世間では「お医者様」という表現がよく使われ、社会的な信用が大きく、高給取りの代表のような扱いを受けることがしばしばあります。でも、自分が医者になって20数年たつのですが、少なくとも知る限り給与は変わっていません。20年以上もですよ。うっそー、ほんとぉ?、やっだぁ~(古すぎ)といわれるかもしれませんが、実際そうなんですよね。
卒業したT大学での研修医の初任給は基本給5万円+住宅手当2万5千円-源泉徴収でした(当直料0円)。2年目で基本給が7万5千円にあがります。3年目から基本給が14万円くらいになり、やっと当直料がつくようになりました。自分の医局の教授は2年目まではバイト禁止としていたので、3年目からは週に1日研究日と称して、外の病院でバイトができます。そうすると月に30万円くらいの収入アップとなります。
その後、外の病院に出向すると年収で1000万円程度になるわけですが、結局年々上がることはなく、また、1年から2年単位で勤務先が変わるので、退職金は関係がありません。15年間たつて、大学を移籍したときの退職金は数百万円でしたが、これは毎月とられていた退職金の積み立て分でした。
東京の大学に移ってみると、もっと悲惨で年収は600万円程度でした。バイトが命となります。住宅ローンはどーすんだ。さて、開業してみると・・・いまだに所得税を払わなくてもいい状態なわけで、ひたすら当直してなんとか生活しているとい状況ですもん。
でも、ここは愚痴を書いているわけではないのでして、それぞれの時期は自分を形成していく過程で必然があったことなのです。研修医は医者としてのスタートとして、欠くことはできない時期でした。整形外科医として充実させてくれたのは、出向先の勤務だったし、数年ごとに大学に戻ると、知識をアップデートすることができたのです。そして、扱う範囲を大幅に広げてくれたのが東京の大学なわけで、結局開業する下地を作らせてもらえました。そして、開業は最終的な自分の目標な訳で、大学のブランド力に頼らず自分の力で、直接医療を行う環境です。患者さんをよくも悪くもするのも、自分の腕一つ。
それぞれの環境では、自分を支えてくれる多くの人々がいるわけで、また期待してくれる方々に出会います。それがあるから、がんばれるわけです。自分のスタイルが出来上がってくると、ぶつかることも出てくるわけですが、それぞれの立場の違いを理解する努力を惜しまなければ、たいていのことはポジティブな方向へと動いてくれるものだと思います。天につばを吐けば自分に返ってくるわけで、逆に相手を思いやれば自分にもよくしてくれるもので、自分は性善説で物事を考えたいと思います。
ちょっと違う話かもしれませんが、六代目三遊亭圓生の十八番に「百年目」という演目があります。人情噺のような落語なのですが、華やかさもあり大好きな噺の一つです。大店の番頭は部下に小言ばかりを言うので嫌われていましたが、裏では遊びまくっているんです。それを知った旦那が、番頭に教え諭します。
一軒の主を旦那と言うわけを知っていますか。五天竺の中の南天竺に栴檀(せんだん)という立派な木がありました。根本にナンエン草という雑草が茂っていたので、ある人がナンエン草を取り除いたところ、栴檀は枯れてしまいました。ナンエン草は栴檀の露で育ち、そして栴檀の肥やしになっていたというわけです。栴檀が育つとナンエン草も育ち、持ちつ持たれつという関係だったのです。栴檀の「だん」とナンエン草の「ナン」から「だんなん」・・・「旦那」になった。店の中ではお前は栴檀、店の者がナンエン草。ナンエン草に露を降ろしてやりなさい。
← この記事が気に入ったらclickをお願いします