2008年1月3日木曜日

ハバラとアキバ

この2つの言葉の差は大きい(いや、大きいと思いたい。大きな差があって欲しい)、と思っているのは自分だけでは無いはずだ。あざみ野棒屋先生は広島の地で遠く東京の秋葉原に憧れていた少年であったことを告白しているが、その憧れの地秋葉原の通り名が自分の場合はハバラなのである。

自分は中学から高校の時にアマチュア無線の部活をしていた。しかし、「CQ、CQ、こちらJA1×××・・・」ということはいっさいやっていない。じゃあ、何をしていたのかというと、ひたすらハバラに通い、トランジスタ、コンデンサー、抵抗などを買ってきては理科室で基盤に回路を書いては塩化第二鉄溶液で余分な銅を溶かす。そこへ1mmのドリルで穴を開けたら、各電子部品をハンダ付けしていくわけである。愛読書は「トランジスタ技術」という点は棒屋先生と一緒なのだ。

以前にも書いたと思うが、同級生にブレーンがいて、主として彼が回路を設計する。自分たちは兵隊となって肉体労働をこなすのである。それで、できた物は・・・例えばシンセサイザー。今でこそちっぽけに集積回路にどーんっと詰め込まれ、中国製の縁日の安物のおもちゃにも搭載されているが、当時はKeith Emersonや富田勲で有名になったmoog synthesizerしかない頃で、6畳くらいのスペースにいっぱいの機械が必要で何百万という超近代楽器なのだ。なんとか2音の和音が出せる程度のものが出来上がった。

それから、コンピュータ。といっても1ずつ足し算していく、いわゆるカウンター程度のものだったが、それでも10cm×20cm程度の基盤が数百枚必要だった。当時ICと呼ばれる集積回路が出始めたころだったが、我々のようなこどもが使える値段ではなかったので、ひたすらトランジスタで組んでいったのである。これらに必要な部品は秋葉原で何でも揃った。

ラジオデパートとかラジオ会館という長屋みたいな狭苦しい壱間間口の店が並んでいるところで、掘り出し物を求めて歩き回るのである。当時はLAOXはまだ朝日無線とい名前だったっけ。ちょっと高いオーディオ製品を買う時は、こっちで値段交渉。隣に行って「隣ならいくらにするよ、と言っているけど・・・」ともちかける。また戻って・・・を繰り返す。そして最後に「帰りの電車賃だけまけて」と泣き落としにかかるのが礼儀なのだ。

ところが最近はアキバというのが普通であり、それはまさにオタクの聖地としての呼び名になっているわけだ。どうもこれはバブル崩壊によって、秋葉原のような高額電化製品でなりたっている街は崩壊の危機に瀕したことに端を発するようである。パソコンの普及が救世主となり、いわゆるパソコン通信という匿名文化が発生し、インターネットが拍車をかけた。アニメを中心としたマルチメディア文化の花が咲き、そしてメイド喫茶の楽園になったのだ。このあたりの街の歴史はホームページに詳しいので、興味のある方は是非一読をお勧めする。

ハバラはアキバへ進化したのではなく、アキバに飲み込まれてしまったのである。

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