました。ここでもカメラがゆっくり左右に動く時に、俳優が移動して空白ができないようにするところがいくつかありました。

いわゆる芸術的文芸映画の常として、一から十まで説明してはいません。見る者にある程度の忍耐を強いるところは否定できませんが、いつの間にか物語の世界に興味が湧いてきて、3時間という長い映画でも集中することができました。

テレビ用に半分にカットされた版もあるようですが、もともとの205分版も実は完全版としてメディアが手に入りますし、実はネットで視聴可能です。主として、暴力的なシーンや裸のシーンが削られているようですが、タルコフスキーは自ら186分版をもって最終版としています。

2021年8月18日水曜日

僕の村は戦場だった (1962)

戦争映画の名作を探していると、必ず出くわすタイトルの一つがこれ。この前、戦争映画を見続けていた時に、この作品は史実に基づいたものでない(フィクション)ことと、ソビエト製でちょっと敷居が高いことから飛ばしていました。

ところが、これがアンドレイ・タルコフスキーの監督作品となると、黙って通り過ぎるわけにはいかなくなりました。タルコフスキーにとっては、30歳にして初の長編作で、白黒ですがベネチア国際映画祭金獅子賞、サンフランシスコ国際映画祭監督賞を受賞しています。

1959年発表のベストセラー小説、ウラジーミル・ボゴモーロフの短篇「イワン」の映画化で、原題を直訳すれば「イワンの少年時代」です。第二次世界大戦の最中、独ソ戦のさなかに両親と妹を失ったイワンが、少年ながらかたくなに偵察任務に身を投じる内容です。

冒頭、白黒ながら美しい自然の中で、なかなかの美少年であるイワン(ニコライ・ブルリャーエフ)が幸せに過ごしているところから始まります。しかし、それは彼の思い出であり、水車小屋で目を覚ましたイワンは沼地を渡り、鉄条網をくぐりソビエト軍前線基地にたどり着くのでした。

ガリツェフ上級中尉はずぶ濡れの少年に質問をしますが、イワンは「ボンダレフが来たとグリャズノフ中佐に連絡して」としか言わない。半信半疑で電話をしてみると、中佐は「ホーリン大尉を迎えを出すから大事にしろ」と答えます。

中佐のもとに戻ったイワンは、自分が偵察してきたドイツ軍の情報を渡しますが、中佐は危険な仕事を進んでするイワンを、何とか学校に戻し教育を受けさせてあげたいと持っています。しかし、ドイツ軍に対する憎しみからイワンは頑なに学校行きを拒否するのでした。

ドイツ軍の攻撃が勢いを増してきて、ホーリンとガリツェフはイワンを川の対岸の敵陣に偵察に送り込むことになります。川を渡ったところで、イワンは夜の森の中に消えていきました。そして、それがイワンの姿をみた最後でした。そして、戦争が終わって、ベルリンでガリツェフは処刑者名簿の中に、前を強い眼光で睨みつけるイワンの写真を発見するのでした。

最前線を舞台にしていながら、積極的な戦闘シーンは無い映画で、度々発射される曳光弾、基地が爆撃されるところ、川を渡る船が機関銃で狙われるところ、川辺にドイツの墜落した戦闘機の残骸があることくらいが、戦争中であることを示しています。

イワンは夢の中ではとてもこどもらしく楽し気にしているのに対して、現実の厳しい世界では薄汚れて痩せこけて、そして何もしないのは役立たずだと言い放つ。その対比によって、戦争が及ぼす悲劇を描き出しています。

カメラは動かずに俳優を大きく移動させることで場面転換をはかったり、タルコフスキーの特徴である鏡を使ったり、水面のイメージによって、イワンの心の表と裏をあらわしています。台詞を排した動きの少ないシーンや長回しの映像も、逆に緊張感を強めていく効果があります。

また、ホーリン大尉は美人の看護中尉のサーシャに手を出そうとするシーンが興味深い。白樺林という美しい背景の中で比較的長い時間を使うこのシーンは、血生臭い戦争とも、主人公であるイワンの境遇ともほぼ無関係と言ってもいい部分で、検閲の厳しかったソ連でおそらく最も問題視されたことは容易に想像できます。

それでもこの長いシーンを映画の半ばにはずさなかったのは、戦争によって焼け焦げた木、そして希望のないイワンの未来を象徴するかのような川辺の暗闇の中の木々と白樺の美しさとのコントラストを鮮明にすることにあることは間違いない。

表向きにはドイツの悪行によりソビエトの少年に降りかかった悲劇を通して反戦を訴えているのですが、タルコフスキーにとってはソビエトもロシアも関係なくより美しい物に対する憧憬が主題にあったと思います。そういう意味で、それのでのメディアのパッケージはイワンの顔が中心でしたか、最新のブルーレイ、DVDのパッケージが白樺林にデザインされたのは象徴的かもしれません。