昭和の人間としては、富士山の山頂に球体の気象レーダーがあるのはごく普通の事でした。晴れた日は、球体のドームが太陽光を反射したため東京からでもわずかに見えたものです。
もともと昭和11年に、気象庁は富士山山頂の最も高い剣が峰に測候所を設置していました。しかし、昭和34年の伊勢湾台風による被害の大きさから、新たに高精度のレーダーを富士山に建設することを発案し、やっと昭和37年に計画が動き始めます。
運用が開始されたのは昭和39年のことで、平成11年に気象衛星の台頭により役目を終え、平成13年に富士吉田市内に記念館として移設されました。標高3776m、日本で一番高い富士山の山頂にレーダーを設置すると言うのは、当然難工事であり、大変な苦労があったことは容易に想像できます。
監督は村野鉄太郎、製作には当然石原裕次郎が名を連ね、音楽は黛敏郎が担当しました。予算が通ったところから運用開始までを、小説では気象庁の葛木中心に展開する物語ですが、映画では実際に工事を請け負った三菱電機の梅原が主人公に変更されて描かれています。
昭和38年度予算として富士山レーダーが通過すると、気象庁の葛木(芦田伸介)は、工事の入札に向けて説明会を行います。その場で、三菱電機の技術者、梅原(石原裕次郎)は地盤調査などの基礎データが無いことを指摘し、自ら競合他社にも結果を知らせる条件付きで調査のために富士山に登りますが、寒さと薄い酸素に苦しむのでした。
工事ができるのは昭和38年と昭和39年の夏の間のそれぞれ2か月間だけで、しかも天候が不安定な山頂では実質的に工事が可能なのはその半分程度という厳しい条件に、他社は入札から下りてしまい、結局三菱電機と大成建設が一括して引き受けることになりました。
昭和38年、雪解けとともに荷揚げ作業が始まりました。測候所建設の例にならって、五合目までトラック、7合目まで馬、それ以上は人力が頼りですが、馬方組合長の村上(勝新太郎)は、伝統ある馬を捨て新たにブルトーザーを導入して作業の効率化を図るのでした。
しかし、工事が始まると、大成建設の伊石昇(山﨑努)がどんなに説得しても、辛い現場に作業員たちが全員音を上げて去ってしまいました。そこで、村上は麓の町から若者を募り、作業が再開されました。そして工程の遅れの中雪が舞い落ちる時期になり、工事はいったん休止することになります。
昭和39年の工事再開により、一番の問題はレーダーを保護しカバーするドームの運搬でした。梅原は朝日ヘリコプターに相談します。ドームの骨格は600kgほどもあり、山頂付近は乱気流が発生しやすいためかなり危険を伴いますが、パイロットの加田雄平(渡哲也)はそれを承知で引き受けました。加田は連日待機し、気象条件が整ったタイミングを逃さず、ドームを山頂に運ぶことに成功します。
工事はほぼ終了し、梅原は電波試験と認可を待つだけとなりましたが、ちょうどそこへ台風が接近し、認可前でしたが葛木は稼働を許可します。レーダーはしっかりと台風の動きをキャッチし、また予想以上の100m/秒の風速にもドームは耐えることが実証されたのでした。
石原、渡は当然としても、昭和の名優たちがこぞって出演しているのは驚かされます。主要キャスト以外に、佐藤允、中谷一郎、市原悦子、星百合子、東野英治郎、神山繁、加藤武、田中邦衛、鈴木端穂、宇野重吉などなど。若き日の古谷一行、浜田光夫、露口茂らも登場します。
実際に富士山中心にロケが行われ、映画のためにもう一度レーダードーム建設を再現しているところは石原プロの意気込みがよく表れています。この仕事がどれだけ難工事であったかがよく理解できるし、それを映画として残した石原裕次郎の偉大さが偲ばれます。
ただし、ストーリーとしては起伏が少なくドラマ性はやや下がる。この頃の映画としては標準的なスターをしっかり映すという絵作りのせいで、表情だけをとらえた長めのショットが多く冗漫な印象は拭えません。また、ドーム完成、実用化成功で終わればめでたい雰囲気で締めくくれるのに、実は最後に葛木が独断采配の責任を取って左遷させられるところで終了というのも切ない。
いずれにしても、日本の高度経済成長のシンボルの一つとして、富士山レーダーは長く記憶に残るものであると思いますので、映画として記録されたことはたいへん意義深いと思います。ちなみにこのプロジェクトの実際の気象庁の中心人物は、気象庁観測部測器課補佐官であった藤原寛人で、実は「新田次郎」その人です。
石原、渡は当然としても、昭和の名優たちがこぞって出演しているのは驚かされます。主要キャスト以外に、佐藤允、中谷一郎、市原悦子、星百合子、東野英治郎、神山繁、加藤武、田中邦衛、鈴木端穂、宇野重吉などなど。若き日の古谷一行、浜田光夫、露口茂らも登場します。
実際に富士山中心にロケが行われ、映画のためにもう一度レーダードーム建設を再現しているところは石原プロの意気込みがよく表れています。この仕事がどれだけ難工事であったかがよく理解できるし、それを映画として残した石原裕次郎の偉大さが偲ばれます。
ただし、ストーリーとしては起伏が少なくドラマ性はやや下がる。この頃の映画としては標準的なスターをしっかり映すという絵作りのせいで、表情だけをとらえた長めのショットが多く冗漫な印象は拭えません。また、ドーム完成、実用化成功で終わればめでたい雰囲気で締めくくれるのに、実は最後に葛木が独断采配の責任を取って左遷させられるところで終了というのも切ない。
いずれにしても、日本の高度経済成長のシンボルの一つとして、富士山レーダーは長く記憶に残るものであると思いますので、映画として記録されたことはたいへん意義深いと思います。ちなみにこのプロジェクトの実際の気象庁の中心人物は、気象庁観測部測器課補佐官であった藤原寛人で、実は「新田次郎」その人です。