箱根の山は天下の険、と歌われた峠の方まではいきません。小田原から箱根に入っていくと、その入り口に当たるのが箱根湯本。箱根を観光で訪れる人々にとっては玄関口となる場所です。箱根湯本の駅前を国道1号を少し、東京よりに戻ったところに風祭というところがあります。
東名高速道路の厚木インターから小田原厚木道路、通称小田厚に入って終点。降りてすぐのところには、蒲鉾で有名な鈴廣があり、そのすぐ横に箱根病院という古びた病院があります。
ここが、浜岡の近代的な病院の次に大学からの出向で赴任したところ。何しろ戦争中に作られた病院で、当時ですでに50年近くたっているわけで、その古色蒼然とした歴史的な風合いといったら相当な物でした。
もともと脊髄損傷の専門病院として始まったのですが、それ以外に神経難病の患者さんも入院していました。脊髄損傷の患者さんは、大学病院などで急性期治療が終わるとリハビリテーションの目的で転院してきます。
そろそろ、この先一生続く半身不随という状態に対する精神的なショックから立ち直りかけてきた若者が多いので、整形外科病棟は比較的明るい雰囲気でしたが、内科病棟は違いました。ほとんどの患者さんは、少しずつ筋肉が動かなくなって、しだいに呼吸もできなくなり、間違いなく死を待つことになる。患者さんも、それを知っているわけですから・・・
一番の特徴は、いわゆる傷痍軍人の方が入院しているということ。とは、いっても戦後ずいぶんと立ちますから、当時残っている元軍人の方はわすがに3人程度。家族と一緒に離れの西病棟というところに「住んで」いたわけです。
本棟から山道のようなところを5分ほど歩いて西病棟に到着し、毎日ご機嫌を伺うというのが自分たちの日課です。晴れている時はちょっとした森林浴みたいなもので気分転換にもいいのですが、雨が降るとぬかるんだ道を向かうのは気が重い。
病院の廊下には売店があって、普通に病院にありそうなもの以外に、野菜とか漬け物とかも売っていました。さて、そこへやってくるギャングがいたのです。裏山から猿がやってきては、売店の売り物をかっさらっては逃げていくということが日常的に見られました。
もう一人、一緒に出向した後輩がミリタリーマニアだったので、いろいろなエアガンを所持していました。彼は、それを持ってきて、売店のおばさんの悲鳴が聞こえると、ロッカーからエアガンを取り出して、脱兎のごとく猿を追跡。しばらくすると、息を荒げながら「取り逃がしました」と戻ってきたりします。
整形外科の回診というと、ほぼすべてが脊髄損傷の患者さんですから、一番毎日気にして見て回るのがお尻。つまり床ずれ、褥瘡(じょくそう)ができていないかチェックすることが大事な仕事の一つでした。
手術も当然、床ずれの手術ばかり。簡単な物は、洗って一部を切除して縫合するだけですが、中には皮弁や筋肉皮弁と行った形成外科的なテクニックを要する物もけっこうあって、けっこう勉強になりました。
最初はなかなか違和感があったのが、麻酔をしないでいきなり手術が始まるということです。つまり、脊髄損傷の患者さんはお尻はたいてい痛みの感覚が無くなっているので、麻酔の必要がないわけです。
さらに驚いたのは、患者さんの夕食の時間。午後4時からというのは、そうとう早い。これじゃ、リハビリに精を出した若い患者さんは、夜お腹が減ってしょうがない。実は、この病院は国立病院で、一般職員は5時には仕事を終えなければならなかったため夕食時間が早まっていたのです。
公務員は数年で移動していくので、何かを改善しようとしても、結局予算がつくのは来年で、その結果が出るときには転勤となってしまう。ですから、よけいなことは極力したくないという雰囲気がありありとあって、随分とやりにくい思いをしました。
前の年が地方公務員で、この年は国家公務員を経験し、また他の病院では絶対にお目にかかれない患者さんばかりを診療できたことは、今の自分の基礎を形成する一部になっていることは間違いないわけです。
最後の西病棟の回診の後に、かなり年老いた婦長さんから一本の折りたたみ傘を記念いただきました。この傘は、だいぶ痛んできましたが最近まで現役で使わせてもらっていました。
おそらく、もう傷痍軍人さんもみなさん亡くなっていることでしょう。二度と経験することができない、ずいぶんと得した一年だったと思い返せます。