2023年9月17日日曜日

魔界転生 (1981)

原作は伝奇小説作家の山田風太郎。歴史上、相まみえることがなかった剣豪たちが次から次へと登場する様は、まさに山田ワールドの面目躍如というところ。当時、映画界に進出し旋風を巻き起こし、山田本の出版に力を入れていた角川書店が、角川映画で初めての時代劇物として東映に白羽の矢を立てて制作したのがこの映画です。監督は「仁義なき戦い」シリーズの深作欣二で、角川では「復活の日」続いての参加。

キリスト教徒弾圧に立ち上がった天草四郎時貞(沢田研二)は、島原の乱で敗れ多くのキリシタンと共に晒し首にされました。悪魔ベルゼブブによって復活した四郎は幕府に対する復讐のため、次々に現世での無念を残して死んだ者たちを魔界衆として蘇らせるのです。

豊前国小倉藩藩主、細川忠興(松橋登)の正室で、夫に裏切られ壮絶な最期を迎えた細川ガラシャ(佳那晃子)

剣豪として名を知られるも、名高い柳生但馬守宗矩とその息子の柳生十兵衛光厳と剣を合わせることなく死を迎えた宮本武蔵(緒形拳)

僧侶にもかかわらず槍の名手でしたが、女性に対する煩悩を捨てきれず亡くなった宝蔵院胤舜(室田日出男)

伊賀の隠れ里で修行に勤めるも、甲賀の襲撃により仲間もろとも惨殺された霧丸(真田広之)

彼らを率いた四郎が東上する途中、彼らと出会った柳生十兵衛(千葉真一)は、亡くなったはずの者たちに驚き、ただちに柳生但馬守宗矩(若山富三郎)に書面を送ります。ガラシャは四代将軍、徳川家綱(松橋登)に近づき大奥に入り、その魔性の魅力に家綱は籠絡されます。

宗矩はガラシャが魔界衆であると見破り、村正(丹波哲郎)に魔界の者を切るための妖刀を作らせ、江戸城に向かいますが、胤舜との戦いで相打ちとなり命を落とす。四郎は、宗矩が同じ剣術家として十兵衛と戦うことなく死ぬ無念を見抜き、宗矩を魔界に引きづり込みます。

父が魔界に落ちたことに愕然とする十兵衛に、村正は自らの命と引き換えに新たに妖刀を打ち授けました。その頃、四郎は年貢に苦しむ農民たちを先導して、江戸に向けて百姓一揆を起こさせました。しかし、善の心を捨てきれない霧丸が逃亡しようとしたため、四郎は霧丸を鞭で絞殺してしまいます。さらに十兵衛のもとに現れた武蔵は、勝負を挑みますが妖刀によって倒されます。

江戸城では、ガラシャが寝言に細川忠興の名を口にしたことから、家綱と言い争いになり、倒れた蠟燭の火が次々と広がっていました。城にたどり着いた十兵衛でしたが、巻き起こる炎の中で行く手を阻んだのは宗矩でした。両者の熾烈な戦いの末、何とか宗矩を倒した十兵衛でしたが、その眼前に四郎が出現し魔界に誘うも、紅蓮の炎に中で十兵衛は四郎の首をはねるのでした。

歴史上は、登場する人物が時代的に前後しますので、一応整理してみます。霧丸だけは、映画だけのフィクションです。

島原の乱 1637~1638年
天草四郎時貞 1621~1638年
細川ガラシャ 1563~1600年
宮本武蔵 1584~1645年
宝蔵院胤舜 1589~1648年
徳川家綱 1641~1680年
柳生但馬守宗矩 1571~1646年
柳生十兵衛 1607~1650年

江戸城焼失の明暦の大火は1657年なので、宗矩はすでに亡くなっていますが、地獄から蘇らせたガラシャは一時代古いのはOKで、他の登場人物ももしかしたら出会うことがあったかもしれないという、ある種の歴史ロマンみたいな妄想が成り立つところが面白い。

原作は、もっと魔界衆の数が多いのですが、映画化に当たって絞り込めるだけ絞って、彼らの背景なども削りに削って、十兵衛対魔界衆の戦いに集中した2時間になっています。そのため、どこかせわしない印象はありますが、時代劇エンターテイメントと割り切った潔さは評価できるところだと思います。

中性的な沢田研二の魅力がうまく引き出されて、千葉真一の切れのあるアクションも見どころ。特に千葉と若山の殺陣は時代劇史上屈指の名演です。幻想的なシーンでの特殊効果の合成などはまだまだ完成度は低いですが、二人の炎の中での対決は、実際にセットに火を放ち間近で燃え上がる炎の中で撮影されたもので、CGでは出せない本物を感じます。