2008年1月14日月曜日

あなたの心に斉藤さん

自慢じゃありませんけど、自分は怒らない。というか、怒っていてもできるだけ我慢します。けっこう、顔には出てしまうようですが、見た目だけは笑顔一番を崩さないように気持ちの上でがんばっているつもり。こどもたちに対しても年に数回怒鳴る程度だと思います。怒りすぎると「うざい父さん」になってしまいますが、他人に対しては数年に一度です。というか、最後にあからさまに怒ったのは、前の大学病院に勤めていた時なので、おそらく10年くらい前ですね。

この時は、外来で診察中に使っていたカルテをいきなり看護士が後ろから取り上げたんですよ。誰かのカルテを探していての行為だったのですが、「ちょっと、すみません」の一言もなければ、立ち去るときの挨拶もない。患者さんの前でしたが、というより患者さんがいるだけに激怒しました。もっとも、そんな論外の非常識人ですから、こちらが怒鳴っても意に介する気配もなく、結局怒鳴り散らした自分だけが騒いでいるみたいな結果になってしまいました。それで、後でかなり落ち込んだのを覚えています。両者の価値観の違いが決定的だということですよね。

目には目を、歯には歯をみたいなことは、価値観が同じ者同士の場合には、結局双方を傷つけるだけです。価値観の違いがある場合には、平行線のままで、怒鳴っても何の解決にもならないわけで、どっちにしても「怒った方が負け」みたいなところがあるんじゃないでしょうか。

ここ何年かで「切れる」という言葉が定着しましたが、それ相応のことがあって怒鳴るのとは違い、通常どうということもないような事柄に対して怒りを露わにすることを意味しています。たいていは自分の好き嫌いというようなところがきっかけにあるわけで、周囲の状況の中で自分をコントロールできないということでしょう。そこにあるのは自分の価値観だけで、それでは社会生活を送るようになったヒトではなく、ただの野生動物と同じということになってしまいます。

というわけで、長い前書きになってしまいましたが、今週は自分としては珍しくテレビドラマをけっこう見てしまったのです。その一つが「斉藤さん(日本テレビ)」。社会のルールを守ることを重んじ、悪いことは悪いと公言してはばからない斉藤さんの話。

面白いのは、ふつうの長いものには巻かれるタイプの主婦が狂言回しになっていて、そこへ斉藤さんがからんでくるという設定です。斉藤さんを中心に話が進むと、絶えず怒鳴り散らしている場面ばかりになってしまいそうですから、これはなかなかいい設定ではないでしょうか。社会のルールをうまく利用したり、あるいは回避したりする小市民的な部分は誰にでもあるわけで(自分も少なからず小市民ですが・・・)、そういう部分を目立たせておろおろしている主婦=自分という視点から、時々出てくる斉藤さんの物怖じしないパワーをどう見るか? うらやましいと思うか、うっとうしいと思うか、気がつかなかった自分の正体をはっきりと自覚できるかもしれません。

もっとも世の中のすべてのヒトが斉藤さんになったら・・・・何の問題もありません。整然と秩序の守られた社会となるでしょう。ただ、本来はお互いに「斉藤さん」のことはわかっていて、うまく融通をつけながら、社会生活をしていくことが思いやりにもつながるのではないかと思います。つまり、斉藤さんは本来表には出てきてはいけない、出てこないでいい社会が望まれるのかな、と思います。

明日のニュースは毎年恒例になってきた「荒れる新成人」となることだと思いますが、彼らは「斉藤さん」をどう見るのでしょうか。

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